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第四章 優しさの選択Ⅰ 殺す為ではなく救う為の覚悟を

 瀬戸瑞葉は鴻上梓の太陽だった。


 梓の母が救助活動中の事故で重傷を負って亡くなったのは、今から七年前の四月。梓が小学三年生に上がりたての春の事だった。

 当時八歳だった梓にとって母の存在は他の何よりも重要で特別な、ある種絶対の聖域でさえあった。

全ては母を中心に鴻上梓の世界は回っていた。


 太陽と地球の関係のような物だ。梓を厳しくも温かく照らす太陽のような母と、ひたすらにその愛情の陽光を浴びてすくすくと育つ梓。

 太陽の光が無ければ地球は死の星と化してしまうのと同じように、梓にも母が必要だった。

 だから、母が死んだというどうしようもない事実を、事実として認める事など出来る訳が無かった。


 頭が真っ白になるだとか、右も左も分からないだとか、そんな表現さえ生ぬるい。真なる絶望。突然訪れた世界の崩壊に、梓は嘘でも冗談でも何でもなく己の死を錯覚した。

 だって、だって、だって。

 幼い梓は信じていたのだ。無邪気にも、これからもずっと永遠に母の笑顔を見る事が出来るのだと。

 あまりに唐突に訪れた別れを、梓は駄々をこねるように拒み続けた。横たわって冷たくなった母の前で泣いて泣いて泣いて、涙が枯れ果てて感情が麻痺したように死にかけて、それでも母は帰ってこなかった。


 母の葬式で抜け殻になったように茫然と立ち尽くす鴻上梓を泣きながら抱きしめたのは、幼馴染の瀬戸瑞葉だった。


『大丈夫、大丈夫だから。わたしが、梓のお母さんにでも、本物のお姉ちゃんにでも、何にだってなってあげるから。だから、ね? 梓はもっと泣いていいんだよ。そんな風に悲しい顔して、我慢してちゃだめなんだから』


 自分と歳も背丈も変わらない、けれど大きな姉の優しい温もりに包まれて、枯れ果てたハズの涙がまた少しだけ流れた。

 悲しかった訳じゃない。

 悲しい涙は、母が死んだ日にきっと流し尽してしまったから。

 ならこれは……この涙は何なのだろうか。


 そんな事を少しだけ考えて、答えは分からなくて、結局考えるのを辞めた。

 ただ溢れるまま、感情の求めるままにその瞳から暖かい涙を流した。

 それが感情の呼び水となったのかは分からない。けれど、それまで何の反応も示さずにぜんまいの切れた人形のようだった梓が、自らの意志で瑞葉の暖かい身体を必死で抱きしめ返していた。もう二度と、離してしまう事がないようにと。


 ……母が死んでから父とは疎遠になった。

 元より気難しい人ではあった。母と梓が楽しそうに遊んでいるのを少し離れた位置から眺めて、微笑を浮かべているような物静かな人だった。だからきっと、母の死をきっかけに梓との距離感の図り方に失敗してしまったのだろう。


 父は夜遅くまで働いて働いて、そして、数日に一度。深夜遅く梓が寝静まった頃に帰ってくる。そして早朝、梓と顔を合わせる事もなく仕事に出かけていくのだ。


 家で顔を合わせる事などほとんどなく、あったとしても挨拶以上の会話が交わされる事も無い。まるで何かに憑かれたように懸命に働く父のおかげでお金に困る事は一切なかったが、家族を失った梓は孤独だった。

 その孤独を埋めてくれたのも、瀬戸瑞葉だった。


 葬式の日以来、元より梓のお姉さんのように振舞っていた瑞葉の振る舞いが、より一層パワーを増して今度は母親のようになったのは言うまでもなかった。

 どこに行く時も瑞葉は梓を引っ張っていた。

 近所の公園に遊びに行く時も、裏山(幼い頃の瑞葉がそう呼んでいただけで、実際には少し標高が高いだけの雑木林)に探検に出かける時も、学校に登校する時も、ご飯を食べる時も、お風呂に入ったり、夜眠る時でさえも、瑞葉と梓は一緒だった。

