第三章 絶望降臨Ⅱ 隻腕の王
温もりが離れていく心細さに、鴻上梓は目を覚ました。
「……瑞葉ねえ?」
呟くとほぼ同時に、ゆっくりと静かに玄関の扉の閉められる音がする。
辺りを見渡すと瑞葉の姿が見当たらない。梓を寝かしつけて家に帰るところなのだろう。
「……。色々とやってしまった……」
梓は頭を抱えてソファの上で何かに悶えるように転げまわってから、そう呟いた。
後々思い出してみると、なんかもう恥ずかしくて死にたくなるような事しか言っていない気がする。
それに、子どもみたいに泣き喚き、同級生の女の子にあやされたのも思春期男子としてはかなり致命的だ。
ただでさえ瑞葉には幼い頃から恥ずかしい所や情けない所など、ありとあらゆる弱みを見せまくってしまっているのだ。これ以上増えたから何だ、といっそ開き直る自分と、これ以上恥を重ねるのか? と身悶える自分とが脳内でケンカを始めている。
だが一つだけ、確かな事がある。
……また瑞葉に救われた。
壊れそうで、今にもどうにかなってしまいそうだった梓を、瑞葉が助け出してくれた。
その事実だけは、疑いようもなく確かだ。
――お礼を言いたい。
きっと瑞葉は照れくさそうに笑いながら、「今更何言ってるの? 水臭いんだよ、もう、」と頬を膨らませるだろうが、それでもきちんと感謝の気持ちを伝えたかった。
今から後を追いかければ余裕で追いつくだろう。なら、今すぐ追いかけてお礼を言うべきか? あんな恥部を晒した直後に……?
「ま、また明日にしようかな……」
自分のあんまりな言動を思いだして、今更のように顔が真っ赤に火照った梓がそんな情けない判断を下そうとしたその時だった。
「……ッ!?」
ゾッと、尋常じゃない威圧感が梓の背筋を一舐めした。
徒影になりたての梓は天羽茜のように影力という物を鋭敏に感じ取る事はできない。
だがそれでも、影獣と真正面から対峙した時や、至近距離でならその力の波動を感じ取る事ができる。
今感じた気配も、まさにそう言った時に感じる圧力と実に似通っていた。
ただその大きさが今まで感じた事も無いほどに大きい事と、影獣と言うよりも茜の放っていた影力に近いような気がした事を除いて。
「なんだ、今の……。ッ、瑞葉ねえ……!?」
靴を履くのももどかしく家から飛び出していた。
「なんだよ、これ……」
外に出ると、世界が一変していた。
ぐにゃり、と。降り立った瞬間に大地が粘土のように不定形に歪んだ錯覚を覚える。
蒸し返るような真夏の夕暮れ時の暑さと、背筋の凍るような殺気とか同居して、触れる傍から吐き気を催す異様な空気。
視界が酩酊時のように歪んでいる……と思って、本当に民家や塀やアスファルトの道路がその境を曖昧に、形が歪み始めているのだと気が付く。触れると粘つくそれは、アメーバかスライムのような感触を与える。動物的な勘で異常に気が付いているのか、犬小屋に繋がれた柴犬が、何かに怯えるように虚空へ向けて吠え続けている。
いつもは電柱に大量に止まっている烏の姿も、一羽さえ確認できない。虫の一匹、蚊の一匹さえ見当たらない。
まるで、もうこの街はおしまいだとでも言うかのように、野生に生きる生き物達の姿が消えていた。
まるで大地震の前兆のような、小さく、しかし確かな違和感。
けれど、道行く人々は誰もその異常に気が付かない。
虫かごや虫取り網を手にはしゃぎながら楽しそうに駆けていく小学生の集団も、部活帰りの中学生も、庭で植木の世話をしている初老の老人も、仕事帰りのサラリーマンも。
誰もかれもが異常な世界の中で普段通りの平凡を謳歌しているという最大級の異常。
誰も気が付かない。
気が付くのは、まっとうな世界から外れた者達だけ。
影の眷属たる、『徒影』だけ。
その事実を改めて確認させられて、鴻上梓は奥歯を砕けるばかりに食いしばった。
なんという体たらくだろう。気付くチャンスは、ほかでもない梓にだけはあったハズなのだ。
瑞葉が一人で外に行ってしまう前に、外の異常を察知して呼び止めることも出来たハズなのに……!
