第3章 月下、辿る足跡
テストが間近に迫ってくる時期になった。夏休み前の中間テストは生徒達のとって大きな山場である。留衣も例外ではない。
『…暇』
「うるさい」
さっきからこの言葉のやり取りしかしていない気がする。テスト前、ということでいつも以上に勉強している留衣は話し相手もしてくれないのだ。暇だ暇だと呟くたびに留衣の一瞥を受ける。
この体だとすることは限定されてしまう。家にいて出来ることと言えば、部屋の中をウロウロすることか、留衣にテレビをつけてもらってそれを見ることか、CDを聴くことくらいだ。
けれど、俺と留衣の好みは180度違うらしい。何か音楽が聴きたい、といっても留衣の部屋にあるのはヒーリングかクラシックだ。
そんなの聴いてても眠くなるだけなのに。
テレビにもCDにも飽きたら留衣と話をする。最近そうゆう生活が板についてきてしまったから、留衣がテスト勉強を始めてしまうと
暇で暇で仕方ない。
『…暇なんだって』
「テスト勉強中。見て分からないの?」
そりゃあ見れば分かるけど…。俺は口をとがらせた。暇なもんは暇なんだから仕方がない。
『そんなにテスト、テストっていうなら俺が他の奴の答え見て教えるからさ』
ちょっとした冗談のつもりでそう言うと、留衣はふと動かしていた右手を止めた。息をついて、こちらを振り向く。その顔は明らかに呆れたような、そんな表情だった。
「…いい考え、と言いたいところだけど」
『へ?』
シャーペンを片手で回しながら留衣は言った。嫌味もなくさらりと。
「私以上に頭いい人いないから、あのクラス」
そう告げるとまた俺に背を向けて勉強し始めた。あまりにもすっぱり言われたので、俺はただ口をぱくぱくするのみ。
『それじゃあもしかして順位なんてのは…1位、とか?』
ふとノートから顔を上げた留衣は何か考えるようにして口を開いた。
「…それはまだ取ったことがないはずだけど」
『ま、まだって…』
これから取るつもりなんですかと突っ込みを入れたくなったけれど、答えが恐いので止めておいた。シャーペンが机を叩く単調な音がまた響いてくる。俺はつまらなくなってまた窓から外の風景を見つめた。
「雨…か」
梅雨が逆戻りしたかのように激しく降り続ける大雨。雨粒が地面に叩きつけられるのを見ながら、俺はふと空を見上げた。
もう夕刻だというのに暗雲の空には、榛色の雲さえ望めなかった。
☆
中間テストが開始されると、雨音と共に机をシャーペンで叩くいくつもの音が響いた。教室の生徒達が机に向かっている風景。1人だけ窓際で立っていた俺はものすごく違和感を感じていた。これならカンニングし放題だな、なんてことを考えながら留衣の答案を覗き込む。
(…うっわぁぁぁ、留衣の答案、真っ黒…)
真っ黒、というのはこの場合、全問解いているということ。穴が一つもないほど、しっかりと書かれている。しかも現代文ならまだしも数学で。
留衣の周りの生徒達の答案も除いてみると、数日前の留衣の宣言通り、留衣より答えの書けている生徒は全くと言っていい程いなかった。留衣の次くらいに書けている人物といえば、藤堂だろうか?数カ所穴はあるものの、全問解き終えた後、ゆっくりと残りの問題を解き始めた。全く分からないというわけではないらしい。肩まで伸びた髪を耳にかけ、答案を見つめる表情はバスケをしている時と同じ真剣な表情をしていた。
留衣の後ろの島崎に視線を向けると、正反対にこちらは真っ白。まぁ、なんとなく予想はしてたけど。
頭を抱えてうんうん唸り続ける島崎。答えを思い出したときの表情はまるで花が咲いたようだ。さすが小動物。
(けど、留衣でも1位取ったことはないんだよな…)
上には上、というやつだろうか?けれどこのクラスにいないことは確かだ。だって半数以上目が虚ろになってるし。窓の外に視線を向けてため息をついている奴もいる。中には諦めて寝ている奴もいた。
見回りに来た先生がふと時間を見つめる。終了の鐘が鳴る頃には留衣はすっかり答案を真っ黒にして、寝ていた。
☆
「さ~ちゃん、さ~ちゃん!」
答案を集められている間に、さっきまで唸っていた島崎が留衣の肩をつついてきた。振り返る留衣に、小動物は笑顔で言った。
「ね、これからあさっちと図書館で勉強するんだけど、さ~ちゃんもどう?」
礼を終えると、留衣はペンケースにシャーペンを片づけながら呟いた。
「図書館、ね…」
「ご一緒にどうですか?留衣さん」
帰る準備を終えて近づいてきた藤堂の微笑みを受けて、留衣は一瞬俺の顔を見た。
『…?』
けれど留衣はすぐ藤堂達を振り返り、そして言った。
「まぁ、別にいいけど…」
