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第6章 紅色の月


「やっほ~、小風弟。集計終わった?」


 講義室で集計をしていた選挙監理委員が一斉にこっちを振り向いた。俺の顔を見た後、一拍置いて慌てて周りの投票用紙をかき集めだす。 やっぱ、来たタイミングが悪かったか。


「うわぁっ!?時雨センパイっ!何やってるんですか!?」


 山積みにされた投票用紙の中から見慣れた顔が覗く。生徒会1年の名物双子(もちろん命名は俺)の小風兄弟の片割れだ。生徒会の中の委員会担当になっていた弟クンは慌てて俺を講義室の隅まで引っ張っていく。


「まだ集計終わってないんですよ!っていうか、普通候補者が様子見に来たりしません!」

「いや、氷室も常葉も日和っちゃんもどっか行っちゃうしさ~。暇だったから」


 来てみた、という俺に小風は来ないでください!とつっこむ。俺は慌てて作業しだした委員を見回してふと首を傾げる。


「…そういや弟。兄ちゃんは何処行った?」


 弟は自分と同じ顔を探して後ろを振り向く。するといつの間にか投票用紙の海で溺れている一名を発見。


「おいっ、何やってんだよバカ!」

「ゆ~う~、助け…」


 ごぼごぼ、と埋まっていく同じ顔。マンモス校の桜丘の全生徒の投票用紙だから埋もれてしまうのも分かる。これは結果が出るのは明日かな、と思いつつ俺は結果が見えない隅っこで座っていることにした。

 弟に罵倒されながら、同じ顔の兄貴の方が走ってくる。小風兄弟は同じ顔でも性格はまるで正反対という面白い1年達だ。


「あー、時雨せんぱ~い。お疲れさまです」


 開票してない所をみると、弟に『あっち行って静かにしてろ』とでも言われたのだろうか?…いや、まて、それじゃ俺は兄貴と同レベル?


「お疲れ…やっぱ結果が出んのって明日になるか?」

「うーん…多分そうなりそうです」


 首を傾げるボケ兄貴の方に、俺は耳元でこそっと言う。


「なぁ、いまんとこの俺への信任の票ってどうなって…」

「時雨センパイっ!」


 向こうの方からツッコミ弟の喝が飛んでくる。俺は笑って誤魔化すと、隣の机の上にあった投票用紙に気付いて、兄貴の方の肩を叩く。


「小風兄。…これ、集計しなくていいのか?」

「あ~、これ白紙とか票に入らないヤツなんですよー」

「…こらなら見てもいいよな?」


 多分~、と返答する天然兄貴の答えを聞いて俺は一枚を手に取った。記入の仕方は下に書いてあるはずなのに、どうしても規定以外の書き方をするやつはいるらしい。○で記入するところを鉤でしるしをつけたり。花丸にしたり。


(あ~あ、これ俺の票じゃん…もったいね~。…これもかよ、誰だよ花丸にしたやつは…これも…あ、これは白紙か……あと、これも……?)


 ある一枚を見た俺は一瞬固まった。その後、笑い出しそうになるのを堪えて、口元を押さえる。小風兄弟や委員に見つからないようにその投票用紙をポケットにいれると俺は外へ出る。


「おれ、氷室達探してくるわ。そんじゃ小風、頑張れよ~」

「はーい」

「はい」


 後から聞こえてきた双子の声を確認して、俺は目の前にあった階段を登っていった。





「おいっ、圭っ!」


 珍しく入り口付近にいた圭の姿を見つけたとき、俺は思いっきり扉を開けて叫んだ。もしかしたら口元が笑ってるかもしれない。そう思いながら。


「お前、投票用紙に何書いてるんだよ!」

「ああ、それ?」


 圭はカンバス片手に空を見上げていた。こちらを見なくても何のことだか分かったんだろう。笑いを堪えるようにしながら、圭は答える。


「…ただ普通に書くのは癪だったから」


 俺はもう一度手に持っていた投票用紙を見る。投票は候補者の欄に○を記入するだけの簡単なものだ。なのに、こいつときたら、ご丁寧に自分の名前まで書いたうえに。


『柳谷 時雨 ◎』


「お前なぁ、これじゃあ俺に票入らないんだよ!」


 規定は、○を付けること。たとえそれが◎であったとしても認められない。圭は満足そうな表情でこっちを見る。


「だからやったんだよ」


 そこまでいうと圭も堪えきれなくなったらしく、吹き出した。俺もつられて、腹をかかえて笑い出す。もう暮れだした空が段々と薄暗く、藍色に染まり出す。透明な月が、ゆっくりとその存在を現し始めた。