今まで自室に閉じこもっていたから気が付かなかった?
馬鹿か? いや、馬鹿を通り越して大間抜け者だ、僕は……!
後悔してももう遅い。
こうしている今も、この異常事態は刻一刻と進行している。
そしてこの異常事態を裏付けるかのように周囲一帯を包み込む莫大な影力を感じる。
いや、それだけじゃない。
拭いようのない危機感と焦燥が『徒影』としての感覚を研ぎ澄ましているのか、今の梓は周囲に分布する影力の数とその位置まで鋭敏に感じ取る事ができた。
「影獣がこんなに!? ショッピングモールの時とは比べ物にならないぞ……!?」
梓の周囲五〇〇メートル圏内だけでも、三〇を超える数の影獣がひしめき合っている。
新人であり所詮は出来損ないのひよっこ『徒影』の梓にだって分かる。
この数は異常だ。早く瑞葉を助けないと大変なことになる。
ひとりでに震える弱虫な足を鼓舞するように殴りつけ、梓は異界と化した見慣れたはずの住宅地を全速力で駆ける。
瑞葉はまだ梓の家を出たばかりのはず。今ならまだ追いつける。
影獣は陰の気を抱える者を好む。
瑞葉のような思いやりに溢れた明るく優しい少女が陰の気を抱えているとは思えないが、あくまでそれは好みの問題。
影獣にとって人間とは等しく餌なのだ。例え瑞葉が影獣の好物である陰の気を抱いていなくても、標的として狙われる可能性は十二分にあり得る。
「くそ……!!」
考えれば考えるほどに今の状況が最悪に近いのだと思い知らされる。
嫌な予感が梓の胸を締め付ける。鼓動が全力疾走とは無関係に速まり、頭がおかしくなりそうな焦燥感に歯を食いしばった。
ショッピングモールの時とは訳が違う。今ここに茜はいない。瑞葉を守れるのは影獣を殺す覚悟もない出来損ないの梓だけ。それでも梓以外に彼女を守れる者は存在しないのだ。
(嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! そんな、そんなの……ふざけるな!!)
はやく、もっと速く!
歪む地面を砕けんばかりに踏みしめ、蹴り上げる。
『徒影』としての身体能力を最大限解放し、一陣の風になったかのような速度で瑞穂の家までの道を駆け抜けた。
彼女が家にが帰るとすれば、まず間違いなくこのルートを通る。
途中、視界の端に何体もの影獣を認めるが、今は構っていられない。心の中でこれから犠牲になるかもしれない見ず知らずの被害者に必死で頭を下げて許しを請い、力の限り目を瞑って何かを振り切るように走り続けた。
心臓が早鐘のように鳴る。
脳裏に浮かぶ妄執を振り払うように、夏の夕方の粘つく空気を肩で切って突っ走る。
走って、走って、そして――
――瀬戸瑞葉の背中が見えた。
「瑞葉姉……! よ、良かった……」
ぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返し、安堵に脱力した梓は膝に手をついた。
「梓? どうしたの? そんな走って汗かいて……」
凄まじい憩で飛び出してきた梓に驚いた瑞葉が、驚きに目を丸くして駆け寄ってくる。
寝かしつけたと思っていた梓が、その僅か数分後に息せき切って後を追いかけてきたのだから、瑞葉が驚くのも当然だろう。
さて、なんと言い訳したものか。もしくはいっそ今ここでさっきのお礼を言ってしまうべきか。
