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第一章 影と獣と人間喪失Ⅰ 少女鮮烈影は舞う

 何の変哲もない一日の終わり。

 もはやルーチンと化してきた退屈な生活の中で、暖かさに溢れた夕暮れ時(マジックアワー)が今日も終わる。


「それじゃあね梓、また明日。……あっ、現国のプリント、提出期限が明日までだからちゃんとやるんだよ。でも、宿題に夢中になってあんまり夜更かししちゃダメだからね? それから、寂しかったら私に電話しなさいよ? ずっとお家に一人なんて、身体に悪いに決まってるんだから」

「もう、分かってるって。(みず)()ねえは心配症なんだよ」

「寝る前は歯を磨くのを忘れない事。あと、明日の時間割と持ち物もちゃんとチェックする事。それから、制服はちゃんと畳んで皺にならないように……」

「もう、大丈夫だってば。それじゃあ明日ね、瑞葉ねえ」


 柔らかい苦笑を零しながら、毎日登下校を共にする心配性の幼馴染の少女にいつも通りの別れを告げて、茜色の空を背景に鴻上(こうがみ)(あずさ)は一人帰路についた。


 時折吹く風に、肩ほどまでの長さのある艶やかな黒髪が揺れる。

 瑞々しい十代の柔肌は傷一つ無く、第二ボタンまで外された制服の隙間から覗く鎖骨は触れれば壊れてしまいそうなくらいには脆く弱々しい。

 化粧など必要ないくらいに目鼻立ちの整った、どこかあどけなさの残る中性的な顔は、その華奢な体型も相まって、どこかお人形さんをイメージさせるような風貌だった。


 パッと見少女に見えなくもない外見をしている鴻上梓ではあったが、男子用の制服に身を包んでいる事からも分かるように、正真正銘の男性だ。実は女装趣味のある男だとか、男装して学校に通っている訳アリ少女でもない。

 そんな特別性など、平凡な鴻上梓からはもっとも遠い所にある物だ。

 夕暮れ空に響くひぐらしの鳴き声が耳に心地いい。

 既に鬱陶しい梅雨も開け、あとは高校生になって初めての夏休みがやってくるのを待つばかりである。


「もうすぐ、夏休み……か」


 退屈な授業に、面倒でつらいテスト期間。クラスメイトとの談笑や、時々みんなで食べる夕食。そして、いつも傍にいる幼馴染。

そんな、お決まり(テンプレート)ですらあるような学校での毎日が、梓は嫌いではない。こんな日常がいつまで続けばいいなと、素直にそう思う。

 だからと言って夏休みという非日常の訪れを喜ばないほど梓は浮世離れはしていなかった。

 どれだけ学校が楽しかろうと、子供は自然と長期休暇を待ちわびる生き物なのだ。


「今年は何をしようかな。瑞葉ねえも、毎日バイトがある訳じゃないだろうし、遊べる日も沢山あるよね……? あ、今年も二人でおばあちゃん家に行ったりするのも楽しそうだな」


 帰宅部である梓には、夏休みを部活で縛られるような事もない。

 全体的にたるんでいると思われるかもしれないが、あまり運動の得意でない梓からしてみれば、強制部活動参加が義務付けられていた中学校の方がおかしかったのだ。


 そう考えると、高校の今の環境は梓にとっては丁度いい物であるのかもしれない。


「我ながら、まったりした高校生活だよね」


 幸せ……なんだと思う。

 漫画やドラマのようなド派手で刺激に満ち溢れた毎日ではないかもしれない。

 でも、それでも、そんな生活を鴻上梓は愛していた。

 皆が皆、笑っていられる。炭酸の抜けたソーダみたいな、甘くてゆるい毎日。

 けれど、


 鴻上梓の幸せな世界は、たった数分のうちに木端微塵に砕け散る事になる。

 

「――?」

 最初に感じたのは不快感。

 自分のポケットの中を、いきなり知らない手でまさぐられるような、絶対の聖域に土足で踏み込まれる事に対する嫌悪だった。 


(――何だろう、今の……?)