 俺達はひとしきり笑うと、空を見上げて寝転がった。笑いすぎてひーひー言ってる俺に圭が言う。


「…時雨、信任されそうな感じだったな」

「え!?マジで?」


 はっきり言ってもうステージで何を言ったかさえ覚えていない。緊張しすぎて頭がスパークしていたのかもしれない。変なこと言ってませんように。


「最後の言葉聞いたとき、負けたなって思った」

「最後…ああ、あれ」


 人生長いんだし、これくらいの賭け、しときたいじゃん?


「ってか、あの演説…」

「というより、全部…」


 俺達は顔を見合わせて、また視線を無限の空へ戻す。光を取り戻し始めた月がゆっくりと街を照らし始めていた。


「……クサかった……」


 同じ言葉をハモって、俺達はまた吹き出す。


「だよな、だよなっ。俺もう自分で何言ってたか分からなくなるくらいクサくてさー」

「クサいって分かってるならもっと普通の演説にすればよかっただろ」


 圭も俺も、息が切れるくらい笑っている。


「そんなこと言ったって、考えつかなかったんだよ…あ~、腹いてぇ」


 息を整えて、圭はまた視線を上空へと向けた。


「けどまぁ…賭けに負けたんだから、考えは変えるとするか」


 その横顔に悔しそうな表情は混ざっていなかった。少しくらい悔しそうな顔をしたら皮肉の一つでも言って笑ってやろうと思ってたっていうのに。

 ま、いいか。圭の一票は不信任にはならなかったわけだし。俺は大きく息を吸って、言った。


「さーて、帰るか」


 圭も微笑って頷いた。


「ああ」





 美術室特有のあの絵の具や石膏の臭いが混ざったような空気。顧問も、他の部員達もいなくなった美術室は静かで、そして何処か物悲しい気分にさせる。昼間の校内の喧噪が嘘のように、時折自分がたてる物音にしか余韻を残さない。

 開け放した窓からカーテンを揺らし、入ってくる風が頬に当たって心地よい。俺はパレットに残った油絵の絵の具を混ぜながら最後の仕上げにかかっていた。

水面に反射する月光と、弧を描くように揺れる光の粒子。白とも黄色とも言い難い、特殊な月光を作り出す絵の具。それを今まで書いてきた絵につけたしていく。

 珍しく明るい絵を描いている自分を何度意外に思っただろう。描いているのは今までと同じ夜の風景なのに、何処かが決定的に違うようなそんな気がする。それは月の光が増したのか、それとも白蓮が中心的存在になっているせいか。

 よく有名な画家の絵にはその絵を描いた当時の心境が映し出されているという。自分をそんなたいそうな人間と比べようとは思わないけれど、何処か変わった部分が自分の中にもあるのかもしれない。