いや、平和ボケした思考回路に付き合っている猶予なんてないハズだ。ひとまず彼女をどうにかして安全な場所へ移動させるのが先決――
しびれるような疲労に襲われる頭を梓が回転させ始めたその時だった。
「――ッッッ!?」
「――ほう、このオレの気配を察知したか、餓鬼」
声、に、というよりその存在感に、死よりなお濃い怖気を覚えた。
「きゃあっ!?」
反射的に全力で跳び、瑞葉に抱きつくようにして彼女の身体を押し倒し、二人揃って転がるように元いた場所から距離を取る。
直後の事だった。
瑞葉が元居たその場所に寸分たがわぬ正確さで巨大な刃が振り下ろされた。
轟音と共にアスファルトの大地にいとも簡単に地割れが走り、粉砕されたアスファルト片が散弾のように辺り一面にまき散らされる。
梓は瑞葉を庇うように必死に抱きしめ、己の背中で瓦礫の散弾を受け止めた。
常人なら間違いなく致命傷を負うようなダメージではあるが、『徒影』である梓は単なる物理的現象では傷つかない。
瓦礫の散弾を受けても全くの無傷な梓を見た声の主が、愉快げな声を上げる。
いたぶり放題の獲物を見つけた、肉食獣の愉悦を。
「ふむ。食事にありつければそれでいいと思っていたのだが……、その身体……餓鬼、貴様『徒影』だな? くっくくっ、ふはははは! 愉快愉快。腹を満たすための食事を探していたと言うのに酒と酒の肴まで転がり込んでくるとはな。これは思わぬ収穫だ。これが所謂棚から牡丹餅というヤツか」
心臓を鷲掴みにされたような、他者の手に己の生死を握られているような恐怖を錯覚する。いや違う。これは錯覚などという陳腐な物ではない。目の前のこの男は紛れも無く梓達の生殺与奪を握っている。まだ自分が生きているのに、もう死んでいるのと変わらないような、そんな頭が発狂しそうになる圧倒的恐怖と威圧的な存在感。
顔を上げられない。
できる事なら、このまま声の主が気まぐれを起こして、何事もなくこの場から立ち去ってはくれないか。そんな現実味の欠けた無謀な望みを抱く。
「おい、餓鬼。オレを見ろ」
たった一言。
それだけの言葉に、鴻上梓の全神経が爆発的に逆立った。
逆らえば殺される。
そう梓の本能が判断したのだ。半ば強制的に身体が動き、伏していた顔が上がる。
『オレを見ろ』。
その宣言の通りに梓が目にしたのは、一匹の猛虎のような男だった。
直感で分かる。この男は人間ではない。『徒影』だ。影力の質が影獣よりも茜に近かったのも当然の事だったのだ。
容姿端麗。そんな言葉で片付けるには、その美しさはあまりにも荒々しく破滅的で暴力的だった。
逆立った短剣のように鋭く燃えるような赤髪に整った顔立ちの美丈夫は、しかし鋭利な刃物のように人を寄せ付けないオーラをその身から発している。
鋭く細められた黄金の瞳が、値踏みをするように梓を睥睨している。高身長で細身だがしっかりと引き締まった筋肉質な肉体は、まるで野生を自儘に生きる王者の風格。右手に握られた男の『影断ち』――巨大な西洋の両手剣、黄金の刀身のツヴァイヘンダー――がより一層その威圧感を増している。
殺気を向けられただけで卒倒してしまいそうな、余りにも反則的な存在感がその男にはあった。
だがその男の最大の特徴はそこではない。
右手一本で長大な剣を握りしめたその男は、左肩から先――つまりは左腕が存在していなかったのだ。
隻腕。
片腕を失った……体の一部を欠損した、『徒影』……?
