■第103話 小さきもの大航海編 新たな日常と未来への歩み
世界は、気づいたら動いている。
押した覚えもないのに、
どんどん転がっていく。
■朝の南西拠点
師匠が地図を広げていた。
テーブルいっぱいに広げた航路図。北の国、火山島、リアンの島、エレナの港——繋いできた線が、いつの間にかひとつの網になっていた。指でなぞると、それぞれの場所での記憶がよみがえってくる。
「まだいろんな航路がありそうだね」
独り言のように言って、地図の余白に目を走らせた。まだ線が引かれていない海域がある。名前のついていない島がある。
そこへどたどたと足音がして、さくやたちが駆け込んできた。
「師匠、おはようございます!今日もいっぱいやることありますねっ!」
一拍置いて、
「完全にブラック企業ですっ!」
師匠が吹き出した。
「時代と逆行することに、新たな成長があると思うよ」
「はいっ!!!」
元気よすぎる返事だった。爆音社長が腕を組んだまま、ふん、と鼻を鳴らした。でも口元が少し緩んでいた。
研修所へ向かう道すがら、さくやがぽつりと言った。
「師匠って、楽しそうやなあ」
「そうやな」
「地図見てる顔、旅してる時と同じ顔してるもん」
誰も返事をしなかった。でも全員がそう思っていた。
■日本語教室
湖の北東にある研修所は、朝から人の気配がにぎやかだ。
各拠点から100人ずつが交代でやってくる。廊下ですれ違うたびに挨拶が飛び交い、食堂では知らない島の話が聞こえてくる。どこから来たのか、何を学んでいるのか、それぞれ違うけれど、みんな同じように忙しそうで、同じように楽しそうだ。
日本語教室では、OLさんが黒板の前に立っていた。
受講しているのはレイナ、リアン、レッドだ。三者三様の理由で来ている。レイナは師匠の拠点で日本語をある程度覚えたが、読み書きをちゃんとやり直したいと言った。リアンは「なんとなく」と言った。レッドは何も言わなかった。ただ席に座った。
「では今日はこの文章を声に出して読んでみましょう。リアンさんからどうぞ」
「え、オレから?」
リアンがのそのそと立ち上がった。
「『今日は……いい……てん、き、です』……合うてる?」
「読みはあっています。ただここのイントネーションが少し違いますね。日本語は音の高低が意味に影響することがあるので」
「イントネーションって、音の上がり下がりですよね」
レイナがノートを見ながら言った。予習してきたらしい。
「そうです。リアンさん、もう一度やってみますか」
「あ——今日は、いいてんきです。こう?」
「惜しいです、もう少し——」
その間にレッドがすっと手を挙げた。
「読んでいいか」
「どうぞ」
「今日は、いい天気です」
正確だった。イントネーションも、間も。
OLさんが少し目を見開いた。
「レッドさん、完璧です。どこで練習しましたか?」
「……船の上で」
「船の上で?」
「一人でずっと読んでた」
教室が少し静かになった。レッドは何も言わなかった。ただ静かに座り直した。目は笑っていない。でも耳が少し赤かった。
レイナがこっそりリアンに耳打ちした。
「レッド、めっちゃ真剣やん」
「あいつ、なんでも本気なんよ。海賊のくせに」
「海賊やから、かもしれへんで」
授業が再開した。OLさんの声が教室に響く。窓の外では次のクラスの小さきものたちが列を作って待っていた。
■武道場
武道場の朝は、静かに始まる。
木の床に光が差し込んで、空気がぴんと張っている。ジュウベェたちが正面に立ち、さくや、レイナ、リアンが横並びで構えていた。
「では基本の型からでござる。昨日の続きから」
ジュウベェが刀を構えた。流れるような動きだった。始まりから終わりまで、無駄がない。見ているだけで、なんとなくわかる。これは長い時間をかけて体に染み込んだものだと。
さくやが真似した。形は合っているが、どこかぎこちない。
レイナが真似した。丁寧だが、力が入りすぎている。
リアンが真似した。
「リアン殿、足が逆でござる」
「え、右から出るんやろ」
「左でござる」
「……こう?」
「……やはり右でござる」
「どっちやねん!!」
リアンが刀を下ろして頭を抱えた。ジュウベェが静かにリアンの足を正しい位置に動かした。
「こうでござる」
「……あ、なるほど」
「なるほど、と言えるならできるはずでござる。もう一度」
リアンがため息をついて構え直した。
その頃、道場の端でレッドが黙って型を繰り返していた。誰とも話さず、ただ同じ動きを何度もやっている。