 彼と彼女の関係を表すならそれは……そう。家族、とそう呼ぶのが一番しっくりくる。 

 梓はほぼ毎日を瑞葉の家で過ごした。瑞葉の両親もそれを快く認めてくれて、暖かく迎え入れてくれた。

嬉しかった。


 優しくされるのは、こんなにも嬉しくて、心がぽかぽか温かくなって、人の心を救ってくれる物なのだと、改めてそう思った。

 あの日の涙の理由が、少しだけ分かったような気がした。


 いつしか瀬戸瑞葉は鴻上梓の太陽になっていた。

 梓が他の男子から虐められれば、両手を広げていじめっ子の前に立ち塞がって守り。

 梓が一人孤独に膝を抱えていれば、笑顔を咲かせてその手を引っ張り立ち上がらせた。

 梓が地面で転んで泣いていれば、怪我の手当をしておぶって家まで連れて帰ってくれた。

 いつもいつもいつだって、梓は瑞葉に助けられ、救われた。

 けれどついに、梓が優しさへの執着を捨てる事はなかった。


 優しくされる事の嬉しさを知ってしまった、それになにより――


 ――どれだけ救われても、どれだけ満たされても、あのひまわりが咲くような笑顔がもう一度見たいという欲求が消える事はなかったのだ。


 だから梓は『優しい人間』になろうと在り続けた。


 またあのひまわりのような笑顔で褒めて貰いたかったから。


 そして瑞葉は、そんなどこか危うささえある梓を暖かく見守って応援してくれた。


 まるで、自分の家族を信じる本当の母親か姉であるかのように。

 梓は、そんな瀬戸瑞葉が大好きだった。

 いつしか、自分が死んだ母ではなく瑞葉の笑顔を求めて『優しく』あろうとしているのだとも気が付かずに。

 瑞葉と母の性格は表面上は全くもって似ておらず、むしろ真逆でさえあると思えたけれど。どちらも芯の強い女性だった。


 そして――



 ――成長した瑞葉の笑顔は、いつか咲いた母の笑顔(ひまわり)にとてもよく似ていた。



☆ ☆ ☆ ☆



 泥の中に沈み込むような微睡の中、ボンヤリと、意識が覚醒する。

 目を開けると見知った天井が視界に飛び込んでくる。どうやら自分は仰向けになって寝かされているようだ。

 寝返りを打つ。ただそれだけで見知った天井は梓の視界からフェードアウトしていった。代わりに目に映ったのは、特に何の飾り気も無い勝手知ったる自室の風景。

 自分の家まで帰り着いた記憶は残念ながらどこにも無い。おそらくは誰かが梓をここまで運んできてくれたのだ。自分もあんなズタボロの状態なのに、何も果たせなかった愚か者にまで手を差し伸べてくれたそんな誰かの顔を想像して、また泣きたくなる。

 ぎゅっと、強く目を瞑って涙を追い払う。こんな事で泣くわけにはいかない。自分の為に流す涙など、気持ち悪くて吐き気がするだけだ。


 身体が痛む。起き上がろうにも、だるくて重い。

 まだ、もうしばらくだけ眠っていたいと身体が訴えかけてくる。ダメだと分かっているのに、そんな誘惑にかられる。

 だって、眠っている間だけは、どんな嫌な事も悲しい事も忘れていられる。この息苦しく生き苦しい現実とも、向かい合わずに済むから。

 そんな弱い心に付け込むように、どうしようもない睡魔が梓を再び深い眠りに誘おうとして――


「――目が覚めたのね」


 と、不意に梓の部屋のドアが開け放たれた。


「茜……、怪我はもう平気なの?」


 予想通りというか何と言うか、まるで自分の家みたいに堂々と梓の部屋に入ってきたのは、サイドテールに束ねた髪と勝ち気なつり目が特徴の『徒影』の少女、天羽茜だった。


 王我最命との戦いに敗れた彼女は、梓よりよっぽど酷い怪我を負っていたはずだ。

 見た限りでは大きな傷や怪我が残っている気配はないが、本当に大丈夫なのだろうか。


 体調を気遣うような梓の視線を受けた茜は、そんな物は杞憂だと言わんばかりに明るい調子で、


「平気よ。馬鹿ね、『影獣』に食われた訳じゃ無いならアタシら『徒影』の怪我なんていくらでも回復できるわ。『影力』さえ補充できればだけど。極端な話、腕やら足やらがもげて千切れようが下半身が吹き飛ぼうがいくらでも再生は可能よ。影力を補充して自分の影のほうを粘土みたいにこねくり回して形を整えてやれば、身体の方も自然その形に引き摺られる。ま、アタシら徒影の身体と影は写し鏡みたいな物だからね」

