第二章 狂おしい程に優しくてⅡ 君がそれを望むなら
しっかりと梱包された白ワンピと麦わら帽子の入った買い物袋を引っさげた茜の足取りは気持ちリズムカルで、文句を言いつつもやっぱり嬉しかったのだと一目で分かる。
汚れた黒サラシの代わりに瑞葉に買ってもらったスポーティーなタンクトップの上からお気に入りのジージャンを身に纏い、依然として仏頂面の茜本人は、きっとそれで隠しているつもりなのだろうけど。
梓と瑞葉はそんな茜の姿に顔を見合わせ、くすりとほほ笑み合う。
「……なによ」
「ん、いや。別になんでもないよ」
「嘘言わないで。いま、笑ったでしょ」
「あはは、そりゃ笑ったりもするよ。だって、皆でこうやってショッピングモール回るの楽しいじゃん」
「楽……しい……?」
「うん。茜も楽しんでくれてると、僕としては大満足なんだけど……どうかな? やっぱり、こういうのってあんまり好きじゃなかったりする?」
「別に……その、うん。つまらなくは、ないわ……。けど、ふーん……そっか。アンタも、楽しかったんだ」
風船から空気が抜けていくように、後半にかけて尻すぼみに小さくなっていく茜の声。
最後の方は何を言ったのかほとんど聞き取れなかった。
正直気になるので聞き返してみるが、茜はツンとそっぽを向いて。
「別に、何も言ってないわ」
何となくそんな気はしていたけど、予想通り過ぎる答えが返ってきて梓は苦笑し、瑞葉はニヤニヤ顔をさらに破顔させて後ろから茜に飛びついた。
「あー、もう! 茜ちゃんってば初々しくて可愛いなぁ! 私も茜ちゃんと遊べて楽しかったわよーこのこの~っ!」
「なん……ちょっ、い、いきなり抱き着かないでっ、あ、頭撫でるな鬱陶しいッ!?」
茜の洋服を購入後しばらく同フロアをぶらぶらしていた三人だったが、何となく人の流れに従っている内に二階にあるフードコートへとたどり着いていた。
「え、もう一時時回ってたの!? ……全然気が付かなかったな」
土曜日という事もあってか、お昼時のフードコートはかなり混み合っていた。
一階まで下ればレストラン街があるにはあるが、おそらくそっちも混み具合は同じだろう。
「じゃあ、順番で買ってきちゃいましょうか。ひとまず私が荷物番してるから、後の事はお若い二人に任せますね……」
「いやいや、瑞葉ねえも同い年でしょ……」
確保した席で微笑みながら手を振る瑞葉に見送られてしばらくして、茜が口を開いた。
「……アンタもご飯、食べるの?」
「え、うん。流石にここまで来てお昼抜きって悲しいし。瑞葉ねえもお腹空いてたみたいだしね。正直な所、僕はまだあんまりお腹空いてないんだけど……」
あはは、と苦笑いする梓に茜はやや呆れたような溜め息を吐く。
「はぁ……。あのね、お腹が減らないのは当然よ。徒影は食事の摂取を必要としないもの」
「えっ! うそ、そうだったの!?」
「なにせ徒影になったその時点で、身体の成長は止まってしまうもの。徒影がその身体を動かすのに必要なのは『影力』だけだし、栄養を摂取する必要は全くないわ。徒影にとって食事は単なる娯楽ね、無駄の多い娯楽。まあ何をどれだけ食べても太らないっていうのは、ある種の理想なのかもしれないけど」
「うう、ここで知らされる衝撃の事実……。何だかご飯を食べる楽しみが半減したような気がしてならない……」
がっくり項垂れて、
「どうするの。じゃあ、ご飯食べるのはやめとく?」
「……いや、さっきも言ったけどせっかくだから何か食べようよ。瑞葉ねえだっているんだし、今日はめいいっぱい遊ぶって決めたんだ。茜は何か食べたい物ある?」
「アタシ? ……そうね――」
それから二人は思い思いの料理を注文し、テーブルで待つ瑞葉とバトンタッチ。