ふと静寂に包まれていた校内に一つの足音が響いてきた。明らかに教師の足音ではない、廊下を駆ける音に俺は一息ついて筆を置く。

 室内の時計を見上げると、その短針はいつの間にか6時を差していた。

 途端に入り口から聞き慣れた声が響く。


「圭っ!そろそろ帰ろーぜ」

「ああ。丁度終わったところだし」


 顔を出した時雨に振り返ってそう言うと、俺はさっさと片付けを始めた。物珍しそうに俺のカンバスを覗き込んでいる時雨は、油絵の臭いで眉間に皺を寄せながら首を傾げた。


「…なぁ」


 パレットの絵の具を落として、筆洗を探していた俺にカンバスを指差して時雨は言った。


「…いままで下絵しか見てなかったからかもだけど…なんか色がつくと違うな」

「そりゃあ、下書きは白黒だったし」


 俺が筆を洗っている間に時雨はまた難しそうな顔をしてカンバスを見つめている。だから俺は筆の柄の方で時雨の頭を一発叩いて聞いてみた。


「いでっ」

「そんなに興味あるんなら描いてみればいいじゃんか」


 ようやく1つに結べるくらいの長さになってきた時雨の髪は生徒会長に就任した今でも茶色のままだ。教師に何度か呼び出しをくらっている所を見たけれど、どうやら染め直すつもりはないらしい。

 時雨は頭を押さえ、苦笑いを浮かべた。


「絵だけは勘弁してくれよ、俺、本っ当に下手なんだって」


 筆を仕舞い、室内の片隅に置いてあった自分のバックを拾い上げると、俺は時雨の方を振り向いてこう言った。


「まぁ、そんな感じしてるよ。特に顔が」 

「顔!?」


 窓に鍵をかけ、戸締まりをする。入り口の鍵は警備員か顧問が最後に閉めてくれるはずだ。俺はまだ美術室の中にいる時雨に声を投げる。


「…冗談。前、お前も同じ事言ったろ?そのお返し」

「お前、最近意地悪になったんじゃないか?」


 泣き真似している時雨に俺は微笑ってやった。


「…誰のせいだか。ほら、帰るぞ」


 澄んだ橙色の空が、虚空を彩っていた。南風と共に揺れる、常緑樹達が葉擦れの音を響かせる。東の空はもう、夕闇の気配が覆っていて、そこから夜が街全体を包んでいくのだと知る。

 いつの間にか日課となった時雨との下校。最近は俺も時雨も生徒会で遅いから、下校するのは今くらいの時間だ。俺も時雨も途中まで帰り道が一緒なので、そこまでは2人で歩いていく。

 以前の俺なら、誰かとこうして会話をしながら下校するなんて考えられなかった。よく時雨にも『お前、性格が丸くなったよな』と茶化されたりもする。俺の変化に関して一番驚いていたのは教師達だったらしく、たまに真面目に授業に出てみたりすると目を丸くして驚く。クラスメイトも同じ反応だった。ただし、クラスメイトの場合は机に座っている俺を見て、クラスを間違えたかと確認するくらい。

 教室でも最近会話をすることが増えてきた。何が引き金になったかはよく覚えていないけれど、確か隣の女子が落としたペンを拾ってやった時かもしれない。どうやら俺は今まで冷徹な奴だと思われていたらしく、そのことがきっかけで俺に対する印象は一気に変わったようだ。別に嫌な気分はしないけれど、俺は今まで必要最低限の人間の名前しか覚えたりしない主義だったから、クラスの奴らの名前を覚えられるかどうか、そこがかなり不安だったりする。

 まぁ、自称『人気者・時雨様』に言わせると、


「そうゆう時はなぁ………とにかく相手に合わせとけ!」


 だ、そうだ。…あんまりアテにしない方がいいかもしれない。でも、こうやって少し前向きな考え方が出来るようになってきたのは、こいつのおかげなのかもしれない。

 俺はふとふざけている時雨の顔を見て、そんなことを考えていた。本人は俺がそんな事を考えているなんて全然分かっていないらしく、相変わらずあの意地悪な笑みで今日生徒会であったことを暴露しては楽しんでいる。