 何かがいる。梓は特に何の根拠も無くそう確信した。

 視線? いや、それよりもっと、知らない何かに肌をそっと撫でられたような悪寒がある。

 怯えを滲ませながらも素早い挙動で首を振って辺りを見渡す。が、


「何もない……よね?」


 確認するように呟いた通り、梓が警戒した類のような物は何も見当たらない。

梓の周囲には少し早めの帰路に着く営業帰りのサラリーマンや、買い物袋に夕飯の食材を抱えた主婦くらいしかおらず、特に不審な存在は目につかなかった。

 至って平穏で、特筆すべき所などどこにも無い。ごくごく平凡な光景が広がっている。


「?」


 けれども不快感は尽きず、その場で首を傾げる。

 謎の不快感の正体は分からなかったけれど、何も無いならそれでいい。

 幽霊や妖怪と言ったオカルトの類はあまり得意ではないが、それでも頭のおかしな不審者に比べたら何倍もマシだ。

 勘違いなら、勘違いで済ませてしまおう。

 そう頭の中で梓は納得し、視線を足元に戻す。


 ……しかし、鴻上梓はのちに思い知る事になる。

 自分がどれだけ楽観的で危機感に欠けていたかを。


 全てが手遅れになったその時、つまり――


 ――それは今この瞬間に。


「ッ!? う、ぅわぁぁあああああああああッッ!!?」


 視線を戻そうと気紛れに首を回したその瞬間だった。背後より差し込む朱色の夕焼けに伸びる自分の影に、それは居た。

 理解できない。壊れたような絶叫が自分の口から飛び出した事を、自分の視界に飛び込んで来たモノを、この状況全てを、理解できなかった。したくなかった。

 ドッ、と。脱力するように腰が抜け、尻餅をつく。

 そのまま後ろについた手を必死に動かし後ずさり、ソレから必死に距離を取ろうとする。

 ……怖い。怖い……ッ!?

 生命の危機を感じさせる恐怖に、身体が硬直し心臓が早鐘のように鳴りだす。


「……ひっ!」


 うわずった嗚咽が漏れる。

 ソレを、見た。


 ――それは深淵を覗き込むような黒、 


 見たのだ。


 ――先の見通せない暗闇の化身、


 見てしまった。


 ――黒よりも黒く、白よりも濁って不透明で、全ての光りを吸い込み無に帰す――影。


 鴻上梓が見たソレは、梓の『影』に牙を突き立て喰らい付く、漆黒の化け物だった。


「なんだ!? なななんっ、何だっ、これッ!?」


大型のライオンほどの大きさはあるであろう化け物の頭部と思われる部分からは、細長い半楕円形の突起が二つ飛び出している。

 身体の大きさに反比例して小さな口をモゴモゴと動かす度に、梓の影が消しゴムで消したみたいに化け物の口の中へと掻き消えていく。

 食事にありつけた事に歓喜するように、ぴょこぴょこと頭の上で二本の突起が揺れ動く。

 四足歩行のその化け物の胴体後方の臀部(でんぶ)には、丸く愛らしい尻尾までついていた。

 この化物が一体何なのか。

 明らかに巨大だったり、闇そのもののような質感をしていたりと、異様な部分を除きさえすればその答えは簡単だ。


 それは、地獄の底に漂う闇のように真っ黒で悍ましい巨大な兎の化け物だった。

 巨大な兎の化け物が、むしゃむしゃとまるで草を食むように鴻上梓の影を食べている。

 いきなり奇怪な大声を上げた梓に、周囲の人達が何事かと訝しげな視線を向けてくる。

 だがそれだけ。

 ライオンサイズの巨大な黒い兎の化け物の存在に、誰一人として言及しようとしない。


 世界は何事もなかったかのように、梓の目の前で起きている怪奇を無視して回り続けている。まるで、そんな兎の化け物なんて存在していないかのように。


(――僕以外、見えていない……?)


