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第四章 優しさの選択Ⅲ 優しさの答え――例え君がそれを望まなくとも――

 嵐の前の静寂が、もう一つの戦場を包んでいた。


「もう気が付いているだろうが、オレの『絶対法の王権(アブソリュート・ロウ)』に斬られた影獣はその全てが例外なくオレの支配下に置かれる。だがな……。人間を斬れば人間を意のまま操れる、という便利な代物でもなくてな。あの女に意識がある内はそれはもう抵抗された物だ。……もっとも、そういう強さも含めて、オレの目に止まったのだがな」


 静けさの中にびりびりと漂う殺気に酔いしれるかのように、王我最命は上機嫌に語る。

 好戦的で、野蛮で、実に独占的。典型的な『徒影』らしい、自分を中心に世界が回っていると本気で思っているタイプの男だと、茜は思う。


「くっくく……助けてやらないでいいのか? あんなモノでも、貴様の弟子なのだろう?」


 たった一人の己の家族――だった影獣と殺し合わねばならない哀れな『徒影』の少年に嘲弄の眼差しを向けたまま、王我最命が侮蔑も露わにそう問いかけてきた。


 強烈な一撃が梓を襲い、轟音と共に吹き飛ばされる光景が目につく。

 実力差は歴然だった。

 『徒影』になりたての梓では、あそこまで巨大で強力な影獣を相手に勝てる可能性はおろか、生き残る可能性さえ極めて薄い。


 それを理解して、だというのに天羽茜は、そんな愚問を投げかけてきた王我を小馬鹿にするように嗤い、その問いに即答する。


「馬鹿なの? そんな事するわけ無いでしょう」


 それは、捉えようによっては酷く非情な言葉だったかもしれない。


 けれど違う。


 そもそもの話だ。鴻上梓が傷つかないようにその身を守ってやるだけならば、あの少年をこんな戦場に連れてきたりはしていない。鴻上梓が深く傷つく事になる事は、この戦場に彼を連れていくと決意した時点で分かっていた事だ。


 ならば天羽茜は鴻上梓の『師』として、本当の意味で梓の為にしてやれる事を成すまでだ。


「あれは、あの子が越えなければならない『壁』よ。だったら『師』である私にしてやれる事なんて、せいぜい邪魔が入らないように見守ってやる事くらいじゃない。……馬鹿みたいよね、優しい人になりたいって、誰かの為になる事をしたいって、『徒影』になってまであの子はそんな狂った絵空事の願いを本気で抱いている。でも、きっとこのままだとあの子は見失うわ。自分が望んでいたことの意味を、優しさってモノの本質を。見失って、手遅れになる程に色んなモノを失って、既に狂っているのに間違った方向へさらに壊れ果ててしまう。だからこれは分水嶺。あの子が本物を手に入れられるかどうか、あの子が本当にそんな残酷な本物(、、、、、、、)を望んでいるのかどうかを、確かめる為の最終試練」


 茜がその両手に手にした双剣『猫剥ぎ』を構える。

 漲る闘志が爆発し、莫大な影力となって迸る。


「だから全部まとめて掛かってきなさい。こっから先は、例え誰であろうと通しはしない!」


 バチバチと、弾けるように溢れ出た影力が黒い火花となって散る。

 視覚化される程の莫大な影力を目にして、未だ王座から動こうとしない王我が興奮を隠そうともせずに高らかに声を上げた。


「ますますもって面白い女だ。天羽茜。その覚悟、しかと受け止めた。ならば示してみよ。己とその覚悟が、絶対であるこのオレが相手取るに足る物だと。さあ前哨戦だ。オレの下僕全てを殺し尽し、このオレを王座から引きずり落として見せろ!!」


 王我最命の支配下にある一〇〇にも迫る影獣その全てを相手取った、天羽茜の壮絶な乱舞が始まる。 



☆ ☆ ☆ ☆



 まるで巨大な大木で殴られたような一撃に、鴻上梓が空を舞う。


「がぁッ、はぁ……っ!?」


 空気が強制的に吐き出され、梓の口から墨汁にも似た粘つく黒い液体が吐き出される。

 まるでタケトンボのように空中で回転する梓が回る視界の中で見た光景は、落下する梓へと猛スピードで迫る巨大な影獣の突進だった。


(――死ぬ……!?)


