第四章 優しさの選択Ⅱ 開花せし絶望、枯れゆく笑顔
人間界では熱狂的な試合が行われる緑の芝生のグラウンドも、人っ子一人見当たらないこの裏影界では単にだだっ広いだけの寒々しい空間でしかない。
本来なら実況席にあたるひときわ高く質の良い座席の在った場所は、出鱈目な怪力で無惨にも薙ぎ払われていた。
理由は単純。
王たる自分が座るには相応しくないと、そう王我最命が判断したからだ。
その王我はと言うと、実況席があったはずの場所に全長十メートルはあろう巨大な虎の影獣を横たわらせ、玉座の代わりとしてその背に直接腰掛けていた。
「来たか」
王我が呟く。もとより、出迎えに抜かりはない。
王の元を訪れようと言う命知らずの勇者達は、その蛮勇に相応しい熱烈な歓迎を受けたはずだ。もっとも、歓迎だけで倒れられては元も子も無いのだが、王の元へ辿り着けないのならばそれはそれ。
もとより、強き者を餞別する為の出迎えだ。
届かないのであれば、所詮はそこまでの敵だったと言う事。
王我最命に剣を向ける事さえ叶わない弱者を、王我が気にかけてやる道理など無い。
だが少なくとも、今回は期待外れではなかったようだ。
選手用の入場ゲートをくぐり、堂々とした足取りでやってきた凛として佇まいのその人物に、王我は遥か高見から言葉を投げかける。
「……わざわざご苦労だったな。歓迎しよう、ようこそオレの城へ」
「ふん、豪勢な城門も無ければ天井も屋根も謁見の間も大広間も無しに城だなんて、随分な冗談のセンスね、王我最命」
「オレの言葉の真意が理解できないか、案外小さいな、女よ。このオレの頭上に掛かる天蓋全てが我が居城の屋根だ。切り立つ岩山は城壁や城門と成り、謁見の間も、舞踏会を行うダンスホールも豪勢な食事の振舞われる大広間も、その全てはこの母なる大地そのもの。彼方に広がる大海原まで、そのあまねく全てがオレの城だ」
「馬鹿じゃないの? そんなくだらない妄言で好き勝手に縄張りを侵されちゃ、こっちとしても加減も容赦もできないわ。この天羽茜を敵に回した事を悔いながら逝きなさい」
睨みあう二人の会話に、互いを理解しようという思いは微塵も無い。
ただ互いが互いに飛ばすのは、宣戦布告であり、最後通牒なのだから。
「互いの美的センスの見解の相違については、これ以上言葉を重ねても意義は薄そうだな。……まあいい。それにしても随分と早かったな、女。否、天羽茜よ。傷はもういいのか?」
黒髪をサイドテールに纏めた、勝気な目付きが特徴的な童顔の少女だった。
幼さの中に凛々しさを、可憐さの中に美しさを兼ね備えた少女は、しかし人間ではない。
太腿の付け根あたりまでしかないホットパンツに、黒のサラシを胸に巻いて、上からジージャンを羽織った露出度の高い格好は、単に動きやすさを優先した物だろう。合理的で他者の目を気にしていない、戦いに生きる者としてのその思考は、俗物的な人間界の住人とは根本的な価値観や考え方からして異なっている証拠だ。
「生憎、アンタみたいな野郎に心配される程落ちぶれちゃいないわ。ええ、そうね。しいて言うのなら、アンタを軽くぶっ殺せる程度には絶好調よ」
影の狩人の瞳に怒気を宿し、王を見上げる少女は、躾のない野良猫さながらに王我最命に噛み付く事を恐れはしない。
まるでこの前の敗北など無かったかのような気高く不遜なその態度に、しかし王我は上機嫌に口元を引き裂く。
「そうか。強がりも虚言も大いに結構だが、あまりオレを失望させるなよ? 見た所、『影の総量』がかなり減っているようだが……なるほど。無茶な回復方法を取った物だな天羽茜。そこまでオレとの再戦が待ちきれなかったか?」
王我最命に敗北した天羽茜は、かなりの重傷を負っていた。
それは他でもない、その傷を与えた張本人である王我が誰よりも一番知っている。
