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終章 ひまわりよ、もう一度

 蝉の鳴き声が窓の外から滑り込んできて、冷房の効いた室内の空気を僅かに夏の色に染める。

 窓の外に広がる光景はいつもと何も変わらず、ただ、平日の昼間だと言うのにはしゃぎ回る子供たちの姿が、夏休みの到来を告げていた。自室の勉強机に腰かけ、窓の外を眺めていた鴻上梓は、そんな当たり前の光景を胸に噛みしめる。


 ――余りにも多くの物を失った。

 鴻上梓の運命を大きく変えたあの日。そして、王我最命という『徒影』との死闘から既に二週間が経過していた。

 ――王我最命の最期を語るとすれば、あの隻腕の王に相応しく『壮絶だった』と言う他ないだろう。自らの召喚した千を超える影獣の爪牙に身体を貫かれ、それでもなお王我は一時間以上もの間、たった一人で戦い続けた。

 何かを証明するように、吠え猛りながら、存分にその剛腕を振るい続けた。その姿はまさに王と呼ぶのに相応しく、敵ながら畏敬の念を抱かざるを得なかった。


 あの闘いを経てこの街は救われた。その事に気が付きもせずに、世界は今日も何ら変わりなく回り続けている。

 だが、梓は。鴻上梓は、何か変わる事が出来たのだろうか? 

 本当の意味で他者に優しくあることは、己の痛みを伴う事でもある。そんな現実から目を逸らし続けていた梓も、しかしもう逃げる事は許されない。

 これからは真正面から、優しさなる物に向かい合わなければいけなくなるだろう。それが、瀬戸瑞葉を殺す事で彼女の心を救った梓の、果たさねばならない責任なのだから。

 迷いが振り切れた訳ではない。

 あの選択が本当に正しかったのか、今でも分からなくなる時がある。でも、確かに瑞葉は救いを求めていた。自分が消える事による救いを、己の愛した弟を傷つけずに済む結末を、求めていたのだ。


 世界は残酷だ。真実はいつも人を傷つけ、嘘は独りよがりな優しさで人をかどわかす。

 『徒影』は皆が利己主義者だと、あの少女は言った。でも、もしかしたらその通りなのかもしれない。

 梓の求めている優しさなどと言う曖昧な物にしても、結局は全部己の自己満足に他ならないのだから。

 そもそも事の始まりが笑顔が見たいから、なのだ。これ以上に利己的な理由も、そうあるまい。

 でも、それでも構わないと、そう思えるようにはなった。

 そうした選択の果てに、救えたものが確かにあったのならば、だってそれは、素晴らしい事なのだから。


 そんな事を考える梓の意識を逸らすように、

 ぴんぽーんっ、と。呼び鈴の音が心なしかいつもより楽しげに響いた気がした。


 予定の時間には早いのだが、もしかしたら……。

 そんな淡い期待を胸に階段を駆け下り、玄関のドアを開ける。蝉の鳴き声が一段階ボリュームを上げて梓の耳に突き刺さり、真夏の空気が部屋に侵略する。夏風が吹き抜け、煌く陽光の下。そこに――純白の輝きに身を包んだ少女が立っていた。


 少女はどこか拗ねたように頬を膨らませて、子どものように言う。


「遅い……。いつまで待たせる気よ、おかげでこっちから来ちゃったじゃない……」


 黒髪をサイドテールに纏めた、勝気なつり目が特徴的な少女だった。

 いつもはキタキツネみたいに警戒心に満ちたその瞳も、なんだか今日は少しばかり緩んでいるように感じる。

 年相応の可愛らしさと凛々しさとが同居した幼さの残る童顔は、夏の暑さにやられたのか赤く紅潮し蒸気していた。麦わら帽子を頭にのせ、いつもと違うノースリーブの白のワンピースに袖を通した少女は、どこか気恥ずかし気に視線を彷徨わせ、しきりにチラチラと梓の顔色を窺うような視線を向けてくる。


「ごめん、茜。……でも、待ち合わせの時間は確か一三時のはずなんだけど……今、一二時だよ?」

「え、うそ!? まさか……寝坊したと思って急いで準備したのに、アタシの勘違い……!?」

「あははは、時計もちゃんと見ないなんてよほど焦ってたと見た。それにしても茜が寝坊なんて、珍しいね。……もしかして、昨日の夜から楽しみで眠れなかったとか……」


 冗談半分からかい半分で言ったのに、茜の顔がみるみる内に真っ赤に染まっていく。

 気温が高いからとか、そんな言い訳は通用しないレベルで。


「え、もしかして……図星?」

「う、うるさい! べ、別にいいじゃない、そんなの。アタシが今日の、その……アレを、楽しみにしてようがしてまいが、そんなのアタシの勝手でしょ!」


 つんと唇を尖らせそっぽを向く茜は、しかし梓の言葉を否定しようとはしなかった。年相応にお出かけを楽しみにしてベッドの中でそわそわする茜を想像して、吹き出しかける。


「まあ、早い分には問題ないか。丁度、待ち合わせの時間まで暇だったしね。今から出かけますか、デート」

「で、デートじゃないし。というか、アタシはこの展開を予測して本当はあえて早めに――」 

「あ、それから茜、」


 梓の言葉が、茜の言い訳じみた言葉を遮って、


「――服、やっぱり似合ってるよ」


 きょとん、と茜が驚いたたように目を見開いて、直後。


「ありがと」


 ニコッ、と。弾けるように満面の笑み(ひまわり)が花開いた。

 自然、伸びた二人の指が絡まり、手を繋ぐ。

 ――世界は残酷で、生きるのは辛く苦しい事ばかりだ。

 『徒影』となった今、よりその事実を実感するようになった。

 世界の陰陽のバランスを保つ者。永遠に戦い続ける宿命に囚われた物。影の使徒。世界の浄化装置。

 徒影を表す言葉は数あれど、その言葉の冷たさだけは共通している。

 だけど、


「行こう、茜」

「うん……っ!」


 梓には隣に並び立ってくれる人がいる。梓の手を引き、導いてくれる人がいる。

 依存し合って、依存し愛う。自分勝手でも互いに凭れ掛かれるのならば、支えきれずに倒れる事もないだろう。

 例え互いが互いに何かの代替品なのだとしても、それでもきっと、繋がれた手の暖かさは、贋物なんかじゃない。

 ならば鴻上梓は、生きていける。

 その隣に、笑顔を浮かべてくれるその少女が居る限り。


 見上げた夏空は澄んだような蒼さで、肌を焦がす熱さが夏の始まりを予感させる。そんな昼下がり。

 鴻上梓と天羽茜は、今日も残酷な世界を生きるのだ。

 吹き抜けた夏の熱い風が、茜の麦わら帽子を撫でるように揺らしていった。

 








                                      (完)


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