第二章 狂おしい程に優しくてⅢ 優しい狂気と少年の破綻
やや冷たくハリのある澄んだ空気を、朝の陽射しが焼いていく。小鳥のさえずりが聞えそうな早朝特有の空気が、ここ『裏影界』には流れていた。
とは言え、当然と言えば当然だが、小鳥などという可愛らしい生物はおろか、見渡す限り人っ子一人見当たらない。
現実世界の写し鏡なのに、登場人物だけがすっぽり抜け落ちてしまったある種の異界がそこには広がっている。
静謐さを通り越して死さえ想起させる静寂が、裏影界を包んでいた。
そしてそれは屋内でも同じ事。あれだけ大勢の人で溢れ返っていたショッピングモール内は、まるでゴーストタウンの如く誰もいない。
空虚で広大な空間に流れる楽しげなBGMが、今だけは不気味な場違い感を与えてくる。
これが『裏影界』。
世界の裏側。陽に対しての陰。世界という天秤のバランスを保つために必要不可欠な片側の秤に置かれた重り。そして、人間界の裏にぴたりと寄り添う影の世界に踏み込めるのは、同じく影の眷属のみ。
『徒影』天羽茜は、ショッピングモール二階のフロアで全長五メートルはあるであろう巨大な影獣五体に、その周囲を囲まれていた。
ぶるるるぅ……と、唸りを上げるイノシシ型の影獣達は、茜を取り囲むかのようにそれぞれ五方向からじりじりとその距離を詰めてくる。
影獣に理性は無いが知性はある。
おそらくは五方向からタイミングを僅かにずらして突っ込み、一体に対処している内にもう一体が突進攻撃を決めようと言う腹積もりだろう。
「……アタシは今、最高に苛ついてる」
視覚化されたようにさえ錯覚する怒気が、空気をびりびりと焼き焦がす。
茜は、何もないはずの懐からのっぺりとした『影断ち』を取り出すと、鞘を放り捨てるようにして抜刀した。
朝の陽射しを受けて刃が煌めき、反射した光が茜の顔を照らす。
「ええ、そうよね。こんな風に熱くなるなんてらしくないわよね、でも……」
己の斜め前にそれを構え、囁くように告げる。
「真銘解放――」
莫大な何かがその言葉をトリガーとしてその場で膨れ上がると、それはすぐさま一陣の風と化して少女を包んで――
――ザバッ! と、風のヴェールさえ引き裂いて、一筋の銀の剣閃が軌跡を描く。
どぱっ! と、遅れてイノシシ型の影獣の一体から墨汁のように黒い液体が噴き出し、その身体が縦に真っ二つに裂けた。
二振りの双剣を頭上に翳しての凄まじい踏込みからの高速刺突――自身を一筋の槍と化して影獣の身体を真っ二つに貫いたのだ――と、貫かれた影獣がそう気が付いた時には、その影獣は影を貪り食われて絶命していた。
ぱっくりと分れた巨体の向こう側、双剣にべったりと付着した黒を振り払って、振り返った天羽茜は絶対零度の視線を残り四頭に向けた。
ぶるり、と本能的に恐怖を感じ取った影獣達が、思わず後ろに後ずさる。それほどの怒気が、小さな少女から発せられていた。
「行くわよ『猫剥ぎ』。一片の肉片も残さず食らい尽くす……ッ!!」
吐き捨てるように告げたそれは、一方的な死刑宣告。
怒れる一陣の暴風と化した『徒影』の少女の乱舞が始まる。
☆ ☆ ☆ ☆
地に足は着いている。
恐怖はない。不安はない。怖気は無い。焦りはない。手足に震えはない。
ただまっすぐに前を見て、鴻上梓は『影断ち』をしっかりとした手つきで握りしめた。
見よう見真似の構えを取る。脳裏に映るのはとある一人の少女の背中。
『影断ち』ののっぺりとした刀の切っ先の延長線上には、見上げるような大きさの影獣が聳え立っている。
全長五メートルはあろう、巨大なイノシシ型の影獣だ。
まるで柱のように無骨な牙。獰猛なその獣は、大木の如く四肢で影の世界を踏みしめていた。
(戦える。いつも僕を守ってくれた瑞葉ねえを、今度は僕が守る事が出来る……)
驚くほどに梓の心は落ち着いてた。これが初めての実戦だとは思えない程に、心は静かに研ぎ澄まされている。