 驚愕、恐怖、不安、混乱、困惑、焦燥。

 様々な感情が湧き上がっては沈んでいき、制御することができない。

 何か取り返しのつかない事態が進行している。その事実だけは分かるのに、何をどうすればいいのか分からない。

 明らかな異常事態に直面した身体はピクリとも動かず、まるで他人事のように自分の影が貪り食われる目の前の光景を傍観し続ける事しかできない。

 呼吸がおかしい。

 目がくらみ視界が歪む。

 胸が苦しい。怖い、助けて、そう叫びたい。

 しかし。

 助けを求めようにも、相手は梓以外の人間には見えない謎の化け物。一体誰に何と助けを求めればいいのだろうか。

 梓が怯え狼狽する間にも、着実に梓の影はその総量を減らしてゆく。

 既に梓の影は左肩から先が食い尽くされており、影の左腕は文字通り影も形も無くなってしまっている。

 これが全て食い尽くされた時、鴻上梓は一体どうなってしまう? 嫌に想像力が発揮され、恐ろしい未来像ばかりが浮かんでは消えていく。

 地球に訪れる最悪の未来を予言してしまい、その回避方法が分からず途方に暮れる予言者のように。

 ただただ捕食されゆくもう一人の自分を眺めているしかない。


「はぁ、はぁっはあはぁっ、はあはぁ……っっ!!?」


(怖いっ、なにこれ。分からない。何が、これ。助けて、誰か。一体僕はどうなって……! 分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない……ッ!!)


 分からない事が、この先を知らないという未知への不安が、無性に恐ろしい。

あまりにも理不尽すぎる恐怖を前に、無様に尻餅をついたまま怯えるしか能の無い鴻上梓のそんな絶望(セカイ)を、


 ザッ、という足音と。


「……で、アナタが新しく覚醒した『徒影(トカゲ)』ですって?」


 一人の少女が、そんな言葉と共にぶち壊した。


「――…………」


 突如として目の前に現れたのは、黒髪の少女だった。

 凛としたその立ち姿に自分の危機的状況も忘れ、鴻上梓はまるで何かに魅入られたようにぼうっと少女を見ていた。


 おそらく年齢は梓よりも一つか二つ下。

 サイドテールに纏めたやや青みがかった黒髪が、夏の夕暮れの生ぬるい風に舞う。

 キタキツネみたいに警戒心に満ちた勝ち気な釣り目は空の茜色を反射して光り、まだ幼さの残る童顔は、しかし凛々しく可愛らしさの中にも未来への美しさを秘めている。

 大人ぶった表情の中に見え隠れする年相応の幼さが何とも愛らしい小柄な少女だった。


 少女は薄い胸に黒いサラシを巻きつけて、その上からボタンを留めずに男物のジージャンを羽織っていた。勿論、へそもお腹も丸見えである。下も上と大差なく、太腿の付け根が眩しい短さのホットパンツと、全体的に動きやすさに重きを置いたような服装をしていた。

 少女は口の端に咥えていたスルメを味の無くなったガムみたいに路上に吐き捨てると、ジロリと上から下まで観察するように梓を不躾な視線で眺める。

 気が済むまで眺めてから、何か訝しむような顔で、


「ふん、随分と情けない面構えね。こんなんで本当に大丈夫なのかしら。……それにしても、凄い食欲ねソイツ。もう一割以上食われてる」


 少女の視線が梓から梓の影に取り付く化け物へと移った。

 少女は、しっかりと兎の化け物をその瞳で捉えている。

 見えている。

 間違いない。この少女にも、梓と同じ化け物が見えているのだ。


「でも、まだ運のイイ方よアナタ。ソレが見えるって事はまだ希望があるって事なんだから」


 随分と気楽な調子でそんな事を言ってこちらに歩み寄ってくる少女に、梓は茫然としたまま掛けるべき声を探した。

 だが、梓が何か声をあげるその前に、少女の脚が止まる。

 理由は単純、梓がどんな声を上げるべきか逡巡している内に、少女と梓との距離がゼロにまで縮まったからだ。

 少女は勝気な瞳を細めて梓の顔を鋭く射抜くと、何も言わずにいきなりその襟首を掴みあげた。


「うわっ、ちょ、何を……!?」


 自分より小柄な少女とは思えない膂力を発揮した少女は、梓を柔道の背負い投げの要領で軽々と担ぎ上げると、そのまま勢いよく手近な壁目掛けて砲丸投げの如く放り投げた。


「――『(えい)()』」


 少女が呟くように言ったそんな言葉を聞き取る余裕などあるハズも無く、梓は絶叫しながら痛みに備えて目を瞑る。結構な勢いで投げ飛ばされた梓は、そのまま受け身も取れずに硬い壁面に頭部を強打し――なかった。