ぱぁ、と島崎の笑顔が全開になる。やった!と大声で叫んで教室中の視線が集まっても、留衣に煩いと怒られ一瞥されても、てへへ、と笑って済ませるこの性格は並じゃない。
「私ね~、分かんない所い~っぱいあったからね、さ~ちゃんに教えてもらおうと思ってたの」
その声に留衣の表情が固まる。隣にいた藤堂は苦笑するのみだ。どうやら島崎は殆どと言っていいほど理解していないらしい。
『る、留衣…明日のテスト教科は?』
そう聞く俺に留衣は視線で島崎の手元を示した。島崎の手の中にあったのは、『英語』の教科書。どうやら島崎はこれの試験範囲を全て教えろ、と言っているらしい。
留衣が固まった意味が、分かった気がした。
「そういえば、もうすぐ夏休みだね~」
階段を足早に駆け下りていく島崎が振り返ってそう言った。その顔は喜びに満ちた表情をしている。餌を貰ったハムスターのようだ。
梅雨の湿った空気のせいで結露している校舎の床を歩きながら留衣はうざったそうに小動物の襟首を掴む。後ろ向きに歩いていた島崎が他の生徒とぶつかりそうになったからだ。
「…英語と日本史が終わればね」
「うー、そうやって現実をつきつけないでよ」
はいはい、と島崎に前を向かせて留衣は歩き出す。藤堂はその横で苦笑しながら玄関で靴を履き替え始めた。
「夏休みが終われば部活ですね、部長」
「うんっ!楽しみ~」
外靴に履き替えて外に出ると、暗雲の浮かぶ灰色の空が広がっていた。どうやら雨は止んだらしい。
「そうだ!さ~ちゃん、バスケ部入るかどうか終業式までに考えといてねっ!」
終業式まで?留衣も俺も首を傾げると、横にいた藤堂が微笑んで言った。
「夏休みになったら部活三昧になりますから。是非夏休み前に入って頂けると嬉しいです」
緩い風に電柱から雨水が落ちてきた。パタ、と地面を打った雨水がどんどん水たまりをつくってきていた。
「夏休みになったら何処に行こうかな~」
留衣に現実逃避を指摘された島崎がまたテストのことを忘れて夏休みの話題を出している。そんな島崎に藤堂は苦笑しながらもこう言った。
「雛さんは今年はどこへ?」
ロリコン悩殺であろう童顔の笑顔を浮かべて雛は藤堂を見返した。
「今年はロンドン~!」
あまりにもきっぱりと言われたその言葉に俺は驚愕していた。
『ろ、ロンドンっ!?』
そう叫んだ俺は留衣に小声で煩い、と叱られた。それでも口をぱくぱくさせて島崎を指差す俺に留衣はため息をつく。
「…あれでも社長令嬢」
『えぇっ!?』
俺はもう留衣に怒られるのも構わずに大声で叫んでしまった。どうせ誰にも聞こえてはいないんだけれど。
こちらの様子に気付きもしない島崎と藤堂は夏休みの計画に盛り上がっている。
「…そういえば、留衣さんはお家に帰られるんですか?」
急に話題を振られて、留衣は視線を島崎達の方に向けた。
「お盆前には帰ってこいって言われてる」
留衣は榊神社の一人娘だと聞いたことがある。家と学校が遠い為、今のアパートに越してきたそうだ。けれど、普通高校生が1人暮らしなんて親は心配じゃないのだろうか?
そういえば、留衣の所で生活し始めて2週間。まだ留衣のことは謎だらけで、知らないことがたくさんある。
「まぁ、お盆過ぎたらすぐアパートの方に帰るけど」
ビル街の間を歩きながら、3人は少し入り組んだ路地へと入っていく。島崎曰く、近道らしい。藤堂も留衣も反論しないところを見ると、迷う心配はなさそうだ。
「それじゃあさ、お盆前に3人で海水浴行こうよ、海水浴」
先を歩いていた島崎が兎のごとく飛び跳ねてきた。留衣と藤堂の腕を引っ張ってキラキラした視線を向ける。それに対し藤堂は微笑みを浮かべ、
「いいですね」
と返し、留衣は面倒臭いといった表情で
「はぁ?」
と言った。
「海までウチの車で送っていくから!ね、行こうよ!」
びったり腕にくっついた島崎を見て、留衣はとうとうため息をついた。頭を押さえて、こう言う。
「…行けばいいんでしょ」
「やったー!!」
ピョンピョン跳ね回る島崎と留衣の様子を苦笑して見つめている藤堂。そんな3人の様子を遠巻きに見ていた俺は進行方向に見えてきた図書館らしき建物に視線を移した。
国道の隣に位置する白を基調とした建物。結構な広さのある駐車場の奥に見えてきた目的地に、島崎が一番に足を踏み入れた。自動ドアが両側に開くと、図書館独特の静けさが体を包んだ。もちろんこの場所に来たこともない俺は周りに並べられた本棚の多さに驚いて足を止めた。最後に歩いてきた留衣が振り向いて首を傾げる。
「…何やってるの」
『えっ、あ、何でも…』