「そうか、良かった……。あ、違う違う。いや、違くはないけどそうじゃ無くて。その、ありがとうって言わないとだよね。茜が、僕をここまで連れてきてくれたんでしょ?」


 梓の言葉に、一瞬茜は己の目を見開いて、それからぷいっとそっぽを向いた。


「ま、一応ね。とにかくアタシの心配ならいらないわ。……ま、正直言ってあまり良くはない状況なんだけど」


 台詞の後半、ボソっと呟くように言ったその言葉の真意を、茜は話そうとはしなかった。

 まるでその言葉を発したという事実そのものが無かったかのように振舞う。


「ま、アンタはしばらく寝てなさい。ただでさえアンタの『影断ち』はアンタの回復の為に『影力』取られてすっからかんに近い状況なんだし。アンタが影獣を狩る気があるのかどうかはともかく、無駄に動くとその分中のヤツの空腹を刺激する事になるわ」


 アンタだって、無暗に自分の影を食われたい訳じゃないでしょう? と、茜は事も無さげに言って部屋から出て行こうとする。


「待って」


 梓の言葉に、部屋から出ようとした茜の足が止まる。だがそれだけ。背を向けたまま、こちらを振り向こうとはしない。

 その様子に、梓の中の疑惑が確信へと変わった。


「……行く気なんだね、一人で。王我の所へ」

「だったら、なに」


 無理してどこか明るく振舞ったりと、茜は隠そうとしていたようだが、梓には分かる。僅かな綻びから漏れ出る殺気が尋常ではない。今の彼女は完全に臨戦態勢だ。

 じっと無言のまま見つめてくる梓の視線に観念したのか、こちらに背を向けたままの茜が息を吐いた。茜は疲れたように片目を瞑って、


「……王我最命は自分の延命の為に大量の人を傷つけその影を食らう。アイツがこの街を訪れた理由も、その盛大なお食事会の為よ。結果、無差別的に影を喰われた人間は皆最終的には影獣になる。それがどういう事か、分かる?」


 沈黙を否と受け取り、梓に背中を向けたまま茜が言葉を続ける。


「――パンデミックよ。一定数を超えた影獣による爆発的な人間の『影獣化』。それに伴った世界の陰陽のバランスの崩壊。アンタも見たでしょ、あの歪みを。ショッピングモールでの異常発生で気づくべきだった。すでにこの街は著しく陰に傾きかけている。このまま事態が進めば、『裏影界』と『人間界』の境界が崩壊するわ。そうなればこの街は確実に世界から消し飛ぶでしょうね。物理的にも、歴史的にもね」


 陰と陽のバランスの崩壊。

 裏影界と人間界の境界は崩れ、裏影界に飲み込まれたこの街は物理的にも歴史的にも世界から消滅する。存在そのものから無かったことにされて、そこに居たはずの人々もまた、欠片も残さずに存在の証明さえ許されずに消滅する。


 それが来るべき結末。

 王我最命という『徒影』によって齎される、一つの世界の終焉。  


「……止めなければならない。アタシは腐っても『徒影』よ。正義の味方でもなければ、偽善なんて物すら振るったことのない自己中な利己主義者だけれど。それでも、かつて確かに人だった存在として許しておけない事もあるわ」


