第九話 はじめての先生のお仕事
しばらくすると遠くから鐘の音が聞こえた。これがチャイム代わりだろうか。それから程なくしてナターシャが保健室に戻ってきた。
「ニグリスの授業が始まったわよ。校舎二階の二年一組。顔出して見たら?」
確かにいつまでもここにいるわけにもいかない。
「わかった、ありがと」
ナターシャにお礼を言って席を立った。リプロートがチラッと私を見たがすぐにまた教科書に視線を落とした。
私はそのまま保健室を出て二階へと進む。外では体育の授業だろうか。子供たちの元気な声が聞こえてくる。
二年一組。探していた教室を見つけて私はそっと後ろの扉を開いた。
「漢数字の『四』はこれまでと違って少し難しいよ」
ニグリスの声が聞こえてきて私は静かに教室に入った。後ろの席の数人は私の存在に気がついてチラチラと見ているが、他の大部分の生徒は前に設置された大きな紙に文字を書くニグリスをじっと見ていた。初等科の授業と言えば日本で言うところの小学校というところだろうか。立ち歩く生徒がいたりお喋りする生徒がいるものだと思ったが、まったくそんなことはなく静かな教室だ。
生徒はやはり先程会ったリプロートより遥かに幼い。身体も小柄だし顔も幼い。
二グリスは紙に大きく「四」と書いて振り返った。
「今までは横線が増えてきただけだったけれど、この『四』という漢字は……あ!佳菜!」
二グリスは私に気がつくと嬉しそうに声を上げた。生徒の視線が私に向けられる。せっかく授業の邪魔をしないように静かに教室に入ってきたというのにこの男は……
「みんな、紹介するね!この人は佳菜。日本から召喚されてきた日本人です!」
教室内が一気にざわめく。
「日本人!?」
「嘘でしょ?」
「召喚されて来たの!?」
みんな思い思いに言葉を口にしている。私に向けられる目には悪意はなく、好機の色を帯びている。
「これから時々授業に参加して日本語や日本文化を教えてくれます!よろしくね」
まばらに拍手が起こった。私は一応頭を下げる。こんな若い子供達に混じるなんて初めてだ……
「それじゃあ続き。授業を進めるね」
子供達は私のことを気にしてチラチラ見たりヒソヒソと話したりしながらも、ちゃんとニグリスの声に従って身体を前に戻した。
「じゃあ漢数字の『四』書いてみよう!」
子供達はペンを持って机の上のノートに文字を書きはじめた。その間にニグリスが私のところへ来て耳打ちした。
「自由に見て回っていいからね。何か指摘することがあればしてくれていいから」
「……うん」
一応頷いてはみたものの何をしたらいいのやら。私はとりあえず子供達のノートを覗きに回った。見ると、四を書いてはいるものの書き順がおかしい。どの子供も一様に周りの四角を一筆で書いてから中を埋めている。そのせいで四角が丸っぽくなり、歪な文字になってしまっている子供もいる。
「ちょっと、ニグリス」
私は反対側を歩くニグリスのところに近寄って小声で声をかけた。
「書き順間違ってる子、多すぎるんだけど」
「……かきじゅん?」
二グリスは目をくりっとさせて聞き返してきた。まさか書き順という概念はないのだろうか。改めて良く見るとニグリスの書いたお手本のはずの「四」の四角も止めて書かれた様子はない。
「まぁ別にこのままでもわかればいいんだけど、日本には書き順ってものがあってね」
「そうなの?」
二グリスは驚いた顔をして私を見て、その後教室を見渡した。
「みんな!佳菜先生が『かきじゅん』について教えてくれるって!」
子供達はみんな顔を上げて私を見た。生徒に教えるなんて一言も言ってないんだけど……
でも、もうニグリスも含めてみんなの興味は『かきじゅん』に向けられている。仕方ないか。
私は前まで行って紙の前に立った。
「別に漢字なんて通じればいいんだけど、日本には一応『書き順』というものがあります。書き順を守ることで綺麗な字が書けるからっていうのがその理由なんだけど……」
私はペンを取った。
「例えば今みんなが書いている『四』書き順を守らずに書くと……」
私はみんながそうしていたように外側の四角を一筆で書いてみた。
「こんな風に外側がどうしても丸くなってしまったり歪になってしまいます。そこを書き順を守って書いてみます」
私は正しい書き順で『四』を書いた。
「そうするとこんな風に綺麗な四角が書けます」
「おぉ~」
ニグリスも含めて教室のみんなから歓声が上がった。
「さっきも言ったけど漢字なんて伝わればなんでも良いと思うけど、文字を書き慣れてきた時に書き順を守れていたら多少雑に書いても乱れが少ない気がします」
私はそう言ってペンを置いた。
「……以上、なんだけど」
助けを求めるようにニグリスを見ると顔を輝かせてこちらを見ていた。
「すごい、すごいよ佳菜!ちょっともう一度『四』の書き順を教えて!?」
私は頷いて、小学校のドリルにあったように一角ずつ紙に書いてみせた。こうすれば何度も同じことを聞かれるのを防げる。
「『四』の書き順はこうです」
子供達も目を輝かせて私の書いた文字をノートに写していた。これでよかったのかな。
その後、私は次の鐘が鳴るまで漢数字の書き順を教えたのだった。