途中茜が、お店側から渡される料理ができた事を知らせるブザーの音に驚いて悲鳴を上げ、テーブルの下に潜るというトラブルもあったが――緊急地震速報じゃないよ? と優しくツッコミを入れたら脛を蹴られた――どうにか三人とも無事昼飯をゲットできた。
「やっぱりコレ、あんまり美味しくないわね」
茜はかなりお手頃価格な全国チェーンのラーメン屋のしょうゆラーメンをすすりながら、どこか拍子抜けしたようにそう言った。
「やっぱり? それじゃあ、茜ちゃんはどうしてソレにしたの?」
「ん? ああ、まだアタシが小さかった頃にね。時々これを家族で食べたのよ。アタシの母と……父と。それだけ、ただそれだけよ……」
どこか遠い過去を懐かしむように目を細めて、茜は少しだけ哀しそうな顔をしていた。
質問をした瑞葉が、何かいたたまれなくなったように「私、変な事聞いちゃったわね、なんかごめんね……」と暗い表情で申し訳なさそうに呟く。
梓はそんな二人の顔を見ていられなくて、
「なら、そうだ。はい、交換しよう」
梓は自分の食べていたカルボナーラを適当にフォークに絡めると、茜の顔にぐいぐいと押し付けるようにして差し出した。
「ちょっ、別にいらな……っ!」
隙あり! と、茜の口が開いた瞬間を見計らってフォークを突っ込む。
不意を突かれた茜は驚きに目を見開きつつも、ほんの数秒で幸福感に頬が緩んでしまう。案外チョロい。
まるで餌付けされる野生動物のようにもぐもぐとカルボナーラの美味しさを堪能していた茜、梓と目配せをしてハッとした瑞葉も便乗。ニコっと笑って、
「なら、私のインドカレーも喰らえ!」
「だからいら……! ひゃっ、ひゃら……!? お、おいひいけど、からっっ!!??」
梓のニヤニヤ顔を見て何かを思い出したようにハッとすると、
「ひ、ひらふぁいって言っへんへしょ!」
またガツンと、脛に鋭い蹴りが飛んできた。
買い物をして、お昼ご飯を食べて、三人で適当にぶらぶらと店をひやかして回る、それだけであっという間に時間は過ぎて行った。
腕時計で時間を確認すると、時刻はもう夕方の六時前だ。瑞葉はこのまま六時からモール内のお店でバイト、梓もそろそろ家に帰って夕食の準備をしなければならない時間である。
「うーん、残念……。できれば今日はバイトも休んで、梓が茜ちゃんを家までちゃんと送り届けられるか見たかったけど……急にシフト変わって貰う訳にはいかないし……」
「私なら別に一人でも平気よ。瑞葉は仕事なんでしょ? さっさと行っちゃいなさいよ」
嘆息して突き放すように言う茜。
しかし少女の声色からは刺々しさは感じられず、瑞葉を安心させようとするようなどこか温かな響きが含まれている事に二人も気づいていた。
「梓、茜ちゃんをちゃんと送ってあげるのよ? こんな暗い中、寄り道しちゃ駄目だからね」
「分かってるよ。瑞葉ねえこそ女の子なんだから、帰りは気を付けてよね」
名残惜しむように後ろを向いて手を振りながら歩く瑞葉と店内で別れ、ショッピングモールの一階を歩きながら、バス停付近の出口へと二人は向かう。
楽しい時間は早く過ぎ去るとは言うが、それにしても充実感のある一日だった。
この数時間だけでも茜の様々な一面が垣間見えた気がする。
それだけでも、きっと今日はここに来た価値はあったのだ。
半ば強引に誘って連れまわしてしまったけど、それを言うなら普段の彼女もかなり強引なので、お互い様だろう。いつかの意趣返しというやつだ。
その連れまわされた被害者たる茜はというと、歩くリズムに合わせて買い物袋を揺らしながら、梓の少し後ろを付かず離れずで歩いている。
「ん? 家まで送るのはいいけど、そう言えば茜って普段どこに住んでるの? まさか裏影界とかじゃないよね?」
俯き押し黙って歩く彼女は、梓の言葉に応えようとしない。