 茜がこの危機的状況に何を思い何を感じたのか、あくまで一個人として王我最命の行いに怒り、憤りを覚えたのか。

 それとも『徒影』として矜持がそうさせるのか、それは梓には分からない。


 けれど、その言葉からにじみ出る決意は本物なのだと分かる。

 天羽茜は、己の全身全霊を賭して王我最命を止めるつもりなのだ。

 でも、それならば。覚悟ならば鴻上梓も持ち合わせがあるハズだ。

 立ち上がるだけの理由が。再び王我最命の前へと立ち塞がる理由が。 


「……瑞葉ねえが連れて行かれた」


 その短い言葉に、ぴくりと茜の肩が揺れた。

 静かに語る言葉に、しかしこれ以上ない重みが籠められているのを、彼女も感じたのだ。


「僕を庇って、僕を守ろうとしてアイツに、王我最命に連れて行かれた……」

「……」

「きっと今も、怖い想いをしてるはずだ。誰かの助けを待っているはずなんだ。別に、僕の助けである必要なんてどこにもない。瑞葉ねえを助けてくれる人がいるのなら、誰だって構わない。でも、ジッとしてなんていられないんだ。瑞葉ねえは僕の、大切な家族だ……! だから、僕も一緒に行く」


 瀬戸瑞葉は鴻上梓の家族だ。

 辛い時も、楽しい時も、悲しい時も、嬉しい時も、どんな時でも梓は彼女と一緒にいた。

 弱い梓はいつも彼女に守られてばかりで、どれだけ感謝してもしたりないくらい、それそこ数えきれない程の恩が彼女にはあって、けれどそれを言うと、彼女は照れ隠しなのか頬を染めながら、「今更水臭い事言わないでよね、もうっ」と、そっぽを向いて拗ねるのだ。

 そんな女の子。

 鴻上梓はよく知っている。彼女の事を、この世の誰よりも知っている自信がある。

 大切なのだ。失いたくないのだ。優しくある為とか、そんな事は関係ない。

 ただ、家族だから。大切だから、失いたくない。

 鴻上梓が助けたいと、誰に言われるまでも無く心の底から望んでいるから。


 だから――


「ダメよ」


 ――一切の迷いなく、天羽茜はそう断じた。


 やはり梓のほうを振り返りもせず、少女は冷たく機械的にそう吐き捨てたのだ。

 予想していなかったその返しに梓は一瞬言葉が詰まって、そして、次の瞬間には堰が切れたように沸騰した言葉が溢れた。


「そんな……っ! でも、僕はッ……どうして!? 茜は、僕に言ってくれたじゃないか! 大切なら、守り通してみせなさいって――」

「……アタシは、アンタを連れてはいけない。アンタを連れて行っても、どうしようもない。ただ、辛いものを見るだけに――」

「ふざけるなっ!」


 身体が勝手に動いていた。

 自分よりも小さな少女の胸ぐらに掴みかかり、ジージャンの襟元を掴みあげて無理やりにこちらを振り向かせる。

 梓と茜の距離がぐっと近づき、視界一杯に茜の綺麗な顔が広がった。真っ正面から交錯した視線の先、茜が驚くように目を丸くしているのが見えた。


「生きていた。あの時瑞葉ねえはまだ生きてたんだ! 血だって流れてなかったし、剣で貫かれたのだって、きっと幻か何かだ。嘘に決まってる。だから、お願いだから……っ、僕の家族がっ、もう何もかもが終わったみたいな言い方は……しないでくれ……ッ!」


 絞り出した言葉は、情けなく震えていた。

 言いたい言葉全てを言い切る事も出来ず、茜の襟元を掴んでいた手が零れ落ちるように離れる。

 漏れ出た嗚咽と共に、梓は膝からその場に崩れ落ちた。


 悔しかった。

 茜に罵声を浴びせ八つ当たりする事しかできない無様な自分が、大切な幼馴染一人守れず、自分の命の恩人の少女の優しさに縋る自分の弱さが。

 弱い。鴻上梓は、あまりにも弱い。

 そんな弱く醜い自分の心の内を改めて目の当たりにして、自分への嫌悪ばかりが募る中、それでも梓はこれだけは言い切った。


「……急にごめん、茜。でも……それでも僕は、立ち向かわなきゃ行けないんだ。瑞葉ねえの元に、行かなきゃダメなんだ。例え、どんな結末が待っているとしても、絶対に」 



☆ ☆ ☆ ☆



 こちら側の世界でも、太陽は昇って沈んでいく。

 瀬戸瑞葉が攫われてから一夜明けた『人間界』の時刻は午前六時半。朝日の昇る早朝だ。

 つまり、梓達が今いる『裏影界』を茜色に染める輝きは、日の沈む夕焼け空の輝きという事になる。


 梓が裏影界に入るのはこれが四度目。

 本来、新人の徒影はこの四度目の『裏影界』で、自分一人で初めて影獣との戦闘に挑み、狩りの経験を少しずつ積んでいくものらしい。


 それがまさか、『欠損持ち』などと大仰な名称で呼ばれ、無法者集団である『徒影』の間でさえ指名手配されているような超危険人物と戦う事になるとは誰が予想できただろうか。