「……………………あ、れ……?」


 違和感を感じたのは、ジェットコースターに乗っているような奇妙な浮遊感を覚えた為。

 予測した痛みと衝撃がいつまでもやってこず、思わず瞑っていた目をゆっくりと開く。

 すると開けた視界に飛び込んで来たのは、飛ぶような速度で頭上へと流れる一面真っ青の景色だった。

 端的に言おう。


「おっ、落ちてるぅううーっ!?」

 

 下から吹き上げるような突風を受け、梓の身体が風車のようにくるくると回転する。視界が何度も回り、遥か下にある地面を見つけて、さらにそれが凄まじい勢いで迫っている事を理解して、絶望した。

 一〇〇……二〇〇、三〇〇。いやもっとあるかもしれない。とにかくとんでもない高度から、鴻上梓は自由落下している。


 夕暮れ時だったはずの大空の輝く青が眩しい。

 凄まじい勢いで顔面に叩き付けられる風のおかげで、まともに叫び声をあげる事さえ困難だ。そして、そうこうしている内にも、地面はどんどん近づいてくる。

 もうどうにもしようがない。おかしな兎の化け物に食べられる前に、こんな形で死ぬ事になるだなんて、数秒前の梓は欠片も予想していなかった。

 あと三メートル、あと一メートル……もうダメだぶつかるッッ!!


 梓の頭の中にこれまでの記憶が映像として走馬灯のように駆け巡り、そのまま頭蓋骨の中身を潰れたトマトのように辺り一面にぶちまけて――


「――なにやってんの、アナタ?」

「え……?」


 呆れたような声を掛けられ、梓は自分の五感がまだ生きている事に気が付いた。  

 顔面から地面に落下した体勢のまま固まっていた鴻上梓は、自分の身体が五体満足のまま存在し、未だに息をしている事をようやく知る。

 事態を呑み込めぬまま立ち上がって、自分の身体を見回すが、特に怪我もしていない。

 自分が生きている事への喜びより、自分が何故死ななかったのかという困惑の方が大きく、素っ頓狂な声を上げてしまう。


「え、なんで。なんで生きて……えっ、え??」

「『(えい)(じゅう)』に影を食われ、『()影界(えいかい)』にまで入ったアナタが今更ただの物理法則で死ねると思ってるの? ……って言われても、理解できないわよね。まあいいじゃない。とりあえず今はそうして生きてるんだし。……無事かどうかは置いておいて」


 片目を瞑ってどこか脱力するようにそこまで言った少女は、どこか遠くを見つめるように瞳を細め何かを視界に収めると、気を取り直すように口調を切り替える。

 まるで何かのスイッチを入れ替えるような独り言、


「……来るわ」

「来るって、何が?」


 思わず尋ねた問いかけに、少女は視線を向ける事もなく答えた。


「だから『影獣』よ。アナタの影を食べた化け物。アナタ諸共こっち側に投げ込んだんだけど……食事を邪魔したアタシに、さぞお怒りなんでしょうね」

 

 少女は、おもむろに何もない懐から一振りのどこかのっぺりとした太刀を取り出すと、鞘を投げ捨てるように抜刀して、告げた。


「――(しん)(めい)解放(かいほう)。狩りの時間よ、起きなさい『(ねこ)()ぎ』」


 瞬間、見えない何かが渦巻いた。

 それは一瞬で一陣の風へと変わり、少女と少女の持つ刀とをヴェールのように包み覆い隠す。

 風が止み、視界が晴れると彼女の手元には、一振りののっぺりとした太刀ではなく、二振りの双剣が握られていた。


「ぶっ殺す」


 野蛮で物騒な言葉と共に、梓の視界からサイドテールの少女の姿が霞の如く搔き消えた。



 ――正面衝突。


 

