第三章 絶望降臨Ⅳ 折れた刃、優しさの敗北
逃げた。
「はぁはぁはぁはぁ……!」
逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げ続けた。
「はぁ、はぁっ、はっぁはあはぁはぁはぁ……!」
「ぜぇ、はぁ……ねえ、あず……っ、はぁぜぇ……」
後ろを振り返る事もなく、二人の徒影が奏でる戦闘音が聞えなくなってからも、ただひたすらに走り続けた。
肺が酸素を求め、心臓がバクバクと脈打つ。わき腹が不快にじくじくと痛み、身体全体で苦痛を訴えている。
どこをどう逃げてきたのか、今自分たちが走っているここが一体どこなのか、何も分からない。それでも逃げた。握った手の中に、決して失ってはならない温もりがあったから。
その温もりだけを頼りに、心をすり減らしながら異界と化した日常世界を走り続ける。
「あず……さっ! ねぇ、梓ってば!」
ぐっと、強く手を引かれる感覚に内側にばかり向いていた意識が引き戻される。
疲労と不意打ちの衝撃に梓の脚が止まり、叫び声の主である瑞葉が梓の肩を掴んだ。
その予想外の力強さに思わず振り返って、そして後悔した。
そこには目元に涙をためた瑞葉が、蒼白な顔で梓の事を凝視していた。
真剣な眼差しに見据えられて、梓の呼吸が文字通り一瞬止まる。ごまかして走り続けることができそうな雰囲気ではなかった。
「待って、よ。梓……。茜ちゃん……あそこに居たのって茜ちゃんよね!? なんで、あの子を置いて来ちゃったの! 早く助けを、誰かを呼ばないと、茜ちゃんが殺されちゃう!!」
病人のように血の気の引いた顔で涙を流す瑞葉は、軽いパニック状態に陥っていた。
とはいえ、それが普通の反応なのだ。
いきなり自分の身の丈程もありそうな長大な剣を抱えた男に斬り殺されそうになり、眼前でまるでアクション映画のワンシーンのような壮絶な斬り合いが始まったりしたら誰だってパニックになる。
ましてや自分たちを助けてくれた少女が友達の女の子だとくればなおさらだ。
むしろ、恐慌状態に陥る事もなく、迫る危機に的確に対処している梓の方が傍から見たら明らかに異常なのだ。瑞葉はきっと、その事にも薄々気が付いている。
決定的に日常の壊れる足音が、すぐ近くまで来ているのを実感する。
徒影になってからこの五日間。今までかろうじて取り繕っていた物が、致命的な破損を迎えようとしているのだ。
だが今は、どんな事より逃げる事が先決だ。瑞葉に細かい事情を説明している暇はない。
梓は心が痛むのを無視して、瑞葉を一時的にでも説得する事にのみ意識を向ける。
うまくやる自信なんて欠片もないが関係ない。梓がやらなければ、茜の決意を踏みにじる事になる。それになにより、瑞葉がこれ以上危ない目に遭うような事は耐えられない。
梓は息も絶え絶えになりながら懸命に首を横に振って、
「違うんだ瑞葉ねえ、あの子は……茜は強いからきっと大丈夫だ。今はそれよりもどこか遠くへ逃げないと、茜の想いを無駄にしちゃう。ここは危ないんだ、危険なんだよ!」
「ねえ梓、一体何がどうなってるの? 茜ちゃんはどうなっちゃうの!? あの怖い人も茜ちゃんも意味わかんない事ばっかり言ってた。でも、二人が言ってる事がどういう事なのか、梓もまるで分ってるみたいで、それで、私、私……怖いんだよ、梓が、何か良くない事に巻き込まれて遠くへ行っちゃうんじゃないかって……」
当然瑞葉は納得しない。
あんな説明では納得させられる訳がない。大事な事を全て省いて、どうとでも取れる言葉だけを並べているのだからそれも当然だ。
「瑞葉ねえ、ゴメン。今は詳しい事を話してる時間がないんだ。いつかきっと、きっと全部話すから。だから今は僕と一緒に逃げて。そうしないと、茜の頑張りが全部無駄になっちゃうから――」
「……ほう、誰の頑張りが無駄になるんだ?」
――心のどこかで思いこんでいた。
天羽茜は最強で、例えどんな強敵が相手だろうときっと勝利してくれると。
『掟』を破った『欠損持ち』だろうが何だろうが、そんな些細な事は関係なく、いつものようにただ一撃のもとに、迫る仇敵を両断してくれるのではないだろうか、と。
けれど、
