多重力世界に於ける穏やかな眠り
眠れない夜は、人の温もりが恋しくなる。暗い部屋の中、柔らかな布団に包まれていると、そこはまるで自分しかいない宇宙のようで、寂しさに心が寒くなる。けれど、私にはこういう時にそっと慰めてくれる恋人も、夜半に根気よく付き合ってくれる友人だって居ないから、その寒さは芯から侵食して、いつか私は氷像か何かになり果てるのだと突き付けられた気分になる。だから、私はこういう気持ちに駆られたとき、机の引き出しに忍ばせたカッターナイフを取り出して、それを手首に押し込むようにしていた。そうすれば自分の中を巡る、自分の一部だった血液が、どろりぽたぽたと私とは関係ないところで動き回り、その熱が冷えた心を温やかに暖めてくれるのだ。今日もそうした。
「あれ」
そして、半分が眠気にやられていた脳が、その光景に覚醒する。いつもそのまま手首を肘に至るまでゆっくりと撫でるか、その場で重力に従って床に滴るかする血液は、中空で踊るように漂っていた。まじまじと見つめるけれど、それが落ちる気配はまるでない。
パシャリ、写真を撮って、それから部屋の中を見渡せば、その現象は血液だけに起こっているのではなくて、幾つかの物体が同じようにふらふらと酔っ払いが千鳥足で歩くのよりもずっと頼りなさげに浮いていた。
そう、浮かんでいるのだ。
「なんで!?」
私はよもや、本当に自分が宇宙に来たのではないかとそう疑った。テレビで見るSF映画の、宇宙ステーションの景色と目の前の光景が着実に重なって行く。
さっきの写真をSNSに上げようとしていた手がピタリと止まる。既にアップロードが開始されたその画像は、しかしぐるぐると回るとやがて通信エラーの表記に変わった。スマホは圏外となっていた。
ただそれはずっとそうという訳ではなくて、何度が更新を繰り返していれば、同じような現象は日本中で起きていることがわかった。或いは海外でもそうであるようだったけれど、中には起きていない地域もあって、私にはその関連が分からなかった。ただ、日本人の多くはSNSにその旨を呟くなりしていたので、それがわかった。
翌日の仕事は自宅待機となった。朝早くからメッセージが届いていて、それはとにかく送信できることを優先したのか、その意図のほとんどが不鮮明な簡素なものとなっていて、逆に読み解くのに時間がかかるほどの出来栄えをしていた。けれどまぁ、考えてみれば、仕事のほとんどがデジタル化している以上はそんな連絡しか寄越せない時点でお偉方以外の勤務なんてあってないようなものになるのも当然の帰結ではあったわけで。
「なんだか損した」
私の食生活は、気分で決まる。こういう時は甘いものを食べるのが常だった。だから私は、食べ物というものを日頃から常備していない。食べたいものを食べたい時に買ってきて、或いはデリバリーサービスを使うこともあったけれど、とにかくそういう風にして生きてきたので、食糧事情は壊滅的なものになっていた。念の為にと覗いた冷蔵庫の中には古くなって酢としての価値しか無くなったワインボトルと、それから賞味期限が間近に迫った卵、そしてこちらは軒並み賞味期限を切らした調味料があるだけで、甘いものはやはりどこにも見当たらなかった。
自宅待機を命じられていたけれど、仕方が無いので私はスウェットに着替えて部屋を出た。その歩みはなんだか浮き足立っていた。仕方がなかった。
街中の様子は、思っていたほどの変化はなくて、私と同じように休みになった会社もあるのだろうけれど、そうでない会社も沢山あるのか、スーツ姿で歩く人の姿を幾つか見つけて、その度になんだか後ろめたくさせられた。ただ、それと同時に、私の職場が意外とホワイトカラーであったことに嬉しくなって、律儀な私は忠誠心を芽生えさせた。たぶんすぐに水をやるのを忘れて枯らすのは、言わぬが花だろうけれど。
とはいえ、そうして歩く街並みは、何も変わっていない訳でもないことに気付いた。それは例えばどこかのお店が出しているお店の名前が縫われたポリエチレンの旗の揺れ方だったり、はたまた時折見かける人々の顔に映る困惑と苛立ち、そしてそれらで隠しきれない高揚の色が、白いキャンパスに薄らとした染みを着けるような変化だった。