ジュウベェが目を細めた。
「……レッド殿」
「なんだ」
「その動き、もう型が入っておるでござるな」
レッドは何も言わず、次の型に移った。滑らかだった。止まるべき場所で止まり、動くべき時に動く。
さくやが横目で見た。
「……なんでレッドだけ上手いん」
「センスでござろう」
「納得したくない」
レイナが刀を握り直しながら言った。
「うち、向いてないんかな」
「向き不向きより、回数でござる」
「何回やったら上手くなる?」
「それがしも、まだ数えておるでござる」
ジュウベェが静かに答えた。レイナがその言葉をしばらく考えていた。
■師匠の講義
師匠の講義室は、静かに熱い。
黒板にジュウベェの村、レイナの村、リアンの島の地図が並んでいる。地形、人口、産業、課題。整理された情報が、具体的な開発計画へと変わっていく。
「ジュウベェの村は山間部だから、水の確保が最初の課題になる。こういう地形の場合、水路をどう引くかで村の将来が全然変わってくる。たとえば——」
師匠がチョークで線を引いた。
「ここに水路を通すと、この一帯が農地になる。でもこっちのルートだと、建設コストは上がるけど三倍の範囲をカバーできる。どっちがいいと思う?」
手が挙がった。
「長期的にはこっちじゃないですか。最初は大変でも」
「でも今の人手でそこまでできるか、という問題もある」
「じゃあ段階的に……まずここだけやって、余裕が出たら広げる?」
議論になった。師匠はしばらく黙って聞いていた。それから黒板に新しい線を引いた。
「そのアイデア、面白いね。じゃあその場合、最初のフェーズで必要なものは何?」
また手が挙がった。
自分たちの故郷の話だから、誰も人ごとじゃなかった。居眠りしている者はいなかった。
■爆音社長のゼミ
船作りゼミは、毎回沈没から始まることで有名になりつつあった。
「設計が固まったら、まず湖で試す。それだけだ」
シンプルな方針だった。試して、沈んで、なぜ沈んだかを考えて、また作る。爆音社長はそれしか言わなかった。でもそれで十分だった。
この日の試作船は、前回より明らかに形がよかった。設計に三日かけた。材料の選定で一日議論した。みんな真剣だった。
湖岸に小さきものたちが集まって、そっと水に浮かべた。
ゆっくりと、浮いた。
「おおーー!!」
歓声が上がった。
そのまま五秒。十秒。十五秒——
「あ、傾いてきた」
ゆっくりと、右に傾いていった。止まらなかった。
どぼん。
沈んだ。
ずぶ濡れで這い上がってきた小さきものたちが、顔を見合わせた。前回より長く浮いていた。それだけは確かだった。
爆音社長が腕を組んだまま言った。
「前回より十二秒長かった。どこが改善されて、どこがまだ足りない?」
怒鳴るわけじゃない。ただ聞く。
濡れたまま誰かが答えた。
「底の形が安定したと思います。でも重心がまだ高い」
「積み荷を想定した時の重量配分も考えてなかった」
「次は荷物を積んだ状態でシミュレーションしてから設計したい」
「よし、それで行け。次の設計に入れ」
「今日また作るんですか?!」
「当たり前だ。失敗してなんぼだ」
岸から見ていたさくやがつぶやいた。
「……なんか楽しそうやな、あれ」
「希望者は参加できるでござるよ」とジュウベェが言った。
全員が少し間を置いた。
「……やる」
「やります」
「やるでござる」
三人が湖のほうへ歩き出した。
結果、その日さくやたちが設計に加わった船は、過去最短で沈んだ。でも爆音社長は珍しく笑っていた。
■師匠、窓の外を見る
夕方、師匠が窓の外を眺めていた。
研修所の灯りがいくつも点いている。食堂から笑い声が聞こえてくる。港のほうから船のエンジン音がする。湖では今日四回目の試作船がどぼんと沈んだらしく、遠くから歓声と水音と爆音社長の「重心!」という声が聞こえてきた。
さくやたちが隣に来た。髪がまだ少し濡れていた。
「なんか、すごいことになったね」
師匠がぽつりと言った。
「湖を見つけて、拠点作りだけで大変だったのが、つい最近のことのようなのに」
さくやも窓の外を眺めた。
「……そうですね」
少し間があって、
「なんすかね、この状況」
師匠がまた吹き出した。
「そうだね。なんなんだろうね」
二人でしばらく、窓の外を見ていた。
誰も止めていないのに、どんどん広がっていく。
それがなんだかおかしくて、でもたしかにうれしかった。
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