第11話
聖導師がお城にやってきたのは、明くる日の朝でした。
朝露が国を美しく濡らし、小鳥のさえずりが柔らかく包んでいます。
昨夜、一睡も出来ぬまま朝を迎えた王子の目には、くっきりとクマが出来ていて、それがいっそう、王妃の目に邪悪なものに映りました。
「聖導師様、王子を助けてください」
王妃の言葉に聖導師は頷き、寝不足で頭の回らない王子を見つめました。
「なんて、悪い心を持っているのだ」
「悪い心?」
「王子、今すぐにこの聖なる水を飲みなさい。そうすれば、王子の中に巣食う悪い心は、微塵と消え去るでしょう」
悪い心とは、内なる声の事だと王子にはわかりました。だから聖なる水を飲めば、声も消え去る。そう考えた瞬間、内なる声がまた響きました。
『よいのか王子よ』
王子は心配するような声が、胸の奥から聞こえてきました。
『その水を飲めば、確かにワタシは消えるだろう。
だが、それはお前の中にある獣との思い出も消し去ってしまうのだぞ』
王子は嘘だと思いました。
『嘘ではない。その聖なる水は、大事なことを忘れてしまう薬草が入っているのだ。飲めば獣との思い出だけが消えて、お前は何に憎しみを、そして悲しみを感じているのか、それがわからなくなるのだ。胸の痛みの正体がわからないまま、生きていくしかなくなっていくのだ』
「王子、大丈夫です。悪い心を消し去れば、元の優しい王子に戻れるのです」
聖なる水を持つ、王子の手が震えました。優しい笑みを浮かべる聖導師の顔は、何故だが嘘つきの大人の笑みに見えたのです。
そして思います。優しい王子と呼ばれたのは、獣がそばに居てくれたからだと。
獣が王子の心に、優しさを根付かせていたのだと。
王子には、この内なる声が悪い心なのだと、わかっていました。ですが、本当に悪いだけの心なのだろうかと、考えるのです。
「この聖なる水は、本当に悪い心だけを消し去るのですか?」
見上げるように聖導師を見た王子は、そう問いかけます。
「ええ、獣に汚された記憶と心を消し去り、正しく清い心に戻してくれるのです」
記憶が消える。聖導師の言葉は、確かにそう言いました。目の前の聖なる水は、とても澄んだ色で揺れています。それは大切な獣との思い出を、綺麗に消し去るもの。
ヒトと獣が共に歩むことは、出来ないのです。
王子は、もう何も考えたくありませんでした。獣を失った今、これ以上失うものなど、何もないのです。
『それで本当にいいのか?』
声が聞こえました。それはひどく寂しげで、胸が痛くなる声でした。
『大切な獣を失い、その上に記憶まで消し去る人々の中で生きていくのか?』
王子の心の中には、あの日の光景が再び繰り返されました。殺されてしまった獣。それを知ったときの絶望。何かを言いたげに「雨が……」と呟いた獣。あの時、獣のそばにいたならば、失わずに済んだのだろうか。
『本当に悪い心を持っているのは、誰だ?』
三日月の様な目で、何度も胸に言葉のナイフを突き立てた王妃のことを思います。そんな王妃は今、王子のことを、恐ろしいものを見るような目で見ているのです。
『本当に恐ろしいことをしたのは、誰だ?』
王子の手のなかには、いつの間にか、あの果実がありました。
「さあ、水を飲みなさい。さすれば正しき人の道に還れるのだ」
『さあ、果実を食べなさい。さすれば正しい望みが叶えられるのだ』
聖導師と内なる声は、王子を急かすように追い詰めました。
「もう、嫌だ。止めてくれ」
王子は聖杯と果実を振り払うと、城を飛び出しました。
後ろを振り返る事もなく、ただひたすら声から、言い知れない恐怖から逃れるように、町を駆け抜け、森の、深い深い奥へと走り去りました。
駆ける王子を目にした者は、口を揃えてこう言いました。
「まるで、獣ようだった」
丁度その頃、深い深い森の奥、一人の少女が月を見上げていました。
「そう、ようやく来るのね」
風に手を伸ばす少女は、一人静かに頷きました。
その声は、人間にはけして聞こえぬ囁きでした。