それこそ、一晩で完全に回復するには多量の影力が必要だったはずだ。
しかも天羽茜は、奥の手である具影召喚を使用していた。
基本的に具影召喚は多大な影力を消費する大技だ。天羽茜の『怨猫四肢死装束影経』も、勿論その例外ではない。
だとすれば計算が、辻褄が合わない。
あれだけの傷を回復するだけの影力が、具影召喚によって多大な影力を使用した天羽茜に残っている訳がないのだ。
だと言うのに天羽茜が今この戦場に立っているという事は、己の影を『影断ち』の中の影獣に食わせ、回復の為の影力の足しにしたという事に他ならない。
「ふん、馬鹿なのかしら。傷の回復程度の為に自分の影を無駄遣いする訳ないでしょ。これはアタシ自ら影獣にくれてやったのよ。気紛れな影経にその気になってもらうには、これくらいしないとね」
何事でもないようにそう吐き捨てた少女の表情や声色からは、強がっている様子は窺えない。だが、自分の影を『影断ち』に封じた影獣に喰わせたのは事実。天羽茜は、己の『徒影』としての寿命を縮めてまで此処に立っている。
それは何と言うか……実に素晴らしい事だ、と。王我は内心ほくそ笑んでいた。
その決死の覚悟を、王我は最上の美酒のように愛でる。
背水の陣で戦いに挑む猛者の恐ろしさと手強さとを知っているからこそ、極めて大きな代償を払ってこの戦いに臨む少女の存在に、高揚感が止まらない。
血が昂ぶる。魂が吠える。
絶対強者たる王我には分かる。肌で感じる空気を焼き焦がすこの闘気。この幼き『徒影』の女が、王我を楽しませる真の『強者』であるという事が。
血沸き肉躍る闘争の予感に、滾りを押さえられない。
王我は自然とその顔に笑みが浮かぶのを抑える事も出来ずに、満足げに頷いた。
「ほう、何の事だか分からないが秘策あり、と。そういう訳だな天羽茜よ。楽しみにしておいてやろう。そして……ほう、これはこれは、ある意味では今日最大の想定外だな」
そして王我はもう一つ、面白い物をその目に見つけていた。
面白い、とは言ってもこれは天羽茜に掛ける評価とはある種真逆な物だ。
王我が感じた面白さとは、酷く滑稽で愉快な道化を見た時の感情そのものなのだから。
それは本来、ここにいる訳がない人物だった。
王我の歓迎をまともに受けて立っている事はおろか、生きて帰る事さえ出来ないであろう、あまりにも場違いな人物。筋肉ムキムキの体育会系軍団の中に、一人だけガリ勉眼鏡のヒョロっとした少年が混ざっているような、そんな滑稽な場違いさすら感じる。
天羽茜の後を付いてグラウンドへと入ってきたその男は、つい先日。王我最命が取るに足らない塵屑としてその場に捨て置いた『弱者』鴻上梓だったのだから。
堪え切れない余りの愉快さに、思わず王我最命は腹を捩って哄笑を上げていた。
「まさか貴様が此処に来るとはな鴻上梓よ。くっくくく,ふはははっははははは!! 喜べ梓、貴様はこのオレを、絶対たるオレの予想を大きく裏切って、あまつさえ驚愕すらさせたぞ! あぁ愉快だ。こんな愉快な思いをしたのは久しぶりだ!」
それは心の底からの驚きだった。
王我はたった今この瞬間まで鴻上梓の事を完全に忘却していたし、元よりその存在など眼中にさえなかったからだ。
むしろ、曲がりなりにも『徒影』である鴻上梓を庇った、ただの人間の少女の強い在りの方にこそ興味を引かれたくらいだ。世界とはどう転ぶか分からない物である。
あの時無価値と捨てた塵屑が、まかさ今となって一時的とは言え王我最命を驚かせ、楽しませたのだから。
けれど、そんな王我の嘲弄を受けた鴻上梓は、
「……王我最命、僕はお前なんかに微塵も興味は無い。お前なんかどうでもいいし眼中にもない。だから、お前に要求するのはただ一つ。瑞葉ねえは、瀬戸瑞葉は返して貰う……!!」
怯え身を竦めるのではなく、強い意志を感じさせる口調と態度で、そう言ってのけたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
