■第83話 大海原への挑戦編 赤いバンダナ
平穏は、いつも予告なく終わる。
黒い影が水平線から這い出したとき、笑い声は波に飲み込まれた。
恐怖が甲板を覆い、小さきものたちは知った——海には、牙がある。
■ 三日目の朝——しあわせの重さ
三日目の海。
陽が昇り始めた水平線から、金色の光が波間を踊りながら広がっていく。朝の穏やかな潮風が帆を優しく揺らし、白く膨らんだ帆は光を受けて輝いていた。世界がすべて海で満たされているかのような、果てしない青さだった。
甲板では、三人の小さな手が忙しく動いていた。ロープを結び直したり、甲板を磨いたり。昨日までの緊張はすっかり消え、それぞれの顔には余裕の笑顔が浮かんでいる。
「もうすっかり板についてきたやんか、さくや!」
リアンがからかうように言うと、さくやは得意げに胸を張った。
「当たり前やん!うちの「もやい結び」、もう完璧やで!」
「拙者も波に転ばされなくなったでござる!」
ジュウベェも誇らしげに言う。二日前、舵を逆に切って「無念……切腹……」と呟いていたのが嘘のようだった。
「今日もええ風でござるな!」
ジュウベェが帆を見上げながら満足そうに言う。風向きも潮の流れも完璧で、これ以上ない航海日和だった。
誰もが、この航海がずっと続けばいいと願っていた。小さな船の上に築かれた、小さいけれど確かな幸せ——それが永遠に続くと信じて疑わなかった。
■ 水平線の、黒い影
しかし、その平穏は突如として破られた。
「な、なんやあれ……」
見張りに立っていたさくやが、震える声を上げた。いつもの元気な声とは全く違う、恐怖に満ちた声だった。
水平線の向こうから、黒く巨大な影がゆっくりと迫ってきている。最初は小さな点にすぎなかったそれが、徐々に船の形を現し、やがてその異様さが明らかになった。
帆は所々裂け、破れた布が風にバタバタと暴れている。船体には深い傷跡が無数に刻まれ、まるで巨大な爪で引っ掻かれたようだった。マストの上では、ボロボロの旗が今にも千切れそうに揺れている。
「あれ……船やけど……なんか、変でござる」
ジュウベェが眉をひそめた。普通の船ではない。まるで地獄から這い出てきたような禍々しさを纏っていた。
リアンは慌てて舵を握り直した。逃げるべきか。しかし黒い船は驚くべき速度で接近してくる。風の向きから考えれば不可能なはずの速度で、まるで海そのものに押し流されているかのようだった。
「みんな、落ち着いて!」
さくやが声を張り上げたが、その声にも不安が滲んでいた。
縄が弧を描いて飛んできたのは、その次の瞬間だった。船縁に引っかかり、ぎりぎりと張り詰める音が、甲板に不吉な響きを立てる。
■ 赤いバンダナが、来た
——どぉおおおん。
鈍い衝撃が甲板を震わせ、三人が体勢を崩した。船体同士がぶつかり合う音が、雷鳴のように響く。
そして次の瞬間、異様な者たちが飛び込んできた。
全員、赤いバンダナを巻いている。黒ずんだ海賊服に身を包み、顔は煤けて汚れ、目だけがギラギラと光っていた。
「よお、坊主ども。おとなしくしてたら痛い目には遭わせへんで」
リーダー格の一人が、低い声で言った。口元には薄い笑みが浮かんでいる。余裕のある、慣れた笑みだった。
恐怖が甲板上の空気を凍らせた。
「……リトルレッド……」
リアンが震える声で呟いた。顔が青ざめていく。
「リアン、知っとるんか?」
さくやが問うと、リアンは小さく頷いた。
「海を縄張りにする海賊や……逆らったらあかん……」
その言葉が甲板に落ちた瞬間、全員の時間が止まった。
リトルレッド——かつて小さきものたちの間で語り継がれる、恐怖の影。海を縄張りにし、行く手を阻む者を力ずくで従わせる。彼らに狙われた船で、無事に帰れた者はほとんどいないという。
海の都市伝説だと思っていた存在が、今、目の前にいた。
■ 抗えない波
「逃げて!」
