第三章 絶望降臨Ⅰ 泣いてもいいんだよ
鴻上梓は、生まれて初めて学校をサボった。
何もする気にならない。何もしたくない。何も見たくない。聞きたくない。
カーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中、ベッドの上で膝を抱えて蹲る。
昨日家に帰ってからまだ一度も食事摂っていないが、特にこれと言った空腹を感じない。その事実に、自分が人間ではない存在なのだと再認識させられた。
「……お腹が減ったのかい?」
自身に空腹はないのに、自分の物ではない他者の奇妙な空腹感を覚える。
なんとも表現し難いその奇妙な空腹感の出所は己の『影断ち』からだ。
それも当然だろう。
なにせ、梓の『影断ち』の中に封印されている彼女は、あのイノシシ以来まともな食事を与えられていない状況なのだから。
だからと言って、何かしてやる必要もない。
だって、こうして何もせずに黙っていれば向こうが勝手に梓の影を食べてその腹を満たしていくのだから。
その結果としてもたらされるのが、例え鴻上梓の『影獣化』だとしても。
既に梓の影はその五割ほどを『徒影』に封じた影獣によって食い尽くされていた。
「……」
きっとこれが正しい。
傷つけるだけで誰も救う事ができないのならせめて、彼女の空腹を満たせる餌であればそれでいい。
不運にも影獣となって苦しみ続け、助けを求める哀れな人々を『徒影』として無慈悲に殺し尽くすくらいなら、捕食される側で構わない。
きっと鴻上梓は今、どこかの誰かに優しくあれている。
「……っ」
罪悪感にちくりと胸が痛んだ。頭に浮かぶのは、一人の少女。
黒髪をサイドテールに纏め、キタキツネみたいな警戒心に満ちた勝ち気なつり目で影獣を殺せないと叫ぶ梓を茫然と見ていた、凛々しくもあどけない幼さの残るあの少女の姿だ。
「ゴメン、茜。でも、僕は……」
茜の必死の説得を拒絶したのは梓だ。
『徒影』として生きていくには『影獣』を狩るのは必須。そうしなければ、『影断ち』に封じた『影獣』に、自分自身の影が食われてしまう。
その事実を告げてなお梓の心が変わらないと知った時の、天羽茜の理解出来ない物を見るような恐怖を孕んだあの目が、頭から離れない。
まるで人に紛れて日常生活を送っている異物を発見してしまったような、そんな瞳。
『徒影』という人間から外れた異常の中でさえ、鴻上梓は異端だった。
これは、ただそれだけの話。
『影断ち』の中の彼女が言うように、鴻上梓は狂い果てて終わってしまっている。
その事実を知って、気が付いて、彼女はショックを受けただろうか。異物を見る瞳に浮かんでいたのは恐怖だったのか失望だったのか、あるいはそれとも……。
そんな梓の思考を外側から破ったのは、めったに押される事のないインターホンの呼び出し音だった。
無視しても何度も何度も鳴り響くチャイムに、いい加減にうんざりしてきたその時、聞き覚えのある少女の声が窓の外から梓の耳に飛び込んで来た。
「梓ーっ! 居留守使ってるのは分かってるんだからね。もう、勝手に入るからーっ!」
パニックになりかけた梓が何かを言うその前に、ガチャリ、と。鴻上家の扉が開かれた。
☆ ☆ ☆ ☆
もろもろの事情があって梓のお姉ちゃんを自称する幼馴染の瀬戸瑞葉は鴻上家の合鍵を持っているのだった。
「はい、これ肉じゃが。梓、好きでしょ? お家でいっぱい作り過ぎちゃって、余り物だから遠慮せず食べてね。で、こっちはきゅうりのつけものと、春雨サラダ。お味噌汁は冷めないように魔法瓶の水筒に入れてもってきたの。ご飯は普通のお弁当箱に入れて来たんだけど、炊きたてだからまだ温かいわよ。はいどうぞ」
「瑞葉ねえ……ありがとう」
昨日、瑞葉と別れた後に何かがあったであろうことは容易に想像がつく筈なのに、その事に関して瑞葉は何も言おうとしなかった。ただ一言、「茜ちゃんはお家に帰れた?」とだけ聞いて梓が頷くのを見ると、「そっか。良かった」とだけ零す。
そうしてる間に次々とテーブルの上には料理が並べられていき、いつの間にか立派な夕食が完成していた。
瑞葉の料理スキルの高さは梓も知るところで、週に一度は彼女の手料理のお世話になっているのだが、その場合は瀬戸家の食卓に梓がお邪魔する形になる事が多い。
今日のように事前の連絡も無しに押しかけてくるのは今までに無かったパターンだけど。
いただきます、と二人で合唱してから梓は瑞葉作の肉じゃがを頬張る。
瑞葉は何が楽しいのかニコニコと、頬杖をついて肉じゃがを頬張る梓を眺めている。
一口食べると、もう箸が止まらなかった。
何度も食べたことがあるはずなのに、今まで食べてきたご飯の中で、一番おいしいとさえ思った。
「おいしい?」
無言で何度も頷いて、夢中でご飯をかきこむ。
