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序章 ひまわり

 母はいつも言っていた。


『優しい人になりなさい』


 口癖のように。なにかと気が弱く、引っ込み思案な梓が友達に泣かされて家に帰る度に、それが魔法の言葉であるかのように言っていた。


『その人の為を思って、本当の意味でその人の為になる事を、その人の為にしてあげられるような人になりなさい』


 それは何かの呪文のようで、優しく背中を撫でながら繰り返されるその言葉に、不思議とざわつく心が落ち着いていったのを覚えている。


「お母さん……」


 母は強い人だった。

 女性にしては珍しく火事の現場の第一線で活躍する消防士だった母は、命令を無視して燃え盛る業火の中に飛び込み、一人取り残され泣き叫ぶ小さな子供を救い出してしまうような、そんな破天荒で――けれど自然と人を引き寄せてしまうような――魅力的な人だった。


 梓の記憶の中の母は、いつもどこか厳しい顔をしていて、けれど梓を褒める時だけひまわりが咲くように笑うのだ。


 その笑顔が好きで、大好きで、梓は母に褒められようといつも必死だった。


「僕、頑張るよ。お手伝いだってちゃんとやる。勉強も。……ちょっと苦手だけど運動だって頑張るよ。だから……お母さんの言うような、優しい人(、、、、)になってみせるから。だから……!」


 強く握ったその手に、もう温もりは宿らない。

 そんな当たり前の現実が、ずっしりと死刑宣告のように重く圧し掛かる。

 明日から、今この瞬間から、どう生きて行けばいいのだろうか。

 大海原のど真ん中で、羅針盤も食料も乗組員も、その全てを失い途方に暮れるような不安と孤独。

 そして、心にぽっかりと穴が開いて、そこから大切な何かが流れ出てしまったかのような耐えがたい喪失感。

 残滓のように掌に残る体温が、梓の胸を穿つ悲しみを加速させる。


「……お願いだから、僕を置いていかないでよぉ……。もっと、僕を、褒めてよ。笑ってよ……、おかあさん……ッ!」


 必死に堪えていた涙が嗚咽と共に零れ出す。

 涙は梓の頬を流れ(おとがい)から滴り落ち、どこか満足げな表情で眠る母の目蓋に落ちた。

 それはまるで母が流した涙であるかのように、目尻へと溜まり溢れた水滴は頬を伝って流れ落ちて、ベッドのシーツに染みを作る。

 母は最期まで言っていた。


『優しい人になりなさい。本当の意味での優しさを知る、そんな人になりなさい』


 鴻上梓が母の涙を流す姿を見たのは、後にも先にも今日この時が初めてだった。

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