見上げた遥か高見にその男はいる。
選手用の入場ゲートを潜り、視界が一変した瞬間、梓は周囲の空気までもが一気に豹変したかのような感覚を覚えた。
感じる。一段と力強い、鋭く凶暴な他を圧倒するその影力を。
いちいち辺りを見渡して確認するまでも無く、観客席にその男がいる事は圧倒的な影力から分かっている。
だから、迷いなく視線を上げた。
王我最命。
『十の影の掟』――通称、『徒影の掟』を破った下手人。
『欠損持ち』の一人にして、五百年もの長きを生き長らえてきた者。
『徒影』でありながら人を傷つけ、その影を喰らった『徒影』。
『隻腕の王』を名乗る、最強最悪の徒影の、世界の敵。
そんな最悪の存在を前にして、自然、梓の口は動いていた。
「……王我最命、僕はお前なんかに微塵も興味は無い」
身体の内側から湧き上がる活火山のような熱量が、王我最命を前にして止まらない。
「お前なんかどうでもいいし眼中にもない」
王我の放つ圧倒的な存在感も、肌を刺すような威圧感も、消えてしまった訳では無い。
むしろその逆。初めて遭遇した時よりも、その純度は高まっている。
王我がいるのは梓の頭上。
おそらく直線距離で十メートルはあるだろう。だと言うのに、この距離でも分かる圧倒的重圧。
殺意一つで人を殺せるのではないかと思う程に、強大に膨張した王我の存在感と威圧感に、しかし梓は真っ向から反逆する。
「だから、お前に要求するのはただ一」
怯えがない訳ではない。けれど、戦う理由がある。剣を握る理由がある。
誰かにとって優しくありたい。本当の意味で優しい人になってみせる。そう母に誓った梓が、生まれて初めて他者に対して抱く激しい感情。氷のように冷たい凍てつく敵意と、燃え盛る業火の如き灼熱の怒り。
梓の中で、抑える術も知らない莫大な感情が爆発する。
「瑞葉ねえは、瀬戸瑞葉は返して貰う……!!」
取り戻さなくてならない。
絶対に。
だって、鴻上梓にとって、瀬戸瑞葉という少女は唯一の家族なのだ。
それは、『徒影』という人間では無い異常者になってしまった今となっても変わらない。
たった一つしか残されていない繋がり。母親を失い、父親との絆は途絶え、孤独になってしまった少年の唯一の心の拠り所。
どんな時でも梓の味方でいてくれて、梓に微笑んでくれた、心優しい幼馴染の少女。
他の誰の為でも無い、王我最命に連れ去られてしまった瑞葉の為。そして何より彼女を失う事を許容できない自分の為に、奪われた大切な物を取り戻す。
そんな実に当たり前で、けれど今まで感じたことのない感情の激動を感じながら、叫び、突き付けたのは事実上の宣戦布告だった。
王に対する礼儀? 敬意? 知った事か。そんなくだらない物はクソ喰らえ。身の程を弁えるつもりなど毛頭ない。分不相応でもいい。無謀でも構わない。絶対的強者だろうが、『徒影』の王だろうが、『欠損持ち』と呼ばれる超危険人物だろうが、そんな事は関係ない。
梓の抱く想いの前には、全てが些細な問題だ。
完全無欠に喧嘩を売っているとしか思えないその言葉と態度を受けた王我最命は、しかし高らかに笑っていた。
「ふははははははははっははははははははははははははははッッ!! 師弟揃って王たるこのオレに不遜もイイ所だな、えぇ? だが良い。無礼は許そう。昨日の今日でここまで大言壮語を吐いてのける貴様には呆れを通り越して感銘さえ覚えるぞ、鴻上梓」
「大言壮語でも、何だって構わない。僕は、この命に代えても瑞葉ねえを必ず助け出すって、そう決めたんだ……!」
「くっくくく……。いやな、違うんだ。そういう事では無いんだよ鴻上梓」
何がそんなにおかしいのか、梓の真剣そのものな言葉を聞いた王我は腹を抱えて嗤い続けている。
……なんだ?