このワード、どこかで聞いた気が……。
「欠損……? まさか、掟を破った『徒影』なのか……!?」
「ふん、今頃気が付いたうえ、このオレを知らないそのお粗末さ。なにかと思えば貴様、雛鳥か。つまらん。だが、このオレの言葉に殺気を感じた咄嗟の判断は褒めてやる。ただの愚鈍な豚ではなさそうだ」
男は凄惨に笑みを引き裂くと、片手で軽々と両手剣を振り回してその切っ先を梓へと突き付け、
「おい餓鬼、名を名乗れ」
恐怖で口が回らない。
突き付けられた刀身に映った自分が空気を求めて水面に浮上した鯉のように、みっともなくパクパクと口を開閉しているのが見える。
ヤバい。声を、何か言わなきゃ……。
そう思うのに、でも出ない。声を出そうと必死なのに、そんな梓を嘲笑うかのように梓の喉は油分を失った歯車のようにから回って噛み合わない。そんな梓を見た男は、
「オレを待たせるな」
「……ッッ!? こっ、こここ鴻上……梓、だ」
苛立ちを隠そうともしない、さらに鋭くなった殺気が場に溢れた。
声が掠れ裏返るのも無視して、つっかえながらも慌てて名を名乗る。
男はその様子に満足げに笑った。
「そうか、鴻上梓と言うのか。いかにも貧弱な貴様にお似合いの良い名ではないか。だがな、梓よ。貴様は目上の存在に対する礼儀がなっていない。オレに敬意を示さずとも許される者は、オレよりも強い者だけだ。それはつまり、この世にそのような者は存在しないと言う事だ。分かるか? 鴻上梓。従って貴様にはしかるべき罰をオレ自ら与えてやろう」
ガチャリ、と。心の底から楽しそうな嗜虐に満ちた笑みを浮かべた男が、両手剣を上段に構える。
その行動が何を意味しているのか、それが分からないほど梓は鈍くは無かった。
今まで経験したことのないような恐怖と死の予感に、身体が勝手に震える。
腕の中の瑞葉が何かを必死に叫んでいるが、何も聞こえない。頭に入ってこない。
梓はただ縋るように、必死で腕の中の温もりを抱きしめ返す。
死ぬ、死にたくない、戦うなどという選択肢は考えるまでもなく捨てた。勝てるビジョンが欠片も見えない。逃げなきゃ。死ぬ。今すぐ逃げたい。なのに、両脚が動かない。
その長大な剣から繰り出されるのは大地を断つような馬鹿げた一撃だ。振り下ろされれば、梓も瑞葉も命はない。
そんな怯え震えが止まらない梓を見て、楽しそうだった男は一転、
「……つまらんな。抗い、戦おうという気概さえ持たないか……。ならば死ぬが良い弱き者よ、腕の中の女諸共。我が『絶対法を司りし王権』の錆となれ」
落胆を隠しもせず、実にくだらなそうにそう告げた。
梓の恐怖心をいたぶり弄ぶような宣言の後、男が己の『影断ち』を無感情に無慈悲に振るう。その必滅の一撃に、地面もろとも鴻上梓と瀬戸瑞葉が木端微塵に粉砕される。
その刹那。
ガキィンッ! と、高らかな金属音。
風もかくやという速度で割り込んだ双撃の閃きが、男の一撃を受け止めていた。
「……自分より強い者はいないですって? 随分おめでたい頭と自信ね。『掟』を破る事でしか生き永らえる事のできなかった薄汚い『欠損持ち』の年寄風情が」
サイドで束ねられた、やや青みがかった一房の黒髪が踊る。キタキツネのような警戒心に満ちた勝気な釣り目が梓を捉え、ほんの一瞬安堵の色を浮かべた。
それは、一人の少女だった。気が強く口が悪くて強引で、でも予想外の方向からの押しには弱い、変にいじっぱりな心優しいお人好しの女の子。
鴻上梓が知る、天下無双にして、鎧袖一触、一騎当千を誇る『徒影』。
『猫剥ぎ』の名を冠する双剣を手にした天羽茜が、そこに居た。
「……ほう、オレの一撃を止めるか。なかなかおもしろい。見どころのある女だ。だがな女、オレを知っているのなら言葉遣いには気を付けろよ? うっかり、楽しむ事を楽しむ前に殺してしまいかねないからな」
野生に解き放たれた猛獣のような獰猛な笑みが、茜の至近で炸裂する。
長大で超重な一撃を頭の真上で交差させるように受け止めた二振りの剣が、男の剣と激しくせめぎ合い火花を散らした。
「黙りなさい、ここで殺されるのはアンタよ。『隻腕』、王我最命。アンタが何を企んでこの街に来たかは知らないし、興味もない。けどね、アタシの縄張りにズケズケ踏み込んでおいてタダで帰れるとは思わない事ね」