「……茜、ほんとごめん。僕、さっきは茜に八つ当たりしてた。瑞葉ねえがアイツにさらわれたのは、僕の責任なのに……」 

「ああ、もう! ぐちぐちぐちぐちうざったいわね! せっかく連れて来てやったってのに、どうしてアンタはこうどこまでも弱気なのよ! そんなんだから陰の気が膨らんで『影獣』に食われんのよこのバーカ!」

「ごめん……」


 返す言葉もなくしおしおと項垂れる梓に、茜はこれ見よがしな溜め息を吐いた。

 やっぱり、鴻上梓などと言う足手まといをここに連れてきたのは間違いだったと、そう思っているのかもしれない。そんな風に梓が思っていると、


「あのね、この前言ったでしょ。アタシは……その、……アンタの師であれた事を……」

「……誇りに、思ってる?」

「そ、そうよ。てか、人の台詞とんなっ、このバカ。……だからさ、そんな風に謝んないでよね。大切な人を勝手に諦められてアンタが怒るのは当然の事じゃない。無神経だったのはアタシの方よ。それに、アタシだって瀬戸瑞葉には……その、恩というか。少しだけ、感謝って言うか……とにかく言いたい事があるもの。勝手にくたばって貰ったら困るってのよ」

「……茜っ!」

「それに、アンタに責任なんてないわ。悪いのは全部あいつよ、王我最命。あいつだけは許せない……!」


 奥歯を噛み締めるようにそう呟いた茜の瞳は、燃え上がるような戦意を湛えていた。

 そうだ。

 天羽茜にも王我最命を許せないと思う理由があるように、鴻上梓にだって、あの男を絶対に許してはおけない理由があるのだ。


 瀬戸瑞葉を絶対に助け出す。

 その為に必要ならば、例え敵が『隻腕』王我最命であろうとも必ず打ち勝って倒して見せる。

 今の梓は奪われた事を嘆き、ただただ膝を抱えて蹲るだけの弱虫の少年ではない。


 影の使徒、『徒影』なのだ。


 身も竦むような強敵と戦えるだけの力がその身には確かにあるのだから。


 民家の屋根から屋根、鉄塔から鉄塔へと飛び移るように移動する茜と梓は、ショッピングモールのある方角へと向かっていた。

 まだまだ未熟な梓には、大きい影力を感じ取れても、その距離や方角までは分からない。が、茜曰く、他の物とは比べ物にならないくらい巨大な影力をその付近で感知したらしい。


 梓は走りながら虚空――とは言っても普段は自分の影の中に収納しているだけなのだが――から取り出した『影断ち』の剥き出しの刃に、撫でるように優しく触れる。

 王我最命への一撃で半ばからぽきりと折れたハズだったのだが、どうやら『影断ち』の方も影力での再生が可能らしい。

 のっぺりとしたその太刀の刀身には傷一つなく、どこか無個性ながらも夕日を受けて頼もしく煌めいていた。


「……良かった、折れたのちゃんと治ってる」


 最終決戦に意気揚々と挑んで中折れでは情けなさすぎる。

 ホッと息を吐いて何気ない気持ちでそう呟いた。そのはずだったのだが、


「はぁ!? アンタ、今なんて言った!?」


 予想外に茜の食いつきが凄まじかった。

 がばっと、隣を走りながら肩を思いきり掴まれ、少しばかり痛い。

梓は痛みに若干顔をしかめながらも、王我へ一撃を放った時に、その出鱈目な硬さに『影断ち』の刃が半ばから折れたのだと簡潔に茜に説明した。

 茜はその説明に目を丸くした後、口元に手を当てて数秒押し黙って……。


「……ありえない」


 と、真顔で呟いた。


「ありえないのよ。だって、『影断ち』はあくまで『影獣』を封印する為の器に過ぎない。その器が壊れれば、ただでさえ完璧ではない封印は完全に破綻する。そうなれば、中に封じ込められていた『影獣』が出てきて、アンタを食い殺さなきゃおかしいってのに……」