さくやが叫んだが、既に遅かった。リトルレッドたちは巧みに退路を断ち、三人を追い詰めていく。まるで狩りに慣れた狼の群れのような、計算された動きだった。
「くっ……なんでやねん……っ!」
さくやが歯を食いしばって抵抗しようとするが、次々と麻袋が被せられていく。
「はっはっは!元気があってよろしいな」
リトルレッドの一人が笑いながら言う。慣れた手つきで、さくやを麻袋に押し込んでいく。
「拙者を離せーでござる!!」
ジュウベェが勇敢にも立ち向かったが、三人のリトルレッドに囲まれ、あっという間に麻袋に詰め込まれてしまう。
「拙者……無念……切腹……」
くぐもった声が、麻袋の中から聞こえた。
「切腹?おもろいやつやな」
リトルレッドの一人が笑う。
リアンは舵にしがみつき、恐怖で体が震えていた。リトルレッドたちは彼を見ている。しかし、なぜか手を出さない。
「……なんで、わしだけ……」
リーダー格がリアンをちらりと見て、あっさりと言った。
「お前は邪魔やないから、ここに置いといたるわ」
それだけだった。深い理由など、何もなかった。
わずか数分の出来事で、さくやもジュウベェも消えてしまった。白い帆の船には、泣きじゃくるリトルリアンだけが取り残された。海賊船は笑い声とともに去り、残されたのは静かな風と波だけだった。
■ 一人の帰港
港に戻ったのは、陽が傾き始めた頃だった。
いつもなら三人の笑い声で賑やかなはずの船が、死んだように静まり返っている。リアンは船の縁にしがみつき、海をじっと見つめていた。唇を噛み、言葉を発せずに立ち尽くしている。
あの楽しかった三日間が、まるで夢だったかのように感じられた。蝶々結びで笑ったこと。舵を二人に教えたこと。波に転ばされながら笑い合ったこと。すべてが遠い昔の出来事のように思える。
船が着岸すると、港に残っていた小さきものたちが駆け寄ってきた。
「おかえり——あれ?二人は?」
期待に満ちた声が港に響く。しかしリアンはよろよろと甲板を降り、震える指で海を指さすだけだった。
「……赤い、バンダナ。いっぱい、来た……」
その言葉が港に響いた瞬間、誰もが息をのんだ。
報告はすぐに無線で師匠と爆音社長のもとへ届いた。
無線の向こうで、爆音社長の声が変わった。いつもの明るい声ではない。低く、硬く、怒りを押し込めたような声だった。
「……許されへんわ」
師匠の声も、静かだが張り詰めていた。
「リアン、無事でよかった。見たことをすべて教えてください」
リアンは小さく頷いた。そして震える声で、あの恐ろしい出来事を話し始める。
赤いバンダナの海賊たち。さくやとジュウベェが麻袋に詰め込まれていく様子。自分だけが残されたこと。
無線の向こうがしばらく沈黙した。
「……わかりました。必ず策を講じます。待っていてください」
師匠の声は静かだったが、その言葉には揺るぎない重さがあった。
「アタシも絶対に取り戻したるわ。知恵絞って、必ずなんとかするから!」
爆音社長の声に、怒りと決意が滲んでいた。助けに行けない。だからこそ、知恵を尽くす。それが二人にできる、精一杯の答えだった。
■ 夜、決意が灯る
夜が更け、港は静寂に包まれた。
リアンは一人、船の甲板で海を見つめていた。月明かりに照らされた海面が、銀色に揺らめいている。昨日まで美しく見えた海が、今は恐ろしい存在に思える。
「さくや……ジュウベェ……無事かな……」
小さなつぶやきが、夜風に運ばれていく。蝶々結びで笑ったジュウベェの顔。「任しとき!」と言ったさくやの声。思い出すたびに、胸が締めつけられるように苦しくなった。
無線の向こうでは、師匠と爆音社長がまだ話し合いを続けていた。
赤いバンダナの影は、確かに恐ろしい。しかし、小さきものたちの絆は、その恐怖よりもずっと強いものだった。
——明日からの戦いが、それを証明することになるだろう。
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