さっきまでのはしゃぎっぷりが嘘みたいな静けさに、どこか違和感のような物を覚える。
不審に思った梓は、困ったように少しだけ眉を寄せた。
「……茜? どうか、した? やっぱり、楽しくなかった……とか?」
問いかけに返事はない。茜は意固地になったように押し黙ったままだ。
耳の痛い沈黙がしばらく続いて、そして、急に茜がその場で立ち止まった。
「茜?」
「アンタ……怖くないの?」
ぼそっと、俯いたまま独り言のように茜はそう言った。
いきなり過ぎて何の事だか全く分からない。
え? と、突然の言葉に困惑し固まる梓に、ぱっと顔をあげた茜は今にも泣き出しそうな顔で、言葉を捲し立てる。
「だって、突然アタシにあんな事言われて、怖くない訳がないじゃないっ。『影獣』を殺し続けないとアタシ達『徒影』は『影獣』になってしまう。その話は本当の事よ。でも、アタシはまだ『徒影』になって二日も経ってない、右も左も分からないようなアンタにキツイ言葉でそんな辛い現実を突き付けて……、感情に流されたアタシが悪いに決まってるのに、アンタの不安を師であるアタシが取り除いてあげなきゃならなかったのにっ、アタシはアンタから逃げ出して……。それで、それで、それで、それなのにアンタは私に、こんな風に、まるで人間の友達にするみたいに接してくれて……ッ! もう、訳が分からないわよ! なんで、なんでそんな風に優しくするの!? ふざけるなって、文句の一つくらい言ってみなさいよッ!」
心の中身全てをぶちまけるような絶叫が、辺りに響いた。
何事かと周囲を歩く人達の視線が集中する。けれど、そんな視線など意に介す事無く、天羽茜は不安と恐怖に揺らぐ瞳で鴻上梓を見据えていた。
茜はきっと不安だったのだ。自分の言葉が、自分の行いが、梓を傷つけてはいないか。
師として、教育係兼監督役として、不安と分からない事だらけの鴻上梓をしっかりと導いていく事ができるのかと。
そしてなにより――鴻上梓に嫌われていないかが。
そんな茜の感情を読み取った梓は。
「茜は、優しいね」
「なっ……! なんでそうなるの。だって、アタシはあんな酷い事を言って、今だって謝ってるのか怒ってるのか訳分からないような事を言っているのに。そんな女に向かって、優しいって……そんなの」
影獣になってしまう事が、怖くないと言えばそれはきっと嘘になる。
『徒影』としてこの世界で生きていけるのか、あれだけ強大な影獣を梓に倒す事が出来るのか、そもそも元は人間だったと言う影獣に刃を向ける事ができるのか、という不安もある。
これまでの日常はきっと崩れ去ってしまうだろうし、今まで通りでいく事なんて、きっと何一つもないはずだ。
生きていく環境も、梓自身も大きく変貌した。
その結果として多くのものを失う事にもなるだろう。
だけど、梓は独りじゃない。
一歩前に立って、梓を心配し、導いてくれる優しい少女がいる。
だからきっと、問題なんて何一つない。
「だってさ、茜は自分の言った事で誰かが傷つくかもしれないって、そんな風に他人の為に頭を悩ませる事が出来るんだ。これって、優しい人じゃないと出来ない事だよ。それにさ、『徒影』なんて残酷なシステムを作った人は、きっと監督役? にこんな暖かい物を求めていなかったと思うよ。もっと淡白な、必要な知識だけを伝え受け継がせるだけの関係として作ったはずなんだ。茜みたいに、僕みたいな右も左も分からないひよっこを心の底から心配してくれる『徒影』はきっと珍しいんじゃないかな?」
だから、天羽茜は優しいのだ。
時々怖くて、口が悪くて、自分勝手で強引で、そのうえ気が強く、凄惨な程の強さを持つ彼女だけれど、その言動から滲み出る暖かさを隠す事はできない。
『徒影』などという残酷な役目を背負ってなお他人を思いやる心を持つ彼女は、正真正銘のお人好しなのだから。