 直感で自分の末路を理解した梓は、


「ぐっ……えい、歩……っ!」


 を絞り出すように告げ、鈍器のような影獣と衝突するその刹那、引力にも似た力によって半強制的にその落下コースを変更する。

 ギリギリ影獣の真横をすり抜けるような形になり、どうにか轢死の結末を回避する。


 目視し、目的地へと設定した影へ吸い寄せられるように移動する『影歩』を応用した回避は、しかし梓の体勢とその軌道にかなり無理があった。

 着地の際にバランスを崩し、地面を何度も弾みながら数メートルの距離を転がってようやくその勢いが止まる。

 どうにか膝をついて上体を起こし、影獣となった瑞葉に必死の思いで言葉を投げかけた。


「げほっ、がぼっ!? ……ま、待って。瑞葉、ねえ……!!?」


 嘶き、威嚇するように前足を上げる影獣に、梓の言葉は通じているようには思えない。

 けれど、


 ――……けて、梓。……がい。私を…………けて。


(く、そ。……聞こえる……!)


 影獣のホース状の鼻の中程が風船のように膨らんだかと思うと、次の瞬間には空気の弾丸が勢いよく連続で射出される。

 鳩尾に突き刺さる軌道のソレを、膝立ちのまま『影断ち』でどうにか切り払おうとする。一撃、二撃、三撃目まではかろうじで対処できたが、四撃目――切り返すように振るう刃の切っ先が僅かに届かない。


 ゴッ! と、ボクサーの本気の一撃を鳩尾に貰ったような、洒落にならない衝撃と共にまたも梓の身体が水平に吹き飛ぶ。観客席とグラウンドを隔てる壁に強かに背中から打ちつけられ、比喩抜きに呼吸が止まった。


 ――梓、私を…………けて、おね……い。


(……聞こえるんだよっ、声が。瑞葉ねえの苦しむ声が……ッ!)


 ずるりと重力に引かれて壁から滑り落ちる梓に、地響きのような足音を響かせて影獣が迫る。先端の鋭くとがった荒々しい象牙が、夕日を受けて燃えるように煌めくのが見えた。


「や、めて。瑞葉ねえ……。僕、は、戦えない。瑞葉ねえとなんて戦いたくない……っ」


 鴻上梓には不可能だ。

 影獣を――見ず知らずの他人の残滓すら殺せない『徒影』に、家族を、瀬戸瑞葉を殺せる訳がなかった。

 何が影獣だ。ふざけるな。

 梓には分かる。例え姿形が変わっても、声が伝わってくるのだ。

 今目の前で苦しんでいるのは、アフリカゾウの姿を模した影獣なんかじゃない。人の影を喰らい、世界の陰と陽のバランスを乱す害獣などではない。穏やかで優しく思いやりに満ち溢れた少女、瀬戸瑞葉だ。

 瑞葉が化け物だなんて言わせない。影獣などと言う、世界を壊してしまう害悪な存在などでは断じてない。

 瀬戸瑞葉は鴻上梓の大切な家族だ。

 だから、傷つける事なんて、できる訳がなかった。


 それでも影獣はまるで梓をいたぶるかのように、ゆっくりと近づいてくる。

 一歩近づくたびに、自分の死期もまた近づいているのだと理解する。

 獣臭がかかる程に接近した影獣は、感情の映らないつぶらな瞳で、ジロリと観察するかのように梓を見やった。

 絶望に暮れる梓の顔を見て、その口元がにやりと吊り上がったような錯覚を覚える。


 ダメージで痺れたように動かない梓の身体に、真上から鉄槌の如き一撃が繰り出された。

 ホースのような鼻を踊るようにしならせ、遠心力を加えられたその一撃を、梓は死力を尽くして頭上に水平に掲げた『影断ち』でどうにか防御を試みる。


 ズンッ! と、地鳴りのような音が、梓の身体を直接走り射ぬけた。

 一撃でぺしゃんこに潰される事は避けたが、尋常じゃない重量と衝撃が体内の内臓をかき回し、梓の口元から墨汁のような液体状の黒い影が気泡混じりに流れ落ちる。


「大丈夫、だよ。瑞葉ねえ、僕が、僕がきっと、助けてあげるか、ら……がァッ!?」


 一向に押し潰す事ができない事に痺れを切らしたのか、またも鼻を鞭のようにしならせ、今度は横からの痛烈な打擲。

 頭が吹き飛んだのではないかと疑うような衝撃に意識を失い、体勢が崩れた隙を狙うように連続で振るわれた一撃が鳩尾深くに突き刺さる。

 喉元にせりあがる嘔吐感と爆発する痛みに再度意識が覚醒、ここでようやく先の一撃で側頭部を殴られたのだと遅れて知る。そのまま鼻の先端で器用に胸倉を掴まれて、モーニングスターの如く反対側の地面へと投げ飛ばされた。