「あ、……あぁ、あ……」
そんな考えは、子どもの絵空事にも似た幻想にすぎなかった。
「あか、ね……?」
視線の先、三メートル。王我最命のごつい右の掌が、まるでバスケットボールを掴むかのように、天羽茜の頭を鷲掴みにしていた。
身体中の裂け目からにじみ出た墨汁のような液状の影が、茜の身体を真っ黒に染めている。
全身ズタボロの茜は意識がないのか、万力のような力で頭を掴まれていると言うのにうめき声一つあげない。
壊れた人形のように、地を離れた茜の足がぷらぷらと力なく宙で揺れていた。
「いやぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
擦り切れるような瑞葉の悲鳴が、酷く遠くに聞こえた。
「勘違いするなよ餓鬼。こやつは奮闘した。実に勇猛果敢だった。尊敬すべき戦士だった。戦いから目を背け、逃げるしか能のない貴様と違ってな。だがな――これでは足りぬのだ」
まるで空き缶を投げ捨てるかのようなノリで、王我が茜の身体を乱雑に投げ捨てる。
強かに地面に叩き付けられて、けれど茜は身じろぎ一つしなかった。
「あっ、あ、かね……? うそ、だよね。こんなの、そんな……ねえ?」
問いかける声は、惨めに怯え震えていた。
足が動かない。
まるで自分の足の裏に接着剤でも塗られているかのように、ぴくりともしない。
今すぐ茜の元へと駆け寄りたいはずなのに、梓の身体はちっとも梓の言う事を聞いてくれなかった。
そんな梓を王我は虫でも眺めるような視線でねめつけて、
「ふん、安心しろ。トドメは刺していない。中々の逸材だったのでな、今殺すのは少しばかり惜しい。もっとも、この後助かるかどうかはそいつ次第だが……そんな事より、貴様は己の心配をするのが先決なのではないか?」
は? と絶望と狂気の入り混じったような狂った泣き笑いで王我を見ると、侮蔑混じりの嘲笑が響く。
次いで、路傍の石ころを眺めるような冷たい視線が梓を射抜いた。
「忘れたのか? 鴻上梓。貴様はオレ直々に裁くと、そう言っただろう」
ニヤリと、獲物をいたぶるような冷笑を浮かべ、王我は自由になったその右手に無から『影断ち』を生み出す。
どこかのっぺりとした、特徴に欠ける無個性なその太刀を見ると、やはりこの男も『徒影』なのだという場違いな実感が湧いた。
「オレは弱きを憎む。ただ弱いだけならまだしも、強者より甘い蜜を啜る卑しく醜い貧弱者などもはや害獣も同然。ましてや女の背に隠れて命欲しさに敵に背を向け逃げ出すような腑抜けに、生きる価値などあるハズも無い」
王我はその手にある『影断ち』を空に投げると、右手一本で、流れるような美しい挙措で抜刀してみせる。
そのまま上段に影断ちを構え、鴻上梓を睥睨した。
ソレが振り下ろされれば梓の貧弱な身体など、何の抵抗もなく真っ二つに裂けるだろう。
茜が倒れた今、もう助けなど来ない。
誰かのピンチに都合よく現れる見ず知らずのヒーローなど、いる訳がないのだから。
死刑宣告を告げる言葉が、徒影の王によって紡がれる。
「真銘解放――『絶対法の王権』。……死ね、悪しき弱者。正義はオレの手の中にこそ在る。絶対というオレの名の元に、その命で持って咎を償え!」
ゲームオーバー。
鴻上梓は、ここで死ぬ。
でも。
(死ぬって、なんだ……? 人間でも無い僕は、いつ死ぬんだ? いつから死んでいるんだ? 徒影になったあの時? 心臓の鼓動が止まったら? 影獣になった瞬間? それとも、お母さんが死んだあの時には、僕はもう……)
そんな現実逃避とも言えぬ漠然とした考えに支配されたまま、鴻上梓の幕引きが迫る。
王我が振り下ろす『絶対法の王権』が、鴻上梓を真っ二つに両断せんと風を斬る光景が、やけにスローに見えた。
恐怖に目を瞑るくらいの自由は、梓にも許されたらしい。
暗闇の中で、泥中を進むようにゆっくりと訪れる死を、梓は待った。
しかし、そこで異変が起こった。
容赦なく振るわれた斬撃が、その額を叩き割るその直前。
ピタリと、三ミリ手前。寸分違わぬ精密さで王我の刃が止まったのだ。
遅れて吹き荒れた剣圧が、暴風となって乱暴に梓の髪を撫でた。
何が起きたか分からない。が、まだ生きている。