「なに、企みごとなど何もないさ。この街には旅路の途中に食事の為立ち寄っただけだ。もっとも、想定外の収穫はあったが……。それと一つ警告だ、その呼び名はオレに相応しくない。『隻腕の王』と、そう呼ぶがいい。名も知らぬ『徒影』の女」
不敵に笑うやいなや、男――王我が動いた。
一際強く己が影断ち、『絶対法を司りし王権』に力を乗せたかと思うと、次の瞬間には身を引くようにして脱力――反動で密着状態にあった茜の『猫剥ぎ』との間に空間が生まれ、王我が剣を振るうだけのスペースを創り出す。茜が意図に気が付いた時にはもう遅い。
その長いリーチを生かした逆袈裟気味の切り上げの重い一撃が振るわれ、十字架のように『猫剥ぎ』を顔の前で交差した茜の小柄な身体をいとも軽々と吹き飛ばす。
が、茜もさるもの。空高く吹き飛ばされるもそのまま空中で二回転半を決めると、威力と衝撃を殺して軽々と地面に着地してみせた。
挨拶のような短い攻防。その一瞬の交錯の中にも両者のレベルの高さが伺える。
それは素人の梓の目にも明らかだった。
「……そういえばアンタにはまだ教えていなかったわね、梓」
茜は、油断なく双剣『猫剥ぎ』を構え直しながら梓に視線も向けずに、言う。
「こいつが、『十の影の掟』を破った『徒影』。掟を破った罰を受け、身体の一部を失ってなお五〇〇年以上の時を生き永らえる強大かつ害悪な存在。通称『欠損持ち』が一人、『隻腕』王我最命。アタシ達『徒影』の、世界の敵よ」
『欠損持ち』とそう呼称された王我最命は、まるで己の欠けた肉体を誇りにでも思っているかのように、悠然とそこに君臨していた。
逃げ隠れする必要などないと、自分こそが絶対的強者であると宣言するかのように。
「そんな訳で梓、今すぐ瑞葉を連れてここから逃げなさい」
「でも、……」
「いいから、言う事を聞いて。アンタたち二人とも死ぬわよ?」
迷い、言い淀む梓とは対照的に、茜の言葉には一切の迷いも躊躇もない。
全ての覚悟を決め、自分のやるべきことを理解し、ここに立っているのだろう。
いつだって迷ってばかりで、なよなよとしていて優柔不断な梓とは大違いだ。
けれど、だからこそ。これだけは聞いておかなければならなかった。
「茜は……どうして、……なんで僕たちを……僕を助けてくれるの? 僕は茜の期待も信頼も裏切ったのに、それなのにどうして……」
「馬鹿ね。そんなの、『掟』だからに決まってるじゃない」
あまりにあっさりと。思い悩む暇さえあたえず、天羽茜はそう即答した。
ショックで唖然とする梓の顔を見もせずに、いっそ事務的とさえ思えるような口調で、
「所詮アタシ達は『徒影』よ。師と弟子であるアタシとアンタの間にアンタが言うような、暖かい物なんて存在しない。死なれちゃ困るから、『掟』に従ってアタシはアンタの傍にいてアンタを守る。ただそれだけ。そこに感情論を挟む余地なんてないわ」
茜の必死の説得を拒絶し、徒影として戦う事を放棄したのは梓だ。
梓の為に必死になって色々な事を教えてくれようとした茜の手を、梓は自分勝手に振り払った。梓は決してやってはいけない酷い事をしたのだ。
分かっていた事ではないか。
もう茜が何かを教える義務も、梓の身を守る義理もないはずだ。それどころか、嫌われ、憎まれていたって不思議ではない。
それでも茜がその身を挺して梓を庇うのは、『掟』があるから。
それが、徒影としての生き方なのだと、茜はそう言っていた。
「アンタはアタシの説得も忠告も、その全てを無視したわ。でもだからってアタシがアンタの師じゃなくなる訳じゃないし、アンタがアタシの弟子である事にも変わりはない。『掟』に縛られ、残酷な世界のルールに縛られ、一生終わらない永遠の戦いという宿命に縛られたアタシら『徒影』に、自由なんて物はないのよ」
そこまで言い切った茜は、でもね、と。何かに区切りをつけるように瞳を閉じた。
そして、ゆっくりと梓の方へと振り返る。
振り返ったその顔には、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