 受け身も取れず背中から落下した。


「ぐっ、がぁ……ッ!? ごぼッぅ、ば、げがぼっ、ぜっぇ、はぁ……!」


 満身創痍だった。

 心も身体も、もう限界だった。

 どうしてこうなってしまうんだ。なんで、瀬戸瑞葉でなければならなかったんだ。

 今更そんな事を考えて、行場のない怒りが胸中で沸き起こる。


 でも、もうどうでもいい。だって、どうしようもないではないか。 

 周回遅れの思考に、手も足も出ない圧倒的な戦闘力の差。

 そして家族相手に反撃する気概などもとより持ち合わせていない。


 そうして、心が敗北を認めつつあり、立ち上がる事さえ儘ならない梓のその胸に、鋭い痛みが走った。

 最初は、それが感情から来る痛みだと思った。

 でも、違う。

 心の痛みは、もっとじくじくとした痛みで、髪の毛を掻き毟りたくなるような我慢のしようがない不快感を伴っていて、水面下に潜り続けるかのように、苦しい物だ。

 いっそ解放感さえあるような、鋭く突き刺さる痛みの原因を探ろうと、梓は視線を己の胸元へと向けて――


 ――巨人の槍のような、荒々しい象牙が、鴻上梓の胸を貫いているのを、見た。


 まるでケーキのスポンジをフォークで突き刺すように、いとも簡単に。

 その白い牙の先端が梓の肉をずぶずぶと貫いて、半ば程まで肉に埋まっている。


「……あ、……?」


 ごぽっ、と。自分でもいっそ驚いてしまうような量の墨汁のような影が、口から、傷口から溢れ出してきた。


 ――お願い、梓。……私を助ける為にィ……ここで喰われろォ……ッ!


 怒りと苦しみに満ちたその声は、梓に対する怨嗟さえも孕んでいた。

 瑞葉の望みに、梓は瞳に涙を溜めながら、壊れたように答える。


「ぼく、僕は、……瑞葉ねえが、そう。望むのなら……」


 その言葉に、抵抗する気力が完全なる零と化した。

 そうか、これで死ぬのか。

ドッと全ての力が抜け落ちていくような心地いい脱力感を自覚して、他人事のようにそんな感想が浮かんだ。


(……ああ、結局。僕って、何だったんだろうな……)


 朦朧とする意識の中、ふとそんな事を考える。


 始まりは実にありふれた、母への想いからだった。

 誰かに優しくありたかった。

 その人の為を思って、本当の意味でその人の為になれる事を、その人の為にしてあげられるような、そんな人に成りたかった。

 鴻上梓は、優しい人間であれればそれで良かったのだ。

 そんな梓を見て、梓の事をひまわりの咲くようなあの笑顔で褒めてくれる人がいれば、ただそれだけで満足だったのに。


 多くを望んだ訳じゃない。


 見返りが欲しかった訳でもない。


 身の丈に合わない奇跡を願った訳じゃない。


 邪悪な野望を宿していた訳じゃない。


 報酬を求めた訳でも、多くの人に尊敬されたかった訳でも、沢山の人から愛されたかった訳でもない。


 ただ、できる事ならもう一度。あの笑顔(ひまわり)が見たかった。


 究極的には、ただそれだけ。

 ただそれだけの為に自分の身をどこまでも犠牲にできる梓は、確かに壊れていたのかもしれない。


 けれど、壊れていたら、狂っていたらダメなのか?

 笑顔を望むのは、ただ一人に褒められたいと願うのは、

 そんなにも罪な事なのだろうか。

 そんなにも、願ってはいけない望みだったのだろうか。


(どうして僕が、こんな辛い目に遭わなきゃいけないんだろう)


 母は死んだ。

 母のように、本物の姉のように梓に接してくれた、梓の新しい太陽となってくれた瀬戸瑞葉は、影を喰われて影獣となり永遠の苦痛を受け続ける。

 そして梓は、そんな壊れてしまった家族に影を喰われ尽して、その短い『徒影』としての生を終える。


(僕は、こんな目に遭わなきゃならない事を……したのだろうか……?)


