■第210話 遥かなる光編 霧の中の村
霧だった。
三歩先も見えない白い壁が、竹林を覆っている。
何かが、ずっとこちらを見ていた。
■白い壁
「この霧、ホンマに深いな……慎重に進むで」
呼吸するたびに冷たい湿気が喉に絡みつく。竹林の匂いと土の匂いが鼻腔を満たす。
「離れんなよ。はぐれたら見つけるのに半日かかる」
ラーシュの低い声が、霧の向こうから響いた。
周囲を囲むパンダたちは無言で前を進む。十頭の巨体が音もなく歩む。傷は完全に癒え、その足取りには迷いがない。
カサリ。
頭上で竹の枝が揺れた。
ラーシュが腰の武器に手をかけた。
パンダたちは動かなかった。ただ、のんびりと立っている。
ラーシュがパンダを見た。
「……お前ら、知ってるのか」
パンダの一頭が、ゆっくりと頷いた。
ラーシュが手を離した。
「……そうか」
「敵意はない。ずっとついてきてる。観察してる」
「どれくらい前から?」さくやが聞いた。
「竹林に入ってからずっとだ」
ユーリが舌打ちした。「全然気づかなかった」
「気づかせへんように動いてるんや。プロや」
一頭のパンダが立ち止まった。
次の瞬間——霧が、晴れた。
■岩山の啓示
誰も言葉を発しなかった。
雄大な岩山が聳え立っていた。鋭く切り立った峰々が天を突き刺し、白い岩肌が朝日を受けて輝いている。山頂は霧のベールに包まれ、その姿は神秘的だ。
岩肌には、長い年月をかけて刻まれた無数の筋が走っている。雨水が作った溝、風が削った窪み。その一つ一つが、山の歴史を物語っていた。
山の中腹から、細い滝が流れ落ちている。水は岩を伝い、霧の中に溶け込んでいく。その音だけが、静寂の中に響いていた。
「……綺麗や」
さくやが呟いた。
「麓を見ろ」ラーシュが言った。
村だ。
岩山の斜面に沿って、竹と石の家屋が点在していた。山の傾斜に合わせて段々に並ぶ家々。その間を縫うように、細い水路が流れている。木製の水車がゆっくりと回り、水の音が静かに響く。
家々の屋根は竹を編んで作られ、苔が生えているものもある。それが山の緑と溶け合い、まるで岩山そのものが村を抱いているようだった。
霧が流れるたびに、村の輪郭が現れたり消えたりする。
「こんなところに村が……」
ユーリが呟いた。村には動くものが見えない。
しばらく、静寂が続いた。
パンダの一頭が、村の方を向いてゆっくりと頷いた。
それが合図だったのか——
家の陰から、小さな頭がひょこりと覗いた。
黒髪を束ねた、カンフー着の小さな身体。こちらをじっと見ている。目が合うと、すぐに引っ込んだ。
「……いるな」さくやが小声で言った。
しばらくして、また顔が出た。今度は引っ込まなかった。
やがて、別の陰からも顔が出た。橋の下から。屋根の上から。木の陰から。
一人、二人、三人——
「パンダ師匠アル……?」
小さな声が聞こえた。
パンダが大きく頷いた。
その瞬間——百人が一斉に飛び出してきた。
■百人のシュウメイ
黒髪を束ね、カンフー着を纏った小さな身体。あっという間にさくやたちを取り囲んだ。
「パンダ師匠アル!!」
百人の声が重なった。
その中の一人が飛び込んできた。
「あなたたち、パンダ師匠を助けた人アルね!見てたアル!血だらけになってたアル!でも諦めなかったアル!すごいアル!尊敬するアル!」
ドストレートすぎる賞賛に、さくやが苦笑する。
「ずっと観察しとったんか」
「観察アル!」シュウメイは胸を張った。「私たち、パンダ師匠の弟子アル!恩人には恩返しするアル!全力で!」
その笑顔は純粋そのものだった。
さくやは思わず笑った。「あんた、面白いな。名前は?」
「シュウメイアル!」
「よろしゅう、シュウメイ」
「よろしくアル!」
小さな手が力強くさくやの手を握った。
その時だった。
百人のシュウメイたちが、整然と並んだ。
そして——パンダたちに向かって、深々と頭を下げた。
静寂が広場を包んだ。
やがてパンダたちが、ゆっくりと頷いた。
■村の案内
「案内するアル!」
シュウメイたちに囲まれながら、村を歩き始めた。
さくやは設計士の目で観察しながら進んだ。
岩山の斜面を利用した段々の構造。上の段から下の段へ、水路が細く伸びている。水は高いところから低いところへ自然に流れる仕組みだ。よく考えてある。
「でも、上の方の家には水が届いてへんな」
「そうアル。上の家は毎日水汲みアル。大変アル」
「水路を上まで延ばせたら、全部の家に届くのに……」さくやが手帳にメモしながら呟いた。
「でも水は上に流れないアル」
「そこが工夫のしどころやな」
村を横切ろうとすると、深い谷間で道が途切れた。向こう側に家が数軒見える。