その事実にゆっくりと目を開けた梓は、予想外の光景を目にする事になる。
「……ほう、強いな。その在り方、実に強い。オレとしては非常に好ましいぞ、女よ」
予期せぬ強者へ巡り合えた事を喜ぶかのように、王我の顔が嗜虐的な笑みに歪む。
だが、心の底からの賞賛の言葉も、直前で止められた刃も、その全てが鴻上梓へ向けられた物では無かった。
「やめて、ください……!」
梓の眼前。
死の刃から梓を庇うように前に飛び出した少女が、そこには居た。
まるで弟を護る本物の姉のように両手を広げ、瀬戸瑞葉は王我最命の前に『強敵』として立ち塞がっていた。
キッと、確かな怒気を孕んだ視線が王我を射抜く。
一歩も退く事無く、今や対等な存在として、瀬戸瑞葉は王我最命と対峙していた。
「梓と茜ちゃんを、私の弟と友達を、虐めないでください……。もしあなたがこの子達をこれ以上傷つけるなら、私はあなたを許さない……! 絶対に、何があっても!!」
「……女、お前はオレが怖くないのか? オレは遊びや冗談でツヴァイヘンダーを振るっている訳ではない。ここでこの餓鬼の前に飛び出せば貴様が代わりに死ぬという事が分からないのか?」
そんな王我のどこか試すような含みを孕んだ問いかけに、
「理屈じゃ……ないの。分かっているとか、いないとか、関係ないっ。だって、家族だから!! 傷ついてほしくないからっ!」
勇気を振ふり絞って泣き叫ぶ瑞葉の脚は、生まれたての小鹿のように恐怖に震えていた。
当たり前だ。
だって、瀬戸瑞葉はごく普通の平凡な女の子なのだ
天羽茜のように化け物を一刀両断にする力も無ければ、『徒影』になった梓のように、単なる物理現象では死なない身体を持っている訳でもない。
転べば肌を擦りむいて血が滲む。雨に濡れれば風を引く。影獣に襲われれば一瞬ですべてを喰われ尽してしまう。そんな、ごくごく普通の世界に生きる女の子なのだ。
それなのに。
「やめて……よ」
縋るような、懇願するような、声。
それが自分の口から漏れ出た音だとも気が付かぬまま、鴻上梓は狂ったように吠えた。
「何を……何やってるんだよ瑞葉ねえ! 今すぐそいつから離れて! はやくここから逃げてよ!」
瀬戸瑞葉は首を横に振る。
その背中から、決死の覚悟を感じる。感じてしまう。
どうすればいい。このままじゃ瑞葉が。でも、鴻上梓の足は動かない。
みっともなく、人間でもない化け物の癖に己の死を恐れ、瑞葉が自分を庇ってくれている今の状況に身体は安堵さえ覚えている。
ダメだ。この流れは、絶対に止めなければならない流れだ。そう分かる。なのに、鴻上梓にはどうする事もできない。
「僕は、僕なんてどうだっていいから、お願いだからそこをどいて! 瑞葉ねえ。瑞葉ねえってば! なんで分かってくれないのっ。そいつは危険なんだっ。だから、お願いだよ! そこに居たら殺されちゃうんだよ!?」
「梓、大丈夫だからね。梓は、梓だけは、何があってもお姉ちゃんが守ってあげるんだから。だから、ね? そんな顔しないで――」
ニコっと、梓を安心させるような穏やかな笑みを浮かべた瑞葉が、梓の方を首だけで振り返って――
「え」
その声は果たして、どちらが上げた物だったのか。
――グザリ、と。嫌に生々しい音を奏で、瑞葉の背中から巨大な黄金の剣が生え、その先端が飛び出した。
「ごふっ」
グルんっ、と白目を剥き、一瞬のうちに瑞葉の身体から一切の力が抜ける。
自分を串刺しにした長剣に凭れかかるようにして、瑞葉が完全に沈黙した。
「その心意気、気に入ったぞ女。喜べ、貴様は今日からオレの物だ」
王我は言いながら、瑞葉の身体を串刺しにしたツヴァイヘンダーを引き抜く。
どさりと、電池のきれた人形のように瑞葉の身体が地面に倒れた伏した。
不思議と出血は一ミリリットルたりとも無い。確かに貫かれたはずの胴体にも、グロテスクな風穴は存在していなかった。
王我は己の『影断ち』を自分の影の中へと収納すると、完全に意識のない瑞葉の身体を、米俵のように己の肩に担ぎあげた。
そのまま力を失った瑞葉の身体をどこかへ運ぶつもりのようだ。
どこへ……? どうして、瑞葉ねえを、連れて行くの……?