梓が感じたのは、無視する事を憚られるような小さいけれども確かな違和感。
何かが噛み合わない。
まるで梓ばかりが酷く見当違いな事を言っていて、王我はその間抜けさを眺めて楽しんでいるような、そんな気配。
嗤い続ける王我がどこか憐みを含んだ視線を投げかけてくるのが、不快で堪らなかった。
王我最命の嘲笑が、喉の奥に小骨が突っかかったような嫌な違和感を与えてくる。
そんな予感を裏付けるように、王我は意味深でどこか不吉な言葉をさらに重ねた。
「問題の本質はそこには無いんだ。鴻上梓。貴様が勇気を漲らせ、決死の覚悟を胸に此処までやって来たのは分かった。その心意気は認めよう。だがな、物事にはタイミングという物がある。そして貴様は、立ち上がるのが少しばかり遅すぎたのではないか?」
「……それは、どういう意味だ……? お前は何を言っている」
気が付けば、恐る恐るそう尋ねていた。
横にいる茜は、何も口を挟まない。助けを求めるように視線を向けても、無言のまま顔色一つ変えずに立ち尽くすのみ。
その顔には厳しい色が浮かび、鋭い目つきで王我を凝視している。不用意に声を掛ける事を躊躇わせるような雰囲気があった。
どこか不穏な茜のその様子が、風船の如く膨らむ嫌な予感を加速度的に増加させていく。
脈打つ己の心臓の音が、やけに耳に張り付いてくる。
「なに、言葉のまま特に深い意味は無いさ。それに、語るよりも実物を見た方が早かろう」
依然としてニヤニヤとした意地の悪い笑みを張り付けた王我は、巨大な影獣の背に腰掛けたまま、既に真銘解放状態にある己の影断ち『絶対法の王権』を軽く振るって、極めて軽い調子でこう言った。
「――王命だ。我が下僕よ、客人の前にその姿を現せ」
直後の出来事だった。
サッカーゴール以外は目立った障害物など何もなかったグラウンドに、黒い靄のような、霧のような実体の曖昧な物が生じ始める。
それは一つ、二つ、三つと、少しずつその数を増やしていき、やがてグラウンド中をくまなく覆い尽くす黒雲と化した。
黒雲の中、何かが蠢く気配がある。それも一つや二つではない。複数体。それこそ、先の影獣の大群と変わらない規模で。
しかも、先ほどよりも感じる影力がより濃く強力だ。
隣の茜が静かに双剣を構えなおして臨戦態勢に入るのが分かった。
梓も同様に、『影断ち』を鞘から抜き放って見よう見まねの構えを取る。
やがて、劇場の幕が上がるかのように、グラウンド一帯を覆い包んでいた黒雲が晴れていく。そこで梓が見た物は、まず大量の影獣だった。
巨大な哺乳動物から鳥類爬虫類両生類、果ては昆虫のシルエットをしたものまで、多種多様な影獣が、その悍ましい姿を夕焼けの元に晒していた。
先ほどの群れよりも数が多い。
軽く見積もってもおそらく一〇〇体近くはいるだろう。
だが、起きた変化はそれだけにはとどまらない。
「……?」
最初は見間違いか何かかと思った。
けれど、よく目を凝らしていくうちに、それが見間違いようの無い本物だと気付く。
――それは、少女の形をしていた。
梓よりほんのちょっとだけ小さな背丈。綺麗な曲線を描く脚線美。制服の端から覗く、白い柔肌。制服を内側から盛り上げる、高校生としては些か以上に大きな胸。そして流れるような、美しい亜麻色のロングヘアー。チャームポイントでもあるくりっとしたまん丸い瞳は、今は眠るように静かに閉じられている。
「……瑞、葉。ねえ……?」
梓は知っている。
普段は優しく明るく、それでいてものすごく心配症なその少女は、その実気が強くて頑固なところもあったりする、とても芯の強い子なのだと言う事を。
梓は知っている。
梓みたいな弱虫で泣き虫な情けない男を、まるで本当の弟であるかのように可愛がり、いつだって守ってくれたその少女の事を。その少女の温かさを。
梓は知っている。
梓が大好きな、その家族の事を。大好きな、彼女の笑顔を。
次々と黒雲の狭間から姿を現す影獣達に紛れるようにして、眠るようにそこに横たわっていたのは――紛れも無く瀬戸瑞葉その人だった。
「瑞葉ねえ……ッ!?」
そうだと頭が理解した瞬間。安堵と歓喜が梓の頭の中を埋め尽くしていた。
王我最命が目の前にいるという事も、周りに大量の影獣が居る事も忘れて鴻上梓は叫びながら駆け出していた。
背後で茜が何かを叫んでいるが、何も頭に入ってこない。ただ無我夢中で、梓は瀬戸瑞葉の元へと地面を蹴って走っていた。
(あぁ、良かった。本当に。瑞葉ねえ……!)