 カッと、行場を無くしたエネルギーが膨張し光となって爆ぜる。

 少女の全力の一振りと、兎の影獣の全力の突進とが、空中でぶつかり合った結果だった。

 双方無傷。挨拶の一撃は引き分け。


「チッ、意外と硬い。……こいつ、空腹のくせして結構やるわね」


 勿論言葉など持たない影獣が、少女の憎まれ口に返事を返す訳もない。

 怒りに兎耳を震わせ、この世の物とは思えない叫び声を上げると、目にもとまらない挙動で少女の背後へと一瞬のうちに回り込む。

 兎としての特性。その爆発的なまでのスピードに、しかし少女も一歩も退かない。

 背後……つまり死角から突きたてられた鋭い前歯を、左脇の下をくぐるようにして挿し込んだ右の双剣の刀身で受け止める。

 ガギギィッ! と火花が散り、己の必殺の一撃を止められた兎が怒りに猛った叫びを至近で放つ。 

 しかし少女はそれを意に介す事もなくニヤリと壮絶な笑みを張り付けて、


「一撃、放ったわね?」


 受け止めた方とは逆、振り返るようにしてくるんっと左の剣を全力で振り抜いた。

 ()(しゃ)ッ!!

 と、形容しがたい程に凄まじい斬撃音と共に、兎の化け物の左耳が根本から切断された。

 先ほどの兎の突進と拮抗した一撃とは、切れ味も破壊力も、何もかもが桁外れ。

 傷口から真っ赤な鮮血……ではなく、ドス黒い墨汁のような液体を噴き出しながら、兎の化け物が激痛に悶絶し、狂ったようにその場で怒り吠える。


「悪いけど、速いっていってもその程度じゃ、十分に見切れる。見切れるって事は、『カウンター』を入れる事は容易。それってつまり、アタシの勝ちって事だから」


 隙なく双剣を構える彼女の瞳に映るのは、一片の疑いもない勝利。

 溢れ出る充実した気力が、彼女が強者である証明だった。


「だから、……さっさとアタシに食われろォ!」


 獰猛な笑みで吠えて力強く大地を蹴った少女の身体が弾丸のように加速、一気に兎へと肉薄すると右の剣を鋭く横薙ぎに振るう。

 しかし今度の一撃は、その硬い体表を貫き切れずに阻まれる。が、重たい衝撃に兎がノックバック、兎は痺れながらも追撃から逃れるように何とか大きく跳びずさって後退しようとする。

