第3話「父と魔物の気配」
気づけば、この身体を得てからもう一か月ほどになる。寝て、泣いて、そしてまた寝るだけの無力な赤ん坊だが、耳だけは驚くほど敏感だった。
父と母、近所の人々が話す言葉が、かすかに輪郭を伴って読み取れるようになったのはありがたいことだ。生まれて間もなく、こんなにも早く異国の言葉を理解し始めるなんて、ずっと前からここで生きてきたかのような錯覚を起こす。
この家は、木組みに漆喰を塗っただけの質素な平屋。日中でも窓から射し込む光は淡く、板張りの床には隙間風が忍び込む。朝になると父の足音が「ザッ、ザッ」と庭石を踏む音で聞こえた。わらじの下で揺れる素足、小型の鋤や鍬を抱えた背中。帰宅際、母に「ただいま」と短く告げる声が、ぼくの小さな世界を支えていた。
しかし今日は違った。いつも帰って来る時間を過ぎても、父の声はしない。母は包丁を持つ手を止め、ふいに窓の外を見つめたままつぶやく。「今日は遅いわね…。前の討伐の時はもう少し早く帰ってきたのに…」その声には、ほんの少しだけ震えが混じっていた。
昨日、父が縁側で知らない男と話しているのを聞いた。男は粗末な革鎧に身を包み、険しい表情で「魔物」の話をしていたようだ。単語ははっきりしなかったが、「棲家」「被害」「襲われた」といった響きが、ぼくの胸をざわつかせた。
魔物――前世の世界には存在しなかった、見慣れない生き物のことを指すらしい。
魔物とは何だろう。ウサギやイノシシのような親しみある動物を拡大解釈しただけなのか。あるいは、幻想の中で生まれた異形の獣なのか。子ども心に好奇心が湧くが、このまだ弱い身体では指先ひとつ動かせず、頭の中をめぐる想像を声にすることもできない。窓から漏れる光に照らされる埃の粒だけが、静かに舞っている。
父はたくましい。何度か抱っこされたとき、その腕の太さと力強さは、ぼくの前世と比べ物にもならなかった。あの「高い高い」をされた瞬間、かつてビルの屋上から落下した記憶ともリンクして、思わず身体が強ばった。だからこそ、父なら魔物相手にもひるまずに戦えると信じたい。
母はぼくをそっと抱き上げると、胸の高さで優しく揺らした。布越しに感じる鼓動と温かさは、唯一の安らぎだ。その合間に、母の低い声がまた耳をくすぐる。「大丈夫かしら…」――不安を隠しきれないその調子が、ぼくの胸に締めつけを与えた。今日は夕飯が手につかないのだろう。
縁側のすぐ先には畑が広がり、雑穀や芋が育っているはずだ。畑を抜ける風は冷たく、乾いた草の匂いを運ぶ。父が通ったであろう道筋には、まだ朝露が光の点々を作り出しているだろうか。ぼくには確かめる術がないが、想像の中でその風景を繰り返し浮かべた。
とはいえ、言葉が少しずつ分かるのは心強い。父と男の会話からは、「明日の昼には出発する」「村の東側で偵察」「支度を整えろ」といった断片が聞こえた。出発? 偵察? それが父の行き先を示しているとすれば、なおさら無事の帰還を願わずにはいられない。
ぼくはまだ、何もできない赤ん坊だ。泣くことしかできないが、その声が父に届くように――必死に胸を震わせた。涙を流しながら、心の中で繰り返す。「無事でいてほしい」「またあの腕に抱かれたい」「窓から一緒に空を見たい」
夕闇が迫り、縁側に影が伸びるころ、母はようやくぼくを布にくるみ、居間の畳に寝かせた。母の背中には、父を待つ焦りと、頼りなさがにじんでいる。ぼくは目を細めながら、その背中を見つめた。いつかこの背中に寄り添い、父と母の話を自分の言葉として返せる日を夢見て──。
外では、遠くから男声が響き、馬車の軋みが混ざる。夕風が家の隙間を吹き抜け、草いきれを運んでくる。まだ形の定まらない魔物の影と、強靭な父の姿が、ぼくの小さな世界で交差していた。
そして、ぼくは再び、強く願う。
「どうか、父さんが無事でありますように」
その祈りが、ひときわ大きく胸を貫いたとき、縁側の戸が静かに開く音がした。
──父が帰ってきた。