 多分こいつとあの屋上で会わなければ、俺はまだ、あのフェンスの向こうで月を眺めていたのかもしれない。


「そういえば、もうすぐ夏休みだよな~」


 ふと時雨が思いついたようにそんな声をあげた。まだ梅雨も越していないのに夏の話をするのは少し気が早いが、休みという言葉には確かに惹かれる。


「圭は何して過ごすんだ?」


 肩まで掛かるようになった茶髪を結び直して、不良生徒会長が不敵な笑みで振り向いた。企んでる。絶対何か企んでる。俺は警戒しつつ、毎年のことを思い出して言った。


「…絵を描くと思うけど?」


 もしかしたら俺は時雨の期待通りの答えを返してしまったのかもしれない。俺の言葉を聞いた時雨はニヤと形容するに相応しい表情を浮かべて、肩を掴んできた。


「健全な男子高校生が夏休みに絵を描くだけなんて非常識!山でも海でもいいからパーっと、行こうぜ!」

「…時雨、目的は?」

「バイトとナンパ!」


 くると思った。俺は呆れて溜息をつきながら、時雨のその脳天気さに脱帽した。


「パーっと、とか言いながら仕事付きだろ?ナンパは1人でやってくれ」

「いや、オプションはついてた方がいいなと…」


 あはは、と笑っている時雨に俺は仕返しとして、現実を突きつけてやった。夏休み、と喜ぶ前にもう1つイベントがある。それもかなり重要で、地獄の…


「…時雨、夏休みの前にテストがあること忘れてないか?」


 ぴた、と笑いが止まる。この分だとテスト勉強なんてこれっぽっちもやっていないようだ。


「…圭。言うなよ、人が忘れようとしてんのに!」


 いつの間にか泣きそうな顔になっている時雨に俺は涼しい顔で連呼してやった。時雨が耳をふさぐ位に。


「テスト、テスト、テスト~」

「言うなっ!」


 こうやって誰かと帰ることも、前の俺なら考えられなかった。死ぬとか、死なないとかそんな複雑な思考を忘れて、笑い合えることも。

 違った生活も、誰かと話をすることの楽しさも知らなかった。

 1人で殻をつくって閉じこもっていたのは、無意味だと思ったからじゃなくて…ただ怖かったんだ。


「お~い、圭。着いたんだけど?」

 いつの間にか、十字路まで来ていた。俺はここで左折して、時雨は真っ直ぐ帰路に就く。歩行者の信号が青になっているのを確認して俺は時雨を振り向いた。


「あ、悪い。ぼーっとしてた。…それじゃ、また明日」

「じゃな」


 今日は珍しく信号で止まる車がない。俺は白線の引かれた横断歩道を歩いていき、ふとこちらに背を向けて歩きだそうとしていた時雨を振り返った。夕焼けの濃いオレンジの光がコンクリートも空と同じ色に染まっている。多分、この風景が全部夕焼けの色に染められているのだと思った。


「…時雨!」

「ん?」 


 振り返ったその表情に俺はふと笑った。言葉も、笑顔も自然に湧き上がってくる。きっとそれはこいつのおかげだと思うから。


『ありがとな』


 時間が止まったような夕暮れの風景。果てしなく遠くに見える月が色を取り戻しながら東の空を昇りつつある。この時俺は車道の音も、街の喧噪も忘れて、たった一言、そう言おうとした。

 けれど、時間が止まったように思えたのはそのせいだけじゃ、なかった。一瞬、時雨の表情が曇った。あの時雨らしい笑顔が瞬間的に消え、持てあましていた鞄が手からすり抜け、地面に叩きつけられた。けれど、それを拾い上げることもせず、時雨はこちらに向かって何かを叫んだ。…叫んでいた。

 首を傾げる俺は、ふと自分の上に突如現れた影にゆっくりと振り向いた。視界の、全てを覆いつくすような、『それ』は何かしらの高音を鳴らしていたようだった。

 風景が一つの絵のように止まっていた。けれど、もしかしたら1ミリずつ動いていたのかもしれない。コマ送りで流れていく一つの時間に、俺はただ立っているしかなかった。榛色に染まった空が、梅雨間の快晴としては出来すぎたほど綺麗に流れていく。きっと、同じ瞬間は2度と訪れないのだろうと心の何処かでそう呟いた。

 視界が完全に遮られる。ふと、開けた風景を探して視線をあいつのいる歩道の方へと戻そうとする。

 その瞬間になって、やっと俺は時雨の叫んでいた言葉を認識した。




「………圭!」



 そしてやっと、世界が通常の流れに引き戻されて見上げた天空はその色を榛から真紅に変え、純白の光を放ちつつあった月も緋色に染まった。衝撃を感じる暇もなく体は熱砂のように熱を帯びて熔けていく。流れ落ちていくものは、自分という存在を作りあげてきた皮膚か、骨か、血か。それともすべてを支えていた『心』だろうか?