満面の笑みを浮かべてそう言い切った梓を見て、しばらく茜は毒気が抜かれたように放心していた。
「……なによ、それ……。アンタの考え方、意味わかんないわよ。アンタの気持ちを、どうしてアンタが考えてあげないのよ。アタシがどうこうの問題じゃないでしょ? 傷ついてるのはアンタなのに。どうしてアタシを慰めるの……。だいたいアタシが自己満足的にやってるだけの事だってのに、それをまるで善意からの行いみたいに勝手に捉えて……押しつけがましいってのよ」
「そうかな」
「そうよ。馬鹿。だいたい、心配なんてしてないし」
ふんっ、とそっぽを向いた彼女の横顔は、少しだけ救われたような安堵の色を浮かべている気がした。
再び押し黙る茜。けれども今度の静寂はどういう訳か嫌いじゃない。
しばらくの間、そんな会話の無い時間が続く。
無言の二人がバス停近くの出口付近に差し掛かった時だった。
茜はどこか周囲の視線を気にするように周囲を窺った後、唐突に口を開いた。
「ねえ。今日は、さ。その……楽しいか楽しくないかで言えば……悪くはなかったわ」
「ええっと、楽しいか楽しくないかで言えてないよ?」
「るっさいわね、人の揚げ足取るな!」
やっぱり良かった。
つい数時間前までは茜とこんなやり取りをして、こんな風にショッピングモールで買い物をしたりする時が来るだなんて想像もしていなかった。
彼女は徒影である鴻上梓の教育係兼監督役で、それ以外の関係にはなれないのだとばかり思っていた。
けれど違った。茜は瑞葉とも友達になれたし、三人で笑い合う事も出来た。
今日の楽しかった時間が、決してそれだけじゃないという事をしっかりと証明している。
天羽茜は紛れもなく、鴻上梓の友達だ。
そんな梓の内心など露知らず、茜は茶々を入れられ途切れた会話の流れを無理やり軌道上に戻そうと一つ咳払いをして、
「だからさ、……その。アタシ、瑞葉とアンタに、言いたい事があって……その――」
茜が言葉の続きを吐き出そうとした、その刹那。
「――ッ、影獣!?」
茜が鋭く振り返った視線の先、そこに居てはいけない何かが、居た。
黒。牙。蹄。逞しく強靱な四肢。口元から滴る、涎のように粘つく黒い体液。凄まじい鼻息と共にまき散らされる鼻の奥を突くような獣臭。まるでクレヨンで塗りたくったような、不自然で無機的な黒そのものが、巨大なイノシシの形を象ってそこに居た。
影を喰らい、影に住む影の化け物、影獣。
平和な週末のショッピングモールに、決して紛れ込んでいてはいけない存在が。
「うそ、だ。こんな所にまで……!?」
「うろたえない! 影獣はどんな所でも現れるわ。そこに美味そうな陰の気を纏った餌があればね!」
露骨に動揺する梓を叱責するように茜が叫ぶ。
幸い、まだ影獣は誰の影も食べていない。今なら被害を出す事無く退治する事も可能だ。
しかし……。
「……チッ、もう二体……いや、後五体はいやがるわね。……どっから湧いた? 何が原因なのっ。一度に同じ場所に湧くには数が多すぎる!?」
大きな影力を計四つ察知した茜が、苛立ち混じりに毒づく。
影力の察知などまだできない梓が言われてきょろきょろと辺りを見渡してみると、見える範囲だけでも二階に一匹。三階に一匹。大きさはまちまちだが同じイノシシ型の影獣の姿が確認できた。
三階の天井まで吹き抜けになっているから視認は出来たものの、移動にはエスカレーターを使わねばならないし、それぞれに距離はある。
そして、茜の言葉が正しければここから見えない場所にもまだ三体ほど潜んでいるハズだ。
それに、さっき別れたばかりの瀬戸瑞葉の働くアパレル店は確か三階にあった筈だ。
……どうするっ? 瑞葉ねえが危ない!? 何を、僕は、どうすればいい!?