 茜が何やら難しい顔でブツブツと呟きながら、さらに思考を重ねようとした時だった。 


 じりっと、首筋で火花が散るような悪寒が走る。

 感じる。それは警告だ。

 一つ一つの影力は、以前梓が対峙した猪の影獣より一回りほど強力な程度。

だが、その数が、物量が圧倒的に違う。


 いかに梓が経験不足の新人の『徒影』とて、この距離と規模ならば間違えようがない。刻一刻と、影獣の大群が梓と茜を目掛けて猛スピードで迫りつつあった。


「茜、これは……」

「……ヤツの領域(テリトリー)に入り込んだって証拠ね。これまた随分と手厚いご歓迎だ事。ま、どっちにしてもこれ以上つまんない事考えている時間もなさそうね」


 緊張か恐怖からか、些か顔色の悪い梓とは裏腹に、茜は気合も闘志も十分な様子で幼い顔を凛と引き締めている。

 茜が何もない空間から手品のように『影断ち』を抜き出すと、鞘を投げ捨てるように乱暴に抜刀。鈍く輝く刀身を抜き放った。

 視線だけをチラリと横に向けて、問う。


「梓、アンタ、戦えんの?」

「僕も、大丈夫。いつでもいける」


 力強く、そう返す事ができた。 

 影獣を傷つける事に抵抗を感じない訳では無い。

 依然として徒影としてこの世界を生きていく覚悟が出来ている訳でも無い。


 けれど、瀬戸瑞葉を救うために全力を尽くす覚悟だけは出来ていた。

 ぎゅっと、力強く握りしめた『影断ち』から、力が流れ込んでくるような錯覚を覚える。

 『影力』がすっからかんの己の『影断ち』の状態を考えると、実際は真逆のシチュエーションに成りかねない訳だが、そんな事は些細な問題だ。


(――ごめんね、すぐに沢山のご飯にありつかせてあげるから)


 どうせこれから、食べても食べても食べきれない程の、大量の食事が待っている。


「そう、なら行くわよ」


 茜はそんな決意に満ちた梓の横顔を見て、フッと不敵な笑みを浮かべると、宣戦布告の狼煙をあげる。


「――真銘解放――起きろ『猫剥ぎ』。全部まとめて喰らい尽くせ……ッ!!」


 轟ッッ! と、言葉と同時。少女を覆うように見えない何かが渦巻いた。


 それは見る間に一陣の風のヴェールへと変わり、少女の身を覆い隠す。そして、視界が晴れるとそこには、凛々しい双剣を携えた『徒影』の少女が凛と顕現していた。


 梓も『影断ち』を中段に構える。

 数秒後。

 地鳴りのような足音と共に、三〇を超える数の影獣が二人の『徒影』目掛けて殺到した。



☆ ☆ ☆ ☆



「せぇあっ!」


 思春期の少女特有の甲高い一喝と共に、目にも止まらぬ速さで双撃が走る。

 黒が迸り、獣の汚い断末魔の絶叫が耳を刺した。


 それはさながら地獄のような光景だった。

 世界が紅蓮の焔に包まれるような夕焼けの中、まるで悪魔か悪鬼のような異形の影獣たちが鋭い牙から涎を滴らせ、獣臭にむせ返る咆哮を響かせ、鮮血の代わりに墨汁のように真っ黒な液体を傷口から飛び散らせる。そんな地獄。