「だからこそアタシは、心は自由でありたいと、そう願うわ。……梓、確かにアンタは馬鹿でアホで愚か者で、どうしようもなく壊れていて、もう手の施しようのないような異常者よ。だけど、誰に流される事も無く、しがらみも宿命も、己の命さえ……その何もかもを無視して抱くアンタのその信念は、きっと尊いわ。誰にも否定できない、否定させてはいけない、尊い物なのよ。だからアンタは自分に誇りを持ちなさい。そしてアタシも、そんなアンタの師であれた事に誇りを持つ。だから――アンタらを守るこの選択は、アタシの心が勝ち取った自由。掟も宿命も糞喰らえっ。……誰が定めた物でも無い、誰に縛れるものでもない、これはアタシの戦い!」
梓は、何も言わない。言う事ができない。
(あぁ……)
だって、口を開けば耐えきれずに流れ出すであろうみっともない嗚咽と涙が、彼女の戦いを穢してしまうだろうから。
(ああ、本当に僕は色んな人に助けられてばっかりだな、僕は――)
茜の言う通りだ。
鴻上梓はなんて愚かなのだろう。
こんなにも近くに、二人もいたのだ。鴻上梓が鴻上梓であることを認めてくれる人が。
狂っていても、壊れていても、それでも、この二人は、きっと梓の行いを認めてくれる。そう確信できる。
「今度はアタシが見せてあげる。徒影の、アタシの本当の力ってヤツを」
茜は、その手に握った『猫剥ぎ』を確かめるように握りなおして、
「――具影召喚――『怨猫四肢死装束影経』……!」
静かに、しかし苛烈な熱を秘めたその詞に応えるかのように、
茜の影力が爆発的に上昇した。
己の写し鏡である茜の影が、水面のように波立ち――決壊。
足元の影が津波のように爆発し、主である茜を呑み込む。
影との抱擁は一瞬。
茜を呑み込んでいた影の膜が、茜の身体の中へと還っていくように溶け入り消失する。
影を纏い、写し鏡と一体になった少女は――その両腕が新たな姿を成していた。
その手に握っていた二振りの双剣は見当たらない。
その代わりに、柔らかく小さな少女の手には鋭いスパイク状の鉤爪が生え揃い、掌だった部分には大きな肉球が存在している。
インドの武器虎の爪や、忍者の使う鉄甲鉤に発想としては近いのかもしれない。
「……チッ、二つか、ハズレね。あの気紛れ猫め……」
天羽茜の両手は、猫科動物のソレに変貌していた。実体のない影の猫の手を両腕に纏った『徒影』の少女は鋭い爪を備えた腕を横薙ぎに振るった。
まるで、これ以上は一歩たりとも手出しはさせないと、そう意思表示をするかのように。
「ここはアタシが押さえる。だから梓、アンタは行きなさい。大切なんでしょ? 瑞葉を……今度こそその手で守りぬいてみせなさいな」
再び振り返った茜はその顔に、梓が今まで見たことのないような柔らかい笑みを浮かべていた。
絶対の信頼を寄せる相手に送る、どこか母性さえ感じさせるその笑顔に後押しされ、梓の脚に力が戻ってくる。
ああ、そうだ。これは誰に言われたのでもない。茜が、天羽茜がそうしたい事なんだ。
他人に価値を押し付けられる事が嫌だ、と。茜はそう言っていた。
だからこれは『徒影』の掟に従うのではない、天羽茜という少女が、己の心で勝ち取った戦いなのだ。
これを邪魔する事は、きっと許されない。
それにここまで言われて茜の言葉に逆らうのは、それ自体が『師』として己が役目を果たそうとする茜に対する冒涜だ。
なら鴻上梓がやるべき事はたった一つだ。
腕の中の大切なこの温もりを何としても守り通す。茜も、きっとそう望んでくれている。
「梓……? 茜ちゃん……? 一体なにが――」
腕の中、瑞葉が混乱と不安を隠せもせずに、梓の顔を覗き込んでいる。
大丈夫。そう、視線で告げる。
確かな決意が、ここにあった。
立ち上がれる。
脚は恐怖に震えている。が、それを押し返そうとする勇気が宿っている。
もう一度、前へと踏み出せる。
恐怖で身体が動かないなどという情けない事は、もう無い。
梓は決意の籠った目で一度だけ茜の言葉に頷くと、目の前の状況に慄く瑞葉の手を引いて一心不乱に走りだした。
後ろは振り返らない。
梓の『師』は、きっとそれを望まないから。