いくつかのコンビニを巡れば、いくつ目かで開いている店を見つけることが出来た。コンビニの自動ドアは普通に自動で開閉して私を店内へと誘ったので、私は目をぱちくりとさせて店員さんに間抜け面を晒すこととなった。店員さんはもうそんな光景も見慣れたのか、レジ奥からちらりと私を見ると「いらっしゃいませー!」と元気に挨拶をして、それからうんざりとした様子で椅子にもたれかかった。私はなんだか恥ずかしくなってそそくさと店内に駆け込み、機械のすべてがまったくもって使えなくなっているのではないのだと思いいたったことで、そもそもスマホだって圏外と5Gとを行ったり来たりしているだけなので、つまり電波的な問題なのだと合点がいった。それならこの不便さも、それほど問題ではないように思えた。
商品棚はそのほとんどが閑散としていて、ちょっとえっちな雑誌も含めて須らくが消えている。けれどそれが店員さんの怠慢ではないことを示すように、今朝入荷したばかりだろうマガジンなんかはきっちりと数が揃って置かれていた。
私は店内を歩いて回り、冷凍品売場の奥底で眠っていたカチコチの雪見だいふくと、それからかろうじて残っていた揚げ物の類を買うと、イートインスペースは使わないと言った手前入りにくくて、そのまま帰路についた。電子決済はさすがに使えなくて、だから財布の中身が悲しいことになったのを、レシートを詰めて誤魔化した。せめて最後の諭吉を使えば、もう少し財布の中が賑やかになるはずで、失敗だった。
道すがら、普段は通わないような遠くのコンビニまで来てしまったからか、アイスが溶けだして、近くに廃れた公園があったので、そこでパッケージを開くと、蕩けるようになった白いモチモチに竹串を模したプラスチックをぶさりとやった私は、それを空に翳して、ぱくりと食んだ。それでどろりと中から甘いミルクが溢れて私に幸せをもたらした。
雪見だいふくがふたつあるのは、この幸せを一度ではおわらせないために違いなかった。今までなら、それで良かった。
皮の切れ端がふわりと空に浮かび、逃げ出した。それを「あっ!」と目で追えば、青空に白い満月が浮かび上がり、その月の一部からまるでたんこぶか何かのようにぷっくりと腫れ上がる出来物が見て取れた。
この未来を予見して雪見だいふくはふたつあったのだ。
「なにあれ」
そんな現実逃避も長くは続かなくて、私はポケットからスマホを抜き取ると、通信エラーに苛立ちながらもSNSに齧り付けば、それはやはり私の見間違えでもなんでもなくて、世界中で見られる現象らしく、昨日の夜から唐突に始まったなにかの原因がそこにあるのは明らかだった。とはいえ、その解明はお偉方に任せるしかないので、私はその事実をそっと胸の奥に沈殿させた。その頃にはもう、片割れとなった雪見だいふくは完全に溶けきっていて、容器から直接吸い出すようにして食べる羽目になった。雪見だいふくの醍醐味の半分は消失していた。
そんな日々が3日も続けばインフラもある程度の改善がなされ、残念なことに仕事も再開見込みがたってきたとの通達があった。それはオフラインでできるゲームなんてものを普段からスマホに入れていなかった私が、ジャンクショップで買ったPSPでモンハンだかファイナルファンタジーだかをしていると、ボタンが反応しなくて発狂しそうになったタイミングでの出来事で、それのお陰でスマホの電波が復活していることを知れたことを思えば、許せなくもなかったので、私は了解の意を示す返信をした。
「これで休暇も終わりかー」
私は嬉々としてこの3日間の異常をSNSで共有し、ベッドに倒れ込むと、眠りについた。そういえば、あの日から眠れない夜がなかった。どれだけ布団の中で宇宙に放り出されようとも、重力が曖昧になったこの地球もまた紛れも無い宇宙空間のように感ぜられて、寂しさを覚えることがなくなっていた。