突然の緊急事態。
大切な人に迫る危機に混乱し取り乱す梓を落ち着かせようと、茜が梓の両肩をぐっと掴んで手前に引き寄せる。
意志の強い勝気な瞳の中に、狼狽する梓が見えた。
「いい。落ち着いてよく聞いて。アタシは上の階にいる残り五体をどうにかして『裏影界』に叩き込まなきゃならない。だから、その間のコイツへの対処はアンタに任せるしかなくなる。お願い、できるわね?」
あまりにいきなり過ぎる展開に、梓は反射的に首を横に振っていた。
怖気づいた足が、よろよろと後ろに下がる。
「ちょ、待ってよ茜。僕、僕はまだ……!」
端的に言って、あんな化け物と戦える気がしない。
梓はまだ碌な戦闘経験もないひよっこの『徒影』なのだ。
戦い方も、技術も、何もかもが足りない。
今梓がこの化け物と戦っても、モブキャラの噛ませ犬の如く敗北し、影を食われて影獣になる未来しか想像できない。
しかし茜は、梓の肩を力強く掴むと、しっかりとその目を見つめてこう言い切った。
「大丈夫よ鴻上梓。アンタはもう無力なただの人間なんかじゃない。影獣を殺し尽す影の使徒、『徒影』よ。あの子を守りたいんでしょ? だったら大丈夫。アンタだって戦える。お願い、アタシだけじゃ無理なの。だから梓、瀬戸瑞葉を助ける為にもアンタの力を貸して」
それ以上拘泥している時間も余裕もなかった。
肩に置かれた頼もしい小さな手が離れる。梓が何かを言う前に茜が動いた。
ドッ! と、凄まじい音と共に茜が大地を蹴った。彼女の軌跡には後を追って余波の風すら巻き起こり、人々が何事かと目を剥くが、しかし既にそこに少女の姿はない。
『徒影』以外には誰にも見る事のできない化け物の懐深くに急速接近した少女は、そのまま速度の乗った拳をイノシシ鼻っ面に容赦なく叩き込んだ。
ブギィイッ!? とそれらしい悲鳴と共にイノシシの巨体が飛び、壁に叩き付けられるようにしてそこにあった影の中へと消えていく。
裏影界に叩き込まれたのだ。
「必ず合流するから。だから、お願い。きっと、信じてる」
すれ違い様、声だけを残して茜の姿がまたも掻き消えた。
『影歩』で影から影へと伝うように高速で移動し、上の階にいる影獣の対処に向かったのだろう。
「……」
鴻上梓はそれを聞いて。彼女のその言葉を聞いて、無言で身体を震わせていた。
恐怖があった。不安があった。戦えない、そう思った。自分にはできない。荷が重い。役不足だ。不可能だ。
そんなイメージばかりを積み重ね――しかしニヤリと、無意識の内に口元に笑みを浮かべていた
――力を貸して。
茜は、そう言っていた。
――アタシだけじゃ無理なの。だから、瀬戸瑞葉を助ける為にもアンタの力を貸して。
そう、梓に頼んだのだ。願い望んだのだ。それにきっと瑞葉だって、影獣に襲われれば誰かに助けを願い求めるに違いない。
ああ、それならば。
(僕に何ができるかは分からない。戦えるなんて、思っちゃいない。だけど……)
ギュッと、武者震いする拳を握りしめて、鴻上梓は、俯き、地面ばかりを見ていた顔を今はっきりと上げた。
「君が……」
(茜は僕なんかに何かを望んでくれた。その望みを預けてくれた。僕なんかが瑞葉ねえを助けられるのなら、茜がそう望むのなら、僕は、その望みを叶えてあげたい。二人の力になりたい! きっとそれが、正しい事のはずだから。本当の意味での優しさだから。だから――)
決意が恐怖を、不安を、その他全ての感情を上書きしていく。
いっそ狂的なまでに、鴻上梓は死の恐怖さえも上書きしていた。
「瑞葉ねえが、茜が」
鴻上梓は、彼女たちの望みに応えよう。
それが、人の為に、ましてや瑞葉と茜の為になる事ならば。迷う必要など皆無だ。
「そう望むなら」
何も教わらなくても、身体がその方法を知っていた。
梓の周囲の虚空が揺ら揺らと、陽炎のように歪む。
すると、何も無かったその空間から、まるで初めから少年の手が握り込んでいたかのように『影断ち』が現出する。
梓はその柄をしっかりと握りしめて、
「――影歩」
一切の怯えも躊躇も無く、鴻上梓は『裏影界』へと飛び込んでいた。