(茜は、僕なんかに望みを掛けてくれたんだ。なら僕は、その願いに応えたい)
身体の中から力が漲ってゆくのを感じる。これが、『徒影』。
影獣を殺し尽し、世界のバランスを保つ存在。
ようやく実感する。鴻上梓は、今や正真正銘の『徒影』なのだと。
「来い……!」
その一喝が合図になった。
地を揺るがす咆哮と共に、鈍重そうな巨体が予想に反した猛スピードで梓目掛けて突っ込んでくる。
梓は刀を中段に構えたまま、横合いに転がるようにして突進を回避。湾曲するように横に突き出した牙が、梓の腕の皮膚を僅かに掠め、その傷口から真っ黒な液体が流れ出す。
血……ではない。まるで墨汁のような、ドロリとした生温い液体。だが、そんな自分の身体の変調に驚いている暇もない。
「くっ……!」
突進を回避された影獣が、蹄で踏ん張りを効かせ強引に旋回し方向転換を図ると、再びその巨体を揺らして、梓を轢き飛ばし踏み砕かんと突進してくる。
梓はこれをまたくるりと転がるようにして躱し、さらに影獣も同様の攻撃を続ける。
何度か同じような攻防を繰り返し、流石に息が上がる。
肺が、不足する酸素を求めてぜぇひゅうと喘ぐ。
このままじゃマズイ。梓は汗を拭いつつ思案する。
いつまでも躱してばかりでは反撃などできない。だが、重く速いこの一撃を防ぐような術など、鴻上梓は持ち合わせていない。
だからと言って何も対応しなければ、同じ攻防の繰り返しでひたすら体力を削られ、最終的にはなぶり殺しにされてしまうだろう。
ならば……。
脳裏に浮かぶのはとある少女の戦う姿。戦闘開始と共にまるで勝利宣言のように紡がれた、一つの魔法の言葉。あれを梓が使う事が出来れば、きっと……。
梓は、決意を秘めた瞳で己の『影断ち』を見つめると、一度大きく息を吐いてその刀の秘めたる力を解放する言葉を紡ごうとした。
「真銘解ほ――」
――あら。碌に食事もくれない癖に私を使おうと言うの? ふふ、随分無礼な坊やね。
ゴッ!! と、体に漲る力が一気に抜けた。否、まるで掃除機に吸い取られるみたいに、己の影をゴッソリと持っていかれた。
(な、ん……今の? 声……ッッ!?)
何が起きたのか分からない。ただ、やけに艶めかしい女の声が聞えた瞬間。鴻上梓の影が、僅か一秒にも満たない時間のうちに全体の一割以上食われた。
一瞬で多量の影を失った梓がふらりと大きくよろけた隙を、影獣は見逃さなかった。
会心の突進攻撃。回避は、間に合わない。
「うっ……ッ!?」
凄まじい衝撃が、梓の身体に叩き付けられた。
トラックと正面衝突したような衝撃に、身体が、四肢が引き千切れそうになる。
息が詰まりまともな悲鳴を上げる事も出来ず、轟音と共に数メートル先の壁に背中から叩き付けられた。
しばらくすると重力に負けてずるりと力なく滑り落ち、壁に寄り掛かって座るような格好でその場で脱力。
身体に力が入らない。まるで、他人の借り物であるかのようだ。
酷いめまい、頭痛。吐き気。意識が吹き飛びかけ、視界が明滅する。何とか身体を起こそうとするも、下半身に上手く力が伝わらない。立ち上がる事ができない。
そこへさらに、影獣が追撃を掛けてくる。
避ける? 逃げる? だめだ、間に合わない。そして、
「う、ぁぁぁぁぁぁぁあああああああッ!!」
墨汁のようなドス黒い液体が飛び散った。
超重量と壁とに板挟みにされて押し潰されるその直前。
必死で振り回した梓の『影断ち』の切っ先が、影獣の顔面を刺し貫いたのだ。
勢いよく突っ込んだ事が、影獣にとっては災いした。
結果論ではあるが、梓の『影断ち』が深く影獣の肉を貫き抉る手助けをしてしまったのだから。
ずぶり、と。気味の悪い感触が伝わり肌が粟立つ。影獣を生物に分類していいのか分からないが、それでも命ある物を傷つけるという業深い行為に、己の魂が磨り減るのが分かる。
これが命のやり取りなのだと、強制的に感覚を刻まれる。