良かった。本当に良かったと。頭の中で何回も何回もその言葉ばかりを繰り返した。
走りながら涙が零れそうになる。
無事でいてくれた事が嬉しい。
また他愛もない会話ができる事が嬉しい。
また笑いかけてくれる事が嬉しい。
ありがとうだって、ごめんなさいだって、言い足りないのだ。もっと言いたいのだ。
もっともっと、梓には瀬戸瑞葉に伝えたい事も、一緒にやりたい事も沢山あるのだから。
だから、そんな当たり前が帰ってきた嬉しさを感謝と共に噛み締める、
そんな梓の目の前で、
ズルリ、と。まるで脳天に取り付けられた糸を引っ張られるような不自然な挙動で、瀬戸瑞葉が立ち上がった。
ダラリと、どこか全体的に脱力したように頭を垂れて立つ瑞葉の表情は、梓からでは読み取る事はかなわない。
けれど、その姿にどうしようもない違和感を感じて梓の足が止まる。
「瑞葉、ねえ……?」
梓の震える声が届いたのか、ぎぎ、と壊れたロボットのような動作で瑞葉が顔を上げる。
どこか虚ろな瞳をした、生気の抜けたような少女と目が合って、
「梓……ごめんね……?」
最後の笑顔が咲いた――
――その直後、
電池が切れたように瀬戸瑞葉の身体がグラリと傾いて、なんの抵抗もなくそのまま地面に倒れた。
「………………………………………………………………へ?」
茫然と立ち尽くした後、少し遅れていっそ間抜けな声が梓の口から漏れた。
手足を投げ出すように横たわる瑞葉の顔はどこか哀しげな笑みを湛えたまま、ここではない遠い場所を見つめているような気がした。
一歩、震える足を前へと踏み出す。
「冗談、だよね……?」
問いかけに答えは無い。瀬戸瑞葉は、秒針の止まった時計のように動かない。
焦点が合っていないのか、視界に映る瑞葉がやけに滲んで霞んで見えた。
「嘘、だよ。だって、今、起き上がってたじゃないか。笑って、喋って、僕を見ていた。それなのに。そんな、そんなのって……」
「……可能性はゼロじゃなかった」
背後の茜が、何かを後悔するように目を閉じて静かに言葉を紡いでいる。
淡々と、あくまで感情を殺し排したその言葉が、冷たい呪詛となって梓の頭の中に流れ込んでくる。
否定したいのに、やめてくれと叫びたいのに、事務的で熱の無い言葉は、そんな梓の感情を素通りして、直接脳内に滑り込んでくる。
「『影断ち』で傷を負った瀬戸瑞葉が『徒影』に目覚める可能性。実例を聞いた事は無かったけれど、論理的にはあり得ない事じゃない。だって、『影断ち』によって傷を受けるって事は、影獣に影を喰われる事と相違ないから。だから……」
中途半端に『影断ち』に封印された影獣の空腹を満たす為に、空腹の影獣に己の影を食べられ影獣化する運命から逃れる為に、『徒影』は他の影獣を斬って斬って斬りまくる。
『影断ち』による一撃は、つまり影獣による影の捕食に他ならない。
それは『徒影』を影獣化から守るギミックでもあり、浄化装置としての『徒影』を戦場へと誘う残酷なギミックでもある。
だからそれは大前提だ。決して例外はない。覆る事の叶わない残酷な掟。
「……梓、聞いてちょうだい」
聞きたくない。両手で子供みたいに耳を塞いだ。首を横に振る。たたらを踏むように後ずさり、ついで髪の毛を掻き毟って泣き叫ぶ。