 瞳に溜まった涙は、零れそうになかった。

 胸の痛みは身体を引き裂きそうな激痛だけれど、どうしてか心はそこまで痛くもない。

 度重なる出来事に麻痺しているのかもしれないと思ったが、それならそれで都合がいい。

 どちらにしても影獣を狩る決意さえ持てなかった鴻上梓に、『徒影』として生きていく事は出来ない。

 どうせ閉じる未来ならば、瀬戸瑞葉に食われて終わるのも、また悪くないだろう。

 きっと結末としては上から三番目くらいには幸せなはずだ。

 もう、いいや。目を閉じてしまおう。そう思ったその時。


「――鴻上ッ、梓ぁぁあああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 全てを諦め投げ出そうとした梓の意識を、


「それが、そんな結末が、アンタの望んだモノだって言うの!? ふざけるな! そんなのちっとも優しくなんかない、アンタのソレは、全部、自分に優しいだけじゃないッ!」


 梓の憧れた少女のそんな叫びが、この世界に踏み留めさせた。

 声は、言う。天羽茜が喉を枯らして叫んでいる。


「ふざけるな! 辛い事から逃げてるんじゃないわよ! 全部が全部自分が犠牲になっておけば誰も傷つかないだなんて、本気で思ってんのかよこの大馬鹿梓ァッ!」


 意味が分からなかった。

 だって、だって、その通りではないか。

 傷つくのが梓一人なら。梓が犠牲になって全てが上手くいくのなら、それはとてもいい事のハズだ。

 それを望んだ人がいるならば、鴻上梓はそうあるべきなのだ。

 その人が望む事を行う事こそが、その人の為になる事なのだから。


 だからこの結末は正しいハズだ。

 『徒影』として瀬戸瑞葉を斬り殺すのではなく、『家族』として瑞葉を受け入れ、死を享受するこの結末こそが、最高に正しく優しい幸せな結末(ハッピーエンド)のハズだ。


 なのに。茜の叫びは、梓への糾弾は止まらない。


「アンタの自己犠牲は全部が全部アンタの為の自己犠牲じゃない。アンタが傷つかない為の自己犠牲に、周りを巻き込まないでよ! 痛いのよ、見てるアタシが、優しくされたソイツが、一番痛いのよ!」


 意味が分からない。 

 本当に、本当に。本当にッ本当にッ!


「アンタが本当に優しくあろうとするなら、その人の『声』を聞いてよ! 独りよがりの優しさじゃない、本物を掴んでみせてよ!」


 ふざけるな。そう返してやりたかった。


 痛いに決まってるじゃないか。鴻上梓だって、辛くて痛いに決まっているのだ。

 それを我慢して、見ず知らずの他人の為にさえ身を砕いて、全てを投げ打って、何もかもを我が身を犠牲にしてきたと言うのに、どうしてそんな事を言われなければならないのか。

 そう、反論しようとして――


『――梓、……、……を……て。を…………て』


 何か、雑音に紛れた……囁くような声が、聞えた。


「?」


 ノイズがかったような声は、不明瞭で何を言っているのか判断が付かない。

 じっと耳を凝らす。何か、大切な何かを見過ごしてしまう気がしたから。意識の端に引っ掛かったその感覚を慎重に引っ張り上げるように、その声だけに全神経を傾ける。

 意識を集中させると、途切れ途切れで不鮮明だったそれは、確かな意味を持つ言葉となる。


『――梓、お願い、話を聞いて。私を……助けて』


 それは、疑いようの無いくらいに瀬戸瑞葉の声であった。

 けれど、今までの苦しみと怨嗟に満ちた声とは、どこか声色が異なっている。

 優しく、穏やかで、思いやりと慈愛に満ちたその声は、梓のよく知る少女の、よく知る声だった。

 自分で自分に唖然とする。どうして今まで気が付かなかったんだろう。


 ……いや、そうでは無い。本当は何もかも気が付いていたのだ。

 鴻上梓はただ、気が付かないフリをして、目を逸らしていただけだ。

 まずはそれを認めよう。きっと梓はそこから始めなければならないのだから。


 ……傷つく事を恐れていた、


「傷つくのを恐れていたのは、アンタ自身。恐れたのは、自分の心が傷つく事」


 ……失う事を恐れていた、


「失う恐怖に怯えていたのは、アンタ自身。怯えたのは、大切な物を失う瞬間を、アンタ自身がその目にする事、それで自分が傷つく事」


 ……自分が真っ先に犠牲になれば、心は傷つかないで済む。失う恐怖を感じないで済む。

 そんな方法で救われた側の心の傷を、救われた側の感じる失う事への恐怖を、まるで考えていなかった。誰かに対して優しくなど無かった。全部、見せかけだった。梓が優しかったのは、他の誰でもない、梓の弱い心へだったのだから。