 しかし、その直前に少女の左の剣戟が追いすがるようにして走り、着実にダメージをその身に刻む。

 追う少女と逃げる化け物。狩られる側と狩る側が逆転した世界で、ちっぽけな少女が圧倒的な暴威を振るう。 

 その光景はあまりにも圧倒的だった。


「す、ごい……」


 二振りの刃と舞い踊るように戦う少女は、鮮烈な美しさを梓の網膜に焼き付けた。

 煌めく白銀の剣閃に、揺れる一房の黒髪。華奢で儚い少女が、まるで狂戦士のようにわき目も振らずに双剣と踊り戦う姿は、自然と梓の心を不思議な興奮で包んだ。

 何が起こっているのか。そもそもあの化け物の正体も、その化け物と対等以上に渡り合うあの少女が何者なのかも、何も分からない。

 ただ、十六年間生きてきた鴻上梓の常識を軽々と吹き飛ばす何かが、今目の前にあった。

 何もできず、何者にもなれず、自身にこれと言って何の価値も見いだせない鴻上梓とは違う。

 確かな何者かであるその少女は、痛い程に鮮烈で苛烈。

 梓の心を釘付けにするには十二分の破壊力を秘めていた。


 凄まじい攻撃の応酬の結果、梓の影を食べていた黒い兎の化け物は既に虫の息だ。

 少女は逃げる事も叶わなくなったそれに近づくと、その小柄な身体からは想像できない凄まじい勢いの蹴りをその胴体にぶち込んだ。

 兎の巨体が宙を舞いごろごろと転がって、梓の二、三メートル手前でその勢いを止めた。


「うっ……!」


 この至近距離から改めてその姿を眺めてみると、兎の化け物はとても現実に存在している生き物とは言えないような不気味で恐ろしい姿をしていた。

 そこに居る実感が薄いというか、まるでのっぺらな影絵でも見ているような錯覚に陥りそうになる。クレヨンで塗りたくったような不自然な黒で、どこまでも無機的なのだ。

 どこか魅了され吸い寄せられるように兎の化け物を眺めていた梓の思考を、


「いつまでぼーっとしてんのよ」

「うわ!?」


 そんな少女の声が遮った。見ると、虫の息の兎の化け物の上に、勝利を誇るように少女が仁王立ちで立っていた。

 一跳びでここまで跳躍してきたのだろう。いよいよ人間業じゃない。


 ザッと、音がしたかと思うと梓の足元に一振りの太刀が刺さる。

 それが少女が投げるようにして梓に渡した物だと気付くのに、数秒の時間を要した。

 梓は遠慮するように、恐る恐ると言葉を投げかける。


「あ、あの。これは……?」

「アナタの『影断ち』よ、それ」

「僕の……?」


 少女の返答に戸惑った声を上げる。

 だって、ここは日本だ。銃や刀を所持する事は法律で禁じられている。当然、そんな名前の刀にも梓は身に覚えがなかった。


「ええ、だってアナタがやらなきゃ意味がないもの」


 意味深な事を言う少女。だが梓には、少女の言っている事の意味がさっぱり分からない。


(僕がやらなきゃ意味がない? ……なんだそれは。それこそ意味が分からない。だって、僕は……そもそも今のこの状況が何一つとして理解できてないって言うのに、僕がやるってなんだ? 僕にできる事なんて、ある訳ないのに)


 そもそも説明も何も無く、意味も分からないままこの少女の戦いに巻き込まれたのだ。

 そんな全てを知っているような前提で話を進められても、ついていけるはずがない。

 頭の理解の方も勿論だが、何よりさっきからどう自分の感情と向き合えばいいのか分からない。

 あまりにも美しく苛烈な少女への憧れ。助けてくれた事への感謝。

 そしてそれと同等に、自分はまだ生きているのか? あの化け物に食べられた影は一体どうなる。

 ひょっとしたらここは天国のような場所で、地面に落下した時に鴻上梓は既に死んでしまっているのではないのか? そんな不安も頭をよぎるのだ。


 頭の中はぐちゃぐちゃで、それ以上に心は滅茶苦茶だった。


「ちょ、ちょっと待ってよ。さっきから何が何だか僕には分からないんだ。あの化け物は何なの? あれを倒した君は一体何者? 僕を、助けてくれたの?」


 次々と際限なく湧き上がる不安と疑問を少女にぶつける。だって、それしかできない。


「それに空もおかしい。ついさっきまで夕暮れだったはずなのに、今はこんなに晴れてる。この時間にここまで人の気配が無いのもありえない。……ここは一体どこ? 僕は、どうしてこんな所にいるの? 僕は、一体どうなってしまったの?」


 他にも聞きたい事は沢山ある。

 でも、今聞いた事だけでも教えて貰わないと、梓は自分が今ここで何をすればいいのかも何も分からないのだ。

 ただの高校生でしかない鴻上梓は、目の前の超常的な力を持つ少女と比べて、余りにも無力だった。


「一度に山ほど……生まれたてのヒヨコみたいにうるさいヤツね。でも、不本意だけどアナタの監督役になったからには説明する義務がある……か。いいわ、色々教えてあげる」


 タッと、軽やかに少女は兎から飛び降りると、顔にかかるサイドテールを払って、言った。


「まず初めに、ここは『()影界(えいかい)』。『人間界』にぴたりと寄り添った裏側、影の中にあるもう一つの世界の姿」

「『裏影界』……それが、この場所の名前?」

「そう。で、アナタを襲ったこの兎の化け物は『(えい)(じゅう)』。世界の(いん)を司る……ううん、簡単に説明すると、人の影を喰らう影の化け物ってとこね。で、アタシの名前は天羽(あまは)(あかね)。不本意ではあるけど以後よろしくね」


「天羽、茜……。それが、君の名前」


 天羽茜と名乗った少女は、挑発的な笑みを浮かべて。


「で、アタシが何者かって言ったわね? ええアナタのご想像の通りよ、アタシは人間じゃないわ。アタシは『徒影』。影獣を殺す為だけに存在する者……とでも言えば少しは分かりやすいかしら」