認めてしまえば、もう戻れない。戻ってこない。
そうと心の何処かが分かってしまっているからこそ、全身全霊を持って否定する。
「……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――嘘だァッ!!」
それなのに。どれだけ喚いても、否定しても、駄々をこねるように拒絶しても、目の前の光景は何も変わろうとしない。倒れた瑞葉は動かない。
まるで七年前みたいに、余りにも非情な現実が心臓に忍び寄る。
呼吸がおかしい、目の前が、霞み、現実が急速に遠のいていく感覚――。
「梓。瀬戸瑞葉はたった今、死んだわ。だから、今からアンタが戦うのはあの子じゃない。ただの……哀れな影獣よ」
まるで、茜の言葉を見透かしたかのようなタイミングだった。
視界の中で動かなくなった瑞葉の身体が、痙攣するかのように震え出した。
それは明らかな異常事態。死んだはずの少女が一人でに動き出すという、魂への冒涜。
けれど梓は、一瞬期待さえしてしまった。
このまま瑞葉が何事もなかったかのように動き出して、立ち上がり、また梓に微笑み掛けてくれるのではないか、と。
だがそんな淡い期待は、所詮は淡い期待でしかなかったのだ。
……瑞葉の身体から勢いよく噴出したどす黒い霧のような物が、現実はより非情で残酷な物なのだと言うことを、梓に思い出させたから。
「な、んだ……これ」
まるで噴水のように勢いよく噴き出した墨汁か泥のような粘着質な黒が、べちゃべちゃと耳障りな音を立てながら集まり、重なり合い、混ざり合っていく。
その光景は、幼子が粘土をこねくり回して得体の知れない不気味な物を作る光景とよく似ていた。
不吉で不穏で不浄で不気味で不快でふ悍ましいナニカが、今梓の目の前で芽吹く。
見上げるような、巨体。それでいて、地獄の底から顔を覗かせたような絶望。
――それは、影獣という事を差し引いてもあまりにも巨体だった。
大きな頭部の側面には、団扇か扇子のような形状のパーツが一対。左右にそれぞれ付いている。
さらには長い筒状のホースのような部位が伸び、その両脇には巨人の槍のような荒々しい牙が二つ夕日を受けてギラギラと輝いている。
鋼のように分厚く頑強な影の皮膚がその身体を覆い、まるでトラックのように巨大で頑丈な身体を支えるのも、これまた建物の柱のように堅牢な四肢だ。ホース状の部位を振り回しながら発した、猛り狂った咆哮がビリビリと空気を震わせる。
現存する陸棲動物中最大、なおかつ最強とも言われるその動物――アフリカゾウの姿を象った全長十数メートル程はある、あまりにも巨大な影獣が、そこに誕生していた。
「そいつは影獣。世界の陰と陽、その天秤を傾けるもの。世界を破滅に導く怪物。私達『徒影』の倒すべき敵よ。だから……梓、アンタが倒しなさい」
僅か三メートル程先にその姿を現した巨大なゾウの影獣。
その威容を見た梓は、特に深く考えもせずに思った事をそのまま口に出していた。
「み、ずは……ねえ……?」
その思考は、あまりにも致命的すぎた。
長いホース状の部位、すなわちゾウの鼻が、爆発的な勢いで梓目掛けて振るわれた事にも気が付けないくらいには。
気が付いた時には強烈な衝撃が身体全体を叩いて、梓の身体は空中に投げ出された。