「優しくあったのは自分自身へ。誰かの代わりに己の身を傷つける事で、自分の心が傷つくことから護っていた。他人の心が傷つく事なんて、微塵も考えていなかった。だから鴻上梓は誰かに優しくなんて無い。アンタのそれは、自分の為の自己犠牲。自分可愛さ故の優しさでしかない……」


 母はいつも言っていた。


『優しい人になりなさい』


 口癖のように、呪文のように、それが魔法の言葉であるかのように。


『その人の為を思って、本当の意味でその人の為になれる事を、その人の為にしてあげられるような人になりなさい』


 何が本当にその人の為になるのか、何をすればそれがその人の為になるのか。鴻上梓は本当の意味での優しさを、分からないフリをしていたのだ。


 だから、その人が願う事を、望む事を叶えようとした。

 きっとそれが、その人の為になる事なのだと信じ込む事によって、本当に大切な事から目を逸らし続けていた。


 本当の優しさとは、本当の意味でその人の為になる行いとは、

 時に残酷な程に厳しく、辛く、そして悲しい事なのだと、母を見てきた鴻上梓は知っていたから。


「本当にその人の為を祈るなら、本当にその人に優しくあろうと思うなら、例え自分の心を傷つけてでも、例え自分がどれだけ苦しい想いをしてでも、例え狂って壊れ果ててでも、やり遂げないと嘘じゃない!!」


 今なら聞こえる。

 いや、本当は最初から。ずっと前からその声は聞こえていた。

 聞こえていて、それを聞えないフリをしていた。

 自分が傷つきたくなくて、心が壊れてしまうと思ったから。

 子どものようにいやいやと耳を塞いでいたのだ。


『――梓、お願い。私に梓を、愛する弟を殺させないで。どうか私を……助けて……!』


「優しさから目を逸らすな! 鴻上梓ぁあああああああああああああああああッッ!!!」

 

 応えない訳にはいかなかった。


 例えその選択が、悲しい結末を迎えると分かっていても。


 例えその優しさに、自分の心が悲鳴を上げようとも。


 例えその優しさが、辛く、厳しく、痛みを伴うのだとしても。


 本当にその人の事を思うのなら、それが本当の優しさなら、鴻上梓はそれを実行する。


「例え君が――」


 力が戻る。

 脱力し、全てを諦め投げ出しかけていた身体に、溢れんばかりの影力が湧き上がる。


「――それを望まなくとも」


 だらりと下げられていた両手は、いつしか『影断ち』を握りしめ、その瞳には、時に人を暖め癒し時に人を破壊し殺戮する炎のような、厳しくも暖かい光が灯っている。

 立ち上がる。莫大な力を跳ねのけて、しっかりと二本の足で大地を踏みしめる。


 ――坊や、私の名を呼びなさい。


 『影断ち』の中の彼女(、、)が鴻上梓の決意に呼応するように意識上に現出する。


 ――約束を果たす時が来たわ。壊れるまで、いっそ狂い果ててしまうまで、私を滅茶苦茶にして。アナタの好きなように使って……。


 今こそ我が名を叫べと、声高々に主張するのが分かる。

 だから、迷う事もなかった。最初から、その名を知っていたかのように。鴻上梓は彼女(、、)の名を告げる。  


「――(しん)(めい)解放(かいほう)(いざな)え、『色香狂(いろかぐる)い』……ッ!」

 ザンッ! と。頬を伝った一滴と共に。


 妖しく妖艶な一閃が、鴻上梓を貫く象牙ごと、瀬戸瑞葉だった影獣を一刀の元に両断した。


『――……あぁ、ありがとう、梓。これで、これで私は……』


 巨大な影獣が黒い粒子となって世界に溶けるように消滅するその間際、溢れる感情のままに泣き笑った瀬戸瑞葉の声が確かに梓には聞こえた気がした。


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