留衣は俺の見つめていた本棚に視線を向け、また首を傾げると俺をおいて先に歩いていった。
『…』
おいていかれてはいけないと留衣の後を追おうとした俺は、もう一度その本棚を見て、そして走り出した。
☆
1階の南側の窓に面した所に机と椅子がいくつか並べられ、留衣達と同じ制服を着た生徒達が数人、テスト勉強に励んでいた。開いている椅子を見つけると留衣が窓際の奥に座り、隣に島崎が腰を下ろした。そして留衣の反対側に藤堂が座る。俺はもちろん立ったまま。
「さ~ちゃん、ここから教えて」
ご機嫌の島崎は満面の笑みを浮かべてリーディングの教科書を取り出す。指差された基本中の基本の構文に留衣は頭を押さえてため息をついた。なにか言いた気な視線を藤堂に送ると彼女は微笑んで告げた。
「ついこの間まで練習試合で忙しかったものですから」
「?」
2人の目線での会話に入れない小動物がリスの如く首を傾げた。留衣はまたため息をついて、島崎を見やる。
「…雛。この文章の訳は?」
「わかんない」
「…。この単語の意味は?」
「わかんな~い」
「……文章の初めは?」
「述語っ」
どうやら国語と英語の違いからして分かっていない島崎に留衣は軽蔑の視線を投げかける。そんな2人の反対側で対岸の火事を決め込んだ藤堂はノートに向かって熱心に文法を書き込んでいる。
留衣と島崎の格闘を眺めていた俺はふと先程足を止めた本棚の所を見つめていた。何気なく足を止めたけれど、あの棚に置いてあったあの本って…。すっかり意識がそっちの方に行っていた俺を連れ戻したのは、急に顔を上げた藤堂の声だった。
「そういえば部長。夏休みの部活予定表を提出して欲しいって先生が言ってましたよ」
「……あっ、忘れてたー!」
煩いと留衣の目が訴えているのにも構わず、島崎はそう叫んで周囲の視線をくらった。けど本人は気付いているのかいないのか。そんな島崎部長に藤堂は一枚のメモを差し出す。きっちりとした字で書かれた日時と時間帯、練習メニュー…。
「一応、仮の予定表は立てておきました」
「わぁ!ありがと、あさっち!」
呆れ顔の留衣の隣で島崎が感謝の視線を藤堂に向けている。俺も何気なくそれを覗き込むと、そこには練習メニューの他にも各高校との練習試合の日程が書き記されていた。
ふと、そのメモを見た留衣が顔を上げる。
「…藤堂。1つ聞きたいことがあるんだけど」
留衣の発言に藤堂が首を傾げる。俺もなんとなく藤堂の横に来て、留衣の言葉を待った。
「…桜丘の場所、教えてほしいんだけど」
『!』
メモに目を通していた島崎も顔を上げる。
「桜丘って、この間試合したとこ?」
「そう」
頷く留衣。けれど突然の発言に俺はただ留衣の顔を見つめているしかなかった。確かに調べてみるとは言っていたけど、こんなに早くだとは思ってもみなかった。
顔を見合わせた島崎と藤堂。まだ心の準備さえ出来ていない俺に留衣は一瞬だけ視線を向けて、2人の反応を伺う。
先に口を開いたのは藤堂だった。
「…桜丘高校は確か、最寄りの駅の裏から真っ直ぐにいった所だったと思いますけど」
「最寄りの駅はたしか~、泉西駅だったよね」
駅の名前を聞いて、留衣は俺に確認するかのようにこちらを見た。けれど、全く覚えがない。首を横に振る俺に留衣は顔をしかめた。
「けど、さ~ちゃん、何しに行くの?」
「ちょっと、ね……」
曖昧な留衣のその答えには明らかに桜丘に行くという意志が混じっているように思えた。俺は頭を抱える。透けている足下が急に覚束無くなったような感覚がした。留衣はきっと、心の準備が出来ていないとか言い訳する暇さえ与えてくれないだろう。
妙に緊張するような、恐いような、そんな複雑な気持ちを抱えて、俺は窓から空を見上げた。夕焼けに染まった空に浮かぶ自由奔放な白い雲がやけに恨めしく思えた。
☆
真っ赤な空の下だった。
誰かの呼ぶ声が鼓膜を破るくらい大きく響いた。
全身が熱くなって、溶けていく……そんな気分だった。虚ろな目が見上げた夕焼けの空はいつのまにか榛から赤く変わって、熱砂の砂漠のように熱かった。
熱すぎて、痛かった。
(……痛み?)
体を揺する誰かの手。けれど徐々に視界は狭まり、喧噪も遠く、意識もその働きを鈍らせ始める。まるで眠る時のような、そんな感じだった。
「…おいっ!返事しろよ…答えてくれよ、圭っ!」
やけに煩い声。眠りにつこうとしている自分を無理矢理叩き起こそうとしている『誰か』。……静かにして欲しい。もう少しで寝れるのに……。
視界には何故かそいつの顔が入ってこなかった。俺は狭まってくる視界の中で、最後に空を見上げていた。
真紅に染まった空の、透明な月が見えた。