耳が痛くなるような苦痛の咆哮が至近距離から爆発した。
顔面に大穴を穿たれ痛みに暴れ回る影の大猪は、己が顔面に深々と突き刺さった太刀をどうにかして振り落そうと、上下左右に身体と頭を揺り動かし滅茶苦茶に暴れ回っている。
梓は突き刺さった『影断ち』諸共暴れる影獣によって吹き飛ばされて宙を舞うと、そのまま受け身も取れずに背中から地面に落下した。
「ぐっ、がはっ、……はぁ、はあっ」
梓の『影断ち』に相当量の影を食われ、持っていかれたのか、イノシシの影獣は荒い息を吐きながら力なくぐったりとした様子で地に伏している。
心なしか、体の色も薄くなっているような気がする。
梓は、しばらくの間呼吸を整えるように荒い息を吐いていたが、やがて苦痛の滲むその視線を敵である影獣に向ける。
「……ごめん、ね。でも僕だって、そう簡単に……死んであげる訳にはいかないんだ。それに君がいると大勢の人が……瑞葉ねえが、困るから」
梓は己の『影断ち』を杖代わりに地面を突いてどうにか満身創痍の身体を起こすと、のろのろとカメのような歩みで瀕死の影獣へと歩み寄る。
……トドメを、刺す為に。
身体が震えているのが分かる。怖くない訳がなかった。何かを感じない訳がなかった。
だって、目の前に横たわるソレはただの怪物ではないのだから。
陰の気を、暗い気持ちを抱え込んでしまった人間の慣れの果て。
そして、『徒影』である自分がそう遠くも無い将来行きつく未来の姿。
少しでも余計な事を考えれば、すぐにでも足が止まってしまいそうになる。
けれどもそれは許されない。
徒影は影獣を滅する為に存在し、そして梓もまた茜にそう望まれたのだから。それに何より、この影獣を野放しにすればショッピングモールで働く瑞葉の身だって危ないかも知れないのだ。
ぐっと、梓は『影断ち』を握る手に必死で力を籠める。
元は人だった哀れな怪物をその手で葬る恐怖と罪悪感に、震えてしまわないように。
梓が影獣の前に辿り着いた時、死にかけの影獣は抵抗一つしなかった。身震いもせずにただ苦しげな呼吸を繰り返している。
虚ろな瞳は闇を湛え、何を見ているのか想像もできない。
梓は、頭と胸の奥に疼痛を覚え、けれど懸命にそれを振り払った。
『影断ち』を上段に構える。これを振り下ろせば、全てが終わる。
「ごめん。ごめんね。でも、もう全部終わりにしてあげるから、だから……せめてゆっくりと眠って――」
梓は迷いを振り切る為に、あえて言葉を口に出した。それは一種の儀式。己の罪悪感を消す為の自己満足。
けれどそれは、刀を振り下ろすその直前に起こった。
――死にたくない。
「……ッ!?」
声が、流れ込んで来た。
「――誰? 今のは、なに……?」
パッと弾かれたように、梓は慌てて周囲を見渡す。
先ほど聞こえた女の声とはまた違う、聞き覚えの無い男の声だ。
――苦しい。痛い。嫌だ。いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ死にたくない、誰か……助けてくれ……!
だが、男はおろか周囲には梓以外は人影も見当たらない。
けれど、はっきりと聞こえる。頭の中に直接語りかけてくるかのように。
聞き間違いでも幻聴でもない。助けを求める男の声が、確かに聞こえるのだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁ、はぁはぁはぁ……!」
否定しようとした。でも、できなかった。
……認めてしまった。頭では否定しようとしても、梓の心が認めてしまった。
間違いない。声は、助けを求めるその人間の声は、目の前の影獣が発していた。
――お願いだ。俺には、妻も娘もいるんだ。今は離れ離れで暮らしてるけど、だけど、俺はあいつらを愛してるんだよ。あいつらの為にも全部やり直すって、そう誓ったんだ! だから俺を、助けてくれぇ……! 頼むよぉッ! まだ、死にたくねえんだぁ!!