 『誰か』の呼び声も、人々の叫び声も何もかも眠りを妨げるものでしかない気がする。ゆっくりと何かに沈んでいくような気分と共に俺は視線だけを空へと向けた。そこにあったのは、何億年も変わることなく虚空に浮かび続ける1つの球体。闇に光を差し、幾度となく世界を照らし続けた、月が儚くも淡い光を放っていた。


   


『ずっと月を見ていた気がする……』



 時を終わらせることなんて簡単にできると、そう思っていた頃も。

 生きなければならないと悟った日も。

 そして…



 死に逝く、今も。





「一応役に立てたかなぁ、留衣ちゃん?」


まるで礼でも請うように口元をつり上げる時雨の表情。私はその馴れ馴れしい言葉遣いを指摘するのは諦め、溜息混じりで上辺だけの礼を呟いた。満足そうな不良生徒会長に私は頭を押さえる。そしてふと視線を先を歩く古巣 圭に向けた。

先程の時雨の言葉で思い出したのか、それともその前に記憶が甦ったのか…。まるで虚像を見つめるような瞳が、廊下の窓から外へと向けられていた。それはまるで生前の彼の様子をそのまま見ているようだった。


(事故死…)


古巣 圭は事故死だった。信号機が変わる直前で横断歩道の真ん中で足を止めた古巣が直進してきたトラックと衝突する形になってしまったらしい。運転手のよそ見運転も、彼が死ぬ原因となった。

 玄関の前まで来て、私は拝借していた来賓用のスリッパをローファーと履き替え、ふらふらと危なっかしい調子で先を歩く幽霊を追いかけようとした。だが、時雨はそんな事におかまいなく、私に問いかける。


「で、一つ質問してもいい?」

「…何?」


 さっさとして欲しい、と目で訴えたつもりだが、気付いただろうか?時雨は笑みを一つ浮かべ、私が一番警戒していた一言を発した。口元に笑みをたたえながらも、笑っていない瞳は真剣で、私は逃げ出すタイミングを完全に失う。


「…圭と留衣ちゃんって知り合いじゃないだろ?」


 一瞬自分の脈の音が聞こえた気がした。肝が冷えるとはこのことだろうか?私は逃げ道を探そうと思考を巡らせつつ、靴のつま先で地面を蹴った。


「…それはイエスとノーだけで答えろという意味に取っていいようね」


 固まった表情をほぐし、勝ち誇った笑みを浮かべて私は答えた。時雨が質問の仕方に間違い、小声で「やべっ」と言ったのを聞いたけれど、私は返答が来る前に先手を打った。


「…そうね、知り合い、というわけじゃないわ」


 負けました、と白旗を揚げている時雨に私はかかとを直しつつもう一言付け加えた。


「悪戯もたいがいにした方がいいと思うけど。…言う気はないようね」


 時雨もばつが悪そうな表情を浮かべ、一つ息をついた。ふと視線を肩越しの外の風景に向けて、そして苦笑する。その瞳は、明らかに先を歩く古栖に向かっていた。


「…『ノーコメント』ってことにしといてくれる?」


 時雨の声は本人に届くこともなく。向こうに見える榛色の空は、もう戻れない過去を再現するかのように一日の最後の光を放ち続けていた。

 私は時雨に別れを告げ、その後を追って足早に歩き出す。時折校内を歩く生徒の視線をかったが、校門を出てしまえばさほど気にならなかった。南風の風が髪を揺らし、頬を撫でて通り過ぎる。

 光を纏って西の空に沈む太陽がいつの間にか曇を巻き込んで、薄暗くなりつつある空に闇を呼ぶ。宵の風景が輪をかけて暗くなっていった。

 夜が来る。この日は漆黒の空の上に光の粒子が散らばることもなく、淡い月の姿も見つけることが出来なかった。

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