 『()影界(えいかい)』に『(えい)(じゅう)』に『()(カゲ)』。

 聞いた事もない専門用語のオンパレードに、早くも付いていけなくなりそうになる梓。

 しかし、耳を塞ぎたくなるような話は、まだ終わらない。


「で、アナタは今からこの化け物を、その『影断ち』に封印しなければならない。……ここまで説明すれば、自分のやるべき事が分かるかしら?」


 さらりと、何でもないような調子でそんな事を言ったのだ。


 一瞬、真白になる頭。直後に波が押し寄せるように、思考回路がエラーで埋め尽くされた。


「ま、待って。僕が!? その化け物を封印!? で、出来る訳ないよ!」

「ちなみにアナタに拒否権はない。拒否してもいいけど、その場合アナタに待つのは決定的な死よ」

「……僕を、殺すの……?」


 死。

 その言葉に思わず身が竦んだ。

 必死に怯えを隠そうとした言葉は、しかし余りにも分かりやすく震えていた。

 争い事が苦手な梓には、死ぬだの殺すだのの話はあまりに刺激が強すぎる。

 激しく動揺しているのが見え見えな梓に、茜は噴き出すように笑う。


「……ぷっ、あはははっ、そんな顔するなっての、少なくともアナタをアタシが殺すって話ではないわ。でも、あの影獣を封印しない限り、どっちみちアナタは死ぬわよ? というかそもそもの話、影を食われたアナタはもうまともな人間じゃないから」


 何を言っているのか、分からなかった。


「……え?」

「ただの人間が『裏影界』に入れる訳ないでしょ? ここは影の眷属の世界よ。それはつまり、アナタもこっち側の存在になったって言う事なんだけど、言っている意味分かる?」

「……」


 理屈は何となく分かった。あの兎に影を食われた時点で、もう鴻上梓はまともな人間からは外れている。少女が言っているのは、要するにそういう事だ。

 確かに、自分だけに『影獣』とかいう訳の分からない化け物が見えたり、こんな聞いた事も見たこともない世界に入り込んだり、とんでもない高さから地面に落下したのにピンピンしていたりと、自分がおかしくなっているという自覚はある。

 少女の説明も、何となく話の辻褄は合っているような気はする。

 だけど。


「嘘……だ」


 認められるはずがなかった。こんな、こんな風に鴻上梓が終わるなんて、そんなの嘘だ。

 そんなにあっさりと、まるで今日の掃除当番を告げるような感覚で『お前はもう人間じゃないから』と宣告されて、それを素直に受け入れられる人間などいる訳がない。

 いる訳がないのに。


「嘘ついて何になるのよ。アタシが何の為に出張ったと思ってるの? アナタの結末を見届ける為よ」

「結末……?」

「そう、結末。その『影断ち』に影獣を封印して、新たな『徒影』が一人目覚めるか。それとも封印に失敗して、新たな『影獣』がここに一匹誕生するか」


 茜はつまらなそうな瞳で梓を睥睨すると、もう一度だけ影獣に視線を向けた。


「早くした方がいいわ。そこの影獣もアナタも、いろんな意味でそろそろ限界が近いから」


 理屈を理解出来たとして、それを心が認められるとは限らない。

 でも、そんな梓の心境などお構いなしに、世界は理不尽と不条理を振りかざす。

 対応しきれなければ、待つのは無慈悲な死。

 そう言われてなお、梓は己の身に起きている出来事にまるで現実味を感じない。


(やらなきゃ……死ぬ? 僕が、ここで……? まさか、そんな訳が)


 安っぽい映画の中に入り込んだような気分で、のろのろと動く右手が地面に刺さった太刀に触れる。氷のように冷たく、ずしりと重い。


「はぁ、はぁ、はぁはぁはぁはぁはあはぁはぁはあッ!!」


 まるで現実という実感を持てず乖離しかかった心で、鴻上梓はただただその少女に言われるがままに、そのどこかのっぺりとした太刀を虫の息の兎の影獣に突き刺さんと大きく振りあげて――


 ――ザクリッ、何かが潰れる水っぽい音と共に、鴻上梓の世界は、取り返しのつかない次元で崩壊した。

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