「……は?」
意味が分からず、そんな言葉が零れ出た。
これはつまりどういう事だ? 目の前の怪物にはまだ人としての意識が残っていて。梓に向け助けを求めている。お願いだと、絞り出すように紡がれた声が、言葉が耳を離れない。
感情の無い無機質な化け物の言葉ではない。暖かい血の通った、人の言葉だった。
だからこそ心が揺れ動いた。
影獣が昔は人間だったという話は確かに聞いた。
影獣と化した彼らも被害者であって、決して悪ではないのだと。その話は理解している。
でも、こんなのは聞いていない。
影獣化してもなお人間の頃の記憶や意識が残っていて、あまつさえ人の言葉を使って命乞いをするなど、そんな姿形と食事以外はほとんど人間と変わらないような状態だなんて。
それを斬るという事はつまり、つまり、つまり、つまり、つまり、つまり。
「う、うあ。ぁあ……、」
少年は優しい人になりたかった。
その人の為を思って、本当の意味でその人の為になる事を、その人の為にしてあげられる、そんな本当の意味で優しい人になりたかった。
けれど少年は、どれが本当の意味でその人の為になる事なのかが分からなくて、だからこそ、その人が求める望みを、せめて叶えて生きて行こう。そう心に決めていた。
ちっぽけな、自己証明。鴻上梓の生きる証。だから……。
「……お、ォォォぉぉぉおおおああああああああああああああああああッ!!!?」
『影断ち』が梓の掌から零れ落ち、切っ先がショッピングモールの床に突き刺ささり甲高く硬質な啼き声をあげる。
抜き放った刀を鞘に納める事さえ出来ず、鴻上梓はあまりにも無情な現実に泣き叫ぶように吠えた。
愛する人を守る事も、助けを求める人を救う事も出来ない現実に打ちのめされながら。
ただひたすらに、壊れたように吠え続けた。
☆ ☆ ☆ ☆
鬼神の如き強さでまたたく間に五対の影獣を喰らい尽くした茜は、全速力で裏影界を走っていた。
あの瞬間はその場を鴻上梓に任せるしか選択肢がなかった。とは言え彼はまだ『徒影』になってたった四日しか経っていない。
経験も知識も戦闘技術も、彼には影獣との戦闘においてその支えとなる物がなにも無い。
いくら常人離れした力を手に入れたからと言って、たった一人で影獣に立ち向かうのがどれだけ危険な事か、分からない茜ではなかった。
新人の徒影の初陣での死亡率は三割を上回る。師である茜がついていない今の状況は、さらにその確率を跳ね上げているだろう。
「間にあって、お願い……!」
幸い同じショッピングモール内で戦闘は行われている。梓までの距離はそう遠くはない。
息せき切らして茜がそこへ駆けつけた時、全てが終わっていた。
「う、そ」
思わずそう漏らす。明らかな致命傷を受けて地に倒れ伏している影獣と、そのすぐ正面に立つ少年の姿に、茜はまるで自分の事のように嬉しさが爆発するのを感じた。
「すごい。梓、アンタ凄いじゃない! 初陣で、一人で影獣を倒しちゃう……なんて……?」
違和感に気が付いたのは、いつまで経っても梓が影獣にトドメを刺さないからだった。
訝しむように、茜の声が途切れる。
視線の先の梓は茜の声にも反応する様子を見せず、ただただその場に立ち尽くしている。茜の位置から見えるのは背中だけで、その表情は窺い知れない。
梓の『影断ち』が、少し離れた地面に突き刺さっているのが、不穏さを煽る。
「梓……?」
「ダメ、なんだ……」
ぽつりと梓は呟く。
弱々しく、今にも押し潰され壊れてしまいそうな梓の声色に、茜は戸惑いを隠せない。
「僕に、この人は殺せない」
「ちょっ、アンタ、なにを言ってるの? 説明したはずよ。ソイツらは確かに昔は人間だったモノよ。でも、今は他者の影を喰らい世界のバランスを揺るがす害悪な存在でしかな――」
「――声が聞こえるんだよ!」
振り向いた梓の叫びに遮られ、茜の言葉が詰まる。
ギョロリと、狂気さえ帯びた梓の瞳が茜の瞳を捉えて離さない。
それに何より、中性的な童顔を歪ませ涙を流している梓に、茜はもう何と声を掛けて接すればいいのか分からなかった。
「助けてって、死にたくないって、僕にそう語りかけてくるんだ! この人は、それを望んでいる。僕は、瑞葉ねえを助けたいのにっ、この人を殺す事も僕にはできないッ! だってこの人だって被害者だ。どっちも助けてあげなきゃ。僕は望まれてるんだ。助けを、僕に望んでいるんだこの人が。僕はどうすればいい? どうすれば僕は彼を助けられる……!?」
鴻上梓は壊れている。
狂い、壊れて、終わってしまっている。
そんな簡単な事実に、天羽茜はようやく気がついたのだった。