「あの家、どうやって行くんや」
「ぐるっと山を回るアル。片道三十分アル」
「橋があれば一分やな」
「橋、欲しいアル!でも作り方わからないアル!」
さくやがまたメモした。
村の外れに出ると、シュウメイたちが急な斜面を駆け上がっていく。
「どこ行くんや」
「畑アル!頂上は日当たりがいいアル!」
頂上に出ると、小さな畑があった。確かに日当たりが良く、土も豊かそうだ。しかし、ここまで来る道が急すぎる。荷物を背負って毎日登るのは、かなりきつい。
「毎日ここまで登るんか」
「登るアル!大変アル!でも野菜おいしいアル!」
さくやは頂上から斜面を見下ろした。
日光が当たりやすい南向きの斜面が、ずっと下まで続いている。
「……待って」
「どうしたアルか?」
「頂上だけ畑にするのはもったいない。この斜面、全部使えるんちゃうか」
「斜面は急すぎるアル。畑にできないアル」
「段ごとに平らな土地を作ったらどうや」さくやが手帳を取り出して、さっと線を引いた。斜面の断面図。段が積み重なり、それぞれの段に畑が広がっていく。「こういうことや」
シュウメイがじっと見た。
「……あっ」
「わかったか?」
「わかったアル!段々になってるアル!日光も当たるアル!」
「しかも水車と組み合わせたらどうや。水車で水を持ち上げて、高い位置に送る。サイフォンの構造も使えば、さらに上まで届く」
「サイフォン?」
「管を使って、一度高いところまで水を上げてから、また流す仕組みや。水車が動力になるんや」
エレナが横から口を挟んだ。
「水車の回転数と水路の角度を合わせれば……理論上は頂上まで届きます」
「理論上で大丈夫アルか?」
「やってみなわからんけど」さくやが笑った。「でも、絶対いける気がする」
「……理論値を超えました」エレナが呟いた。
「まだ作ってへんやろ」
シュウメイたちが騒ぎ出した。「食べ物、めちゃくちゃ増えるアル!!」
さくやは手帳に設計図を描き始めた。線が走り、段が生まれ、水路が繋がり、水車が回る。
「楽しそうアル……」シュウメイが覗き込んだ。
「楽しいで」さくやが笑った。「何もないところに、ものができていく瞬間が一番好きや」
帰り道、露天で食事をしているシュウメイたちを見かけた。雨が降ったら食事もできない。
「共同の調理場と食堂があれば、みんなで使えるのに」さくやが呟いた。
「食堂アル!?食べるところアル!?」
「そや。みんなが集まれる場所や」
「食堂アル!作るアル!!」
「落ち着け、順番があるんや」
さくやは手帳を見た。メモがぎっしりになっていた。
橋。水路の延伸と水車。段々の畑。共同食堂。
「やることが多いな……」
「全部作るアル!!」
「ありがとう。でも急がへんでええ。一つずつや」
■武道場
村の奥に、ひときわ大きな建物があった。
「ここ、あなたたちが泊まるところアル!本当は武道場アル!でも今日は特別に寝床にするアル!」
「いいのか?」
「大丈夫アル!明日から私たち外で修行するアル!雨降ったらびしょ濡れアル!」
「えっ、それは……」
「平気アル!風邪引いたら治すアル!」
悪びれもなく笑うシュウメイに、ユーリが頭を抱えた。
その隣で、レイナが両手を合わせていた。
「この村に神様の祝福がありますように……」
「レイナ、もう三回目の祈りだぞ」ユーリが苦笑する。
「だって、こんなに素敵な村なんですもの」
■月夜の予兆
夜。武道場の縁側。
月が昇り、霧が村を包む。幻想的な光景だった。
「いい村だな」ラーシュが呟いた。
「せやな。でもやることがいっぱいある」さくやは手帳を閉じた。「明日から始める」
背後でシュウメイが座った。
「眠れないアル?」
「ちょっとな」
シュウメイは月を見上げた。いつもの明るい声ではなく、真剣な声だった。
「岩山の向こうに虎がいるアル。パンダ師匠が襲われた、あの虎アル。時々、村の近くに来るアル。でも村は襲わないアル。ただ、痛そうに鳴くだけアル」
シュウメイは小さな拳を握りしめた。
「最近、様子がおかしいアル。夜、遠吠えするアル。聞いてて悲しくなるアル」
「調べる必要があるな」ラーシュが言った。
「でも危ないアル」
さくやは笑顔を見せた。「大丈夫や。私たち、パンダ師匠と一緒やし。あんたらも一緒やろ?」
シュウメイの顔がパッと明るくなった。
「そうアル!小さくても、力を合わせれば何でもできるアル!!」
月明かりの下で、三つの影が並んだ。
村の初日が、静かに更けていく。
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