 黒一面で埋まりそうな視界の中を、梓は人智を越えた速度でがむしゃらに駆け抜ける。


 すれ違い様に一撃、さらに真横から襲いかかってきた狼の影獣の顔面を一閃し、邪魔だとばかりに蹴り飛ばす。

 同じように少し前を走る茜が、ヒグマのように巨大な影獣をたった一太刀で両断していくのが梓の目に映った。


 倒しきる必要なんてない。わざわざご丁寧に食い尽くす義務なんてどこにもない。

 梓達の掲げる目標はただ一つ、瀬戸瑞葉の奪還。それ以外の不要な要素は全て削ぎ落とす。

 襲いかかってくる影獣にトドメなど刺さず、邪魔な影獣のみ撃退し、進む道を確保する。

 影獣を殺す事が使命とも言える『徒影』本来の行動からはかけ離れた行為だったが、今は茜も影獣の生死には拘らない。

 最短最速で地面を蹴り、降りかかる火の粉だけを的確に薙ぎ払う。


 ……もっとも茜の場合、一撃の威力が高すぎてほとんどの影獣がその一刀の元に両断されてしまう訳だが。


「梓、アタシから離れないで!」

「くっ、分って……るッ!」


 背後さえ確認する余裕のある茜と比べ、梓は影獣とのギリギリの駆け引きが続く。

 そもそも梓は依然として『真銘解放』を扱えず、ノーマルなのっぺらとした『影断ち』のままで影獣と戦っている。

 ただでさえ経験不足なのに加え、『真銘解放』すら儘ならない『影断ち』では、影獣相手に苦戦をするのも当然だ。


 だがそれも仕方がない。今はとにかく影力の消費を抑え、逆に沢山の影を『影断ち』の中の彼女(、、)に食わせてやらねばならないのだから。

 徒影の持つ影断ちのスペックによって個人差はあるが、基本的に『真銘解放』を使用するには多大な影力が必要となる。

 梓の場合、元より求められる消費影力がやたらと多いうえに、今の今まで影断ちにまともな食事を与えたことがなかったのだ。

 『真銘解放』を使えるようになるまで多少なりとも時間はかかるだろう。

 それまでは、この特に何の個性も能力もない『影断ち』で戦わねばならない。


「予想していた通りね。王我最命の力が何なのか、何となく分かってきたわ」


 背後の死角から津波のように襲いかかってきた、ナメクジのような不定形の影獣を振り向きざまに斬り飛ばしつつ、茜は推測を重ねる。


 ……先の茜との戦闘の際、王我最命は鴉の影獣を意のままに使役していた。

 王我最命の『影断ち』。

 その『真銘解放』の名称。

 そして言葉一つで起こしていた数々の異常な現象。

 自ら影を大量に喰らう事による『影の総量の回復』は一先ず例外として除外するとしよう。その上で茜はそれら全ての情報を踏まえ、王我の力は己の命令に強制力を持たせるような類の物と予測したのだが、どうやらあながち間違いでは無さそうだ。


「そもそも、いくら私と『猫剥ぎ』と言えど、全ての影獣を例外なく一撃で殺し切れる時点でおかしいのよ」


 確かに『猫剥ぎ』は強力な『影断ち』だ。

 攻撃力は徒影の中でもトップクラスだという自負もある。だからと言って、全ての影獣を一刀両断できる程に万能で無敵という訳ではない。……というのが茜の談だ。 


 確かに、梓の影を喰らった兎の影獣と茜が対峙した際もそうだった。茜はその卓越した双剣さばきと強さによって終始影獣を圧倒してはいたが、それでも一撃で影獣を倒した訳では決してない。

 であれば、これだけの数の影獣に襲いかかられた中で、その全てを一撃で切り伏せられている今の方がイレギュラーという事だ。

 それを確信させる決定的な言葉が、茜の口から告げられる。


「見てれば分かると思うけど、こいつら皆手負いよ。私達と戦う前から既に身体のどこかに巨大な『影断ち』による一撃と思われる傷を負っている。おそらくはそれが『キー』ね」  


 脇目も振らずに茜と梓に食い掛かってくる異常な数の影獣を一瞥して、


「少なくとも確実に言える事が一つ。この手負いの影獣達は、王我の支配下にあるって事」


 それはつまり。


「このクソみたいな弾幕が厚くなれば厚くなる程、ヤツに近づいてるって証拠よ。……本命を前に消耗するってのも馬鹿らしいわね。梓、ついて来なさい。一気に駆け抜ける!」

 

 さらに速度を上げ、天羽茜は有象無象を鎌鼬の如く一息に切り刻んでいく。

 黒一色の視界が徐々に開けていく。影の弾幕を、抜ける。


 そして――


 ――梓の視界の先には、巨大なサッカースタジアムがその全貌を夕焼けの中に浮かびあがらせていた。

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