「……せ」
「なんだ、まだ生きていたのか。塵屑。この女の決意に免じて今日は見逃してやると言っている。目障りだ失せろ」
「返せぇぇぇえええええええええええええええええええええええええええッ!!!」
瞬間、世界が沸騰し爆発した。
爆発したのは、梓の中にある世界か。梓の生きる外の世界か。
そんなことはどうだっていい。
瑞葉を取り返す事ができれば、何だって構わない。
(ああ、吐き気がする……)
目に映る世界がまるで玩具のように思える。酷く現実味に欠ける。
どろり、と。まるで空気が透明な泥水になったかのように重く、身体に纏わりつく。
全てが遅い。時が止まったような超感覚の中、鴻上梓だけが世界を駆ける。
心が、乖離する。もう一人の自分が怒り狂う自分を遥か頭上から客観視しているような、そんなイメージさえ覚える。
頭上から見下ろす自分は、冷徹に冷静に残酷に、王我最命というクソ野郎を殺す手段を思考し、そのイメージが怒りを握った自分へと反映される。
慟哭のような咆哮を伴って駆ける梓は、いつの間にかその手に鞘から抜き放った『影断ち』を握っていた。
何も考えず、何も考えられずに、ただただ自覚無き殺意を抱いて、鴻上梓は王我へと最短距離で突き進む。
懐深くに入り込む。地面を打ち鳴らす踏込みに、足が軋りをあげる。
叫んでからここまで、僅か一秒。
疾風の如き挙動に、遅れるように風が巻き起こって、王我最命の灼熱の髪を逆なでる。
裂帛の、否。決死の咆哮と共に繰り出された渾身の袈裟切りは、
「――ぬるい」
がきぃんっと、響くのは間抜けな程に甲高い音。
そして、ひゅるんひゅるんと回転する刃の切っ先が空を舞い奏でる風切り音が耳についた。
鴻上梓渾身の一撃は、無防備に立ち尽くすその身体に直撃してなお、王我最命の肌に傷一つ作れなかった。
まるでスコップで岩を殴ったようなふざけた手応えに手に痺れが走って、梓の背後の地面に半ばから折れた『影断ち』の刃が無情にも突き刺さった。
思考、空白。
次の瞬間。
「がっっ……ぁッ!?」
唖然と固まる梓の顔面へと、強烈な蹴りが叩き込まれる。
あまりの衝撃に鼻が捻じ曲がり、口の中で歯が根本から数本折れる激痛――そんな物を感じる間も無く、サッカーボールのようにノーバウンドで吹っ飛んだ梓は、建物の壁を軽々とぶち破り、五枚目でようやくその勢いを止めた。
王我最命は、瓦礫に埋もれる梓に路傍の石でも眺めるような冷たい眼差しを向け、
「弱い。つまらん。遅すぎる。貧弱で脆弱だ。てんで話しにならない。足りない。オレに挑むには貴様では圧倒的に足りぬ」
鴻上梓の全身全霊の一撃を、鼻を鳴らしてそう評した。
死屍累々。
この場に立つのは王我最命ただ一人。
王に逆らいし愚か者が、地に二つの足をついて立っていられる道理など無い。
これが、これこそが当然の帰結だとばかりに、王我最命は君臨する。
「鴻上梓、この光景を胸に刻むがいい。この惨劇は貴様が脆く弱いからこそ起きた必然だ。弱さも敗者も等しく悪だ。強さに、勝者にこそ、絶対の正義は付随すると知れ。そしてゆめゆめ忘れるなよ。貴様の命がそこにあるのはこの女の見せた強さに敬意を表した物だとな」
それだけを言い残して、王我最命は影の中へ。
まるで最初から存在すらしていなかったかのように、梓の前から姿を消した。
全身全霊を尽した天羽茜は、奮戦と激闘の末に敗北した。
他者を守ろうと絶対的強者に立ち向かった瀬戸瑞葉は、成す術なく倒れ連れ去られた。
鴻上梓は……ただ、みっともなく泣いていた。
願われたのに、そうであってくれと望まれ、梓自信も心の底からそう望んでいたのにもかかわらず、叶わなかった。助けられなかった。救えなかった。
それが腹立たしくて、悲しくて、絶望するほどに死にたくなる。
認めたくなかった。こんな物が現実だなんて。
けれど、失ってしまった腕の中の温もりが、その致命的な喪失を物語っていた。
「瑞葉ねえ……っっ、ちくっ、しょう……ッッ!」
鴻上梓は敗北した。否、敵として王我最命と戦う事すら出来なかったのだ。
ただ、何も出来なかった。
瓦礫の中、顔を上げる事も再び立ち上がることもできずに、鴻上梓は己の無力さに泣き崩れていた。




