行間Ⅰ
語りかけてくる声は、蕩けるような甘さで少年の脳を侵食しようとしてくる。
まともに向き合えば、きっと一秒ももたない。その誘惑に打ち勝つには、ひたすらにそれを遠ざけるしか手段はないのだ。
甘い匂いを漂わせる柔らかでどこか湿った掌が、少年の顎を撫でまわす。
あはっ、うふふ……。かわいい子。何をそんなに怯えているのかしら? アナタのその反応は、命は大切だから牛さんや豚さんは食べません、とか何か悟った風な顔で語っている愚かな人間と同じよ? 大層な事を語ったその口で野菜をばりぼり食べていれば世話ないわよね、まったく。ねえ、坊やはどうしてそんなくだらない事にこだわるのかしら?
けれど、本来ならばそれに話しかける事は許されない事なのだけれど、それでも少年はそれを放っておく事ができなかった。だから、答える。浸食されることなど百も承知で。
――ごめんね。こんな所に閉じ込めちゃって。
その言葉に、今度の今度こそ、声の主の腹筋が崩壊した。
愉快げに狂ったような笑い声を上げ、妖艶な女の姿を象ったその声の主が、色気に満ちたその身体を苦しげに捩る。豊満な胸が女の嗤う動きに合わせて男を惑わすように揺れる。
うふっ、あっはははっはははははははっっ!! 何を言い出すかと思えばこの子……ぷっ、くふふふっ、あははははは! 傑作だわ。これは傑作よ! 自分を化け物にした張本人に向かってごめんなさいですって!? 狂ってるわ。アナタ、最高に狂ってるわよ!
――だって、君だって生きるのに必死だったんだ。それを僕は、僕の身勝手な都合でこんな薄暗い牢獄に閉じ込めてしまった。……そのうえ、満足に食事も与えられないような主に封印された君が、あまりにも不憫で……。
その言い方だとまるで、アナタは生きるのに必死でないように聞こえるのだけれど?
――僕は、そういうのじゃないんだ。ただ、誰かが苦しんでいたのに、それに気が付いても上げられなかった自分が、少しだけ嫌いになりそうなだけだよ。君だって、辛かったはずなんだ……。そうでしょ?
まあ。こんな怪物になってから人間扱いされるなんて、初めての経験だわ。胸がときめいて坊やに思わず惚れちゃいそう☆ ぺろりと食べちゃいたいくらいに。
豊満な感触が、背中に押し付けられる。背後から回されるしっとりと柔らかな熱をもった掌が、少年の胸板をまさぐるように伸びる。
それだけで神経全てがズブズブと幸せに犯され満たされ、身体を巡る血液が沸騰しそうになり、脳みそが異常なエラーコードを吐き出し続ける。視界全てがピンク一色に染まったような錯覚に、頭がくらくらした。
しかしそれだけ。少年は、自分の意識を保ったまま、その妖艶な女に向かい合う。
――僕は、優しい人になりたいんだ。その人の為を思って、本当にその人の為になることが出来る、そんな優しい人に。でも……何が本当にその人の為になるのか、僕には分からない。よかれと思って行動した事が、その人の破滅につながっている可能性だってあるんだ。だから僕は、その人が望む事をしたい。僕を望んでくれる人が望む事を、ただただ叶えられたらいいかなって、そう思うんだ。
……坊や。アナタ、どうしようもなく終わっているわね。狂っているんじゃない、それはもう、終焉よ。行き着くところまで逝ってしまった者の終末願望。アナタは優しさに憑りつかれている。
――あはは、最近よく言われるんだよね。確かに、僕の考え方はどこか間違っているのかもしれない。でも、それでも。何もかも無くなってしまうくらいなら、そっちの方がいい。鴻上梓が鴻上梓でいられるなら、それでいい。壊れてしまった僕の、それは譲れない最後の願いなんだよ、多分。……だから、君は僕に何を望んでくれるのかな?
少年のその申し出に、女がニタリと笑ったような気がした。
いいわ。私はアナタが気に入った。けれど、だからこそ、何も望んでなんかあげない。私はここで、終わったアナタが優しさに狂って朽ちていく様をただ見ている事にするわ。じっくりと、ゆっくりと、美味しそうな坊やを舐めるようにして味わい食いつくしながら、この特等席で。それでもし、坊やが消えてしまう前に私の力を使う時が来たなら……その時は、しっかりと使われてアゲル。坊やの好きなように、どれだけ激しくしても、玩具にしてしまってもかまわないわ。だから、その時まではさようならね。優しい優しい、私のご主人サマ。きっとまた、逢いましょう。