「ふふ、良かった」
梓の食べっぷりを見た瑞葉は、満足そうに笑っていた。
いつもと変わらない。何一つ変わらない、見ているだけで安心してしまうような笑顔で、
「……?」
はらり、と。不意に梓の頬を一筋の水滴が伝った。
不思議に思って人差し指でそれを拭う。
けれど、拭った先から水滴はまた流れ落ちてくる。
「あ、れ?」
いつの間にか梓は、その瞳から大粒の涙を流していた。
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。でも、堪え切れなかった。
今まで梓が溜めこんで来た何かが、きっと今この瞬間に決壊したのだ。
「梓はね、泣いてもいいんだよ?」
隣に座る瑞葉が、優しい笑みを浮かべながらそんな事を言った。
優しく、柔らかな、全てを委ねてしまいたくなるような、そんな響きが脳内に広がる。
「ちがっ、違うんだよ瑞葉ねえ。これは、そういうのじゃ……」
「梓がいっつも頑張ってる事、私は知ってるから。皆に優しい梓だもの、私にくらいは優しくされてもいいの。だから、我慢しないで、お姉ちゃんの前では泣いちゃいなさい。ね?」
涙は止まらない。
「学校、休んだのにも何か理由があったんでしょ? 梓の顔を見てれば分かるわ。思いつめた顔してるもの。いつも通り、また誰かの事を考えてる顔よ」
止まって、くれない。
「でもきっと、私には相談できない事なのよね。ううん、大丈夫。それも分かってるわ。けどね、これだけは分かっていてね梓。何があっても私は梓の味方でお姉ちゃんなの。だから梓が辛くなったり、甘えたくなった時は、いつだって私のところに来ていいんだからね。ぎゅっとして、頭を撫でてあげる事くらいなら、いつだってできるんだから……」
隣に座る瑞葉の腕が優しく梓の頭部を包み込み、そのままゆっくりと胸に抱き寄せる。
なつかしい匂いと暖かい体温が、凝り固まった梓の感情をゆっくりと溶かしていく。
隠す事も抑える事もできない嗚咽が漏れ、梓の瞳から赤ん坊のように無様に涙が流れた。
「ぼっ、僕は、」
本当は怖かった。
怖かったのだ。
死にたくなんてなかったし、影獣なんていう化け物にも成りたくない。
いつまでもいつまでもこの日常が続くのだと思っていた、それを突然取り上げられて、不安じゃない訳がなかった。嫌じゃない訳がなかった。怖くない訳が、なかった。
戦いたくない。
壊れたくなんかない。
狂いたくなんかない。
殺したくなんかない。
殺されたくなんかない。
変わりたくなんかない。
手放したくなんかない。
ずっと、このままがいい。このままが、良かったのに。なのにッ!!
「僕だって、嫌だったよ……! 嫌な事だって、どうしてもやりたくない事だって、あったんだ! でも、どうすればいいのか分かんないんだよ。……僕はただ、優しい人になりたかった。だって、そうすればまた褒めてもらえるって、笑ってくれるって、そう思ったから! 始まりなんて、それだけだったんだよぉ……っ!」
母の笑顔が見たかった。
普段はどこか厳しい顔付きの母が、梓を褒める時に見せてくれるひまわりが咲くような笑顔が大好きで、それがまた見たかった。
梓が優しい人になれば、きっとまた見る事ができる、そう思ったから。
始まりなんて、たったそれだけだったのだ。
「分かんないんだ。もうこれ以外の生き方がッ! 僕だって、僕だって自分がおかしいって事くらい分かってるよ……! でも、もうどうしようも無いんだよ。だって、これが、この生き方そのものが僕だから! 鴻上梓だからッ!!」
母は死んだ。死んだのだ。
梓がどれだけ他者に対して思いやりをもって優しく振舞おうとも、彼女の言った本当の意味で優しい人間になる事ができたとしても、もう母は此処にはいない。
あのひまわりが咲くような笑顔を見る事は、二度と出来ないのだ。
「大丈夫、大丈夫よ。梓。アナタは優しい子よ。なにもそれは、アナタのお母さんの影響だけじゃないわ。だって私は知っている、小さい頃からアナタは優しすぎるくらいに優しかったもの。だからそれは決して贋物じゃないわ。胸を張って誇れる、アナタの素敵な所。だからアナタがアナタを否定しないで? 嫌な事から逃げたって、やりたくない事から目を背けたって、別に構わないんだから。それで梓が梓じゃなくなっちゃうなんて事は絶対にない。梓が思っている以上に、梓が自分自身に優しくあって欲しいと願っている人は沢山いるのよ。何があったって鴻上梓は鴻上梓よ。泣き虫で弱虫で押しに弱くて、でも頑固なところもある、思いやりに溢れた心の優しい男の子よ。お姉ちゃんの私が保障するわ」
よしよしと、赤ん坊をあやすように瑞葉は梓の頭を優しく撫でる。
瑞葉の腕の中で鴻上梓は泣き続けた。泣き疲れて、そのまま眠り果ててしまうまで。




