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残念なことに、美瑠の不安は当たっていた。
栞の家で美瑠を出迎えた母親は、頭に包帯を巻き、暗く疲れきった表情をしていた。
家の中はといえば、壁に数ヵ所穴が開き、床には何枚もの割れた皿が落ちている。
誰の、いや何の仕業かは明白だった。
栞の部屋の前に案内され、美瑠は部屋のドアをノックした。
「栞先輩、美瑠です。大丈夫ですか?」
しばらくして、かろうじて聞き取れるほどの小さな声で栞が答えた。
「美瑠さん……、来てくれたんですね……」
美瑠がドアノブに手をかけると、ドアには鍵がかかっている。
「先輩、ドア、開けてください。私、そっちへ……」
「だめ……! 来ちゃ……だめです……」
「栞先輩……、なんで……」
「私の『腕』、はじめは、困ったときに助けてくれる味方だと思ってた……。でも、ママが私に小言を言ったときに、いきなり現れて、ママを……」
美瑠が栞の母親を遠慮がちに振り返ると、うつむいていた彼女は小さくうなずいた。
「よくわかってない弟が私を責めたときも、止める暇もなかった……。弟は……、今、骨折して病院にいるの……」
「そんな……」
想像以上の深刻な事態に美瑠は言葉を失った。
「その後も、『腕』はすぐ消えてくれなくて、家の中をメチャクチャにしちゃった……。私、わかるの……、この『腕』がもっと、もっと暴れたがってるって……」
ドアの向こうで、栞が泣いているのが美瑠にもわかった。
「だから……、美瑠さんは、こっち来ちゃ、だめです……」
ドアにもたれるようにして話を聞いていた美瑠は、栞の忠告に思わず後ずさりした。
「それだけじゃ、ないんです……」
不意に、栞の母親が口を開き、美瑠は彼女のほうを向いた。
「え……?」
「このままだと、あの子の命も、危ないの……」
そう言って、栞の母親はハンカチで目元にあふれる涙をぬぐった。
目の前で苦しんでいる二人に対し、ただ話を聞くことしかできない美瑠は、自分の無力さが悔しかった。
「お兄ちゃん……」
ついさっきは心に思い浮かべたことすら後悔した美瑠だが、今はその兄が一刻も早く現れることを心の底から願っていた。
◇
美瑠に遅れて栞の家に到着した礼は、ひとまず立ち止まり、用意したものがスマホと共に上着のポケットに入っていることを確認した。
「あいつら、予想以上に使えるな」
この日のために用意したものも、そして今日の退魔プランも、すべてオカルトコミュの面々から入手した情報がもとだ。
礼は自分の立てた事業計画が、思いのほか上手くいっていることに満足してほくそえんだ。
「君、すまない」
声をかけられて礼が振り向く。
彼のすぐ後ろに、全く気づかないうちに若い女性が立っていた。
いつの間に近づき、背後に立ったのか、だがそんなことは礼にとってどうでもいいことだった。
なぜならその女性はとてもきれいだったからだ。
年のころは二十歳前後か、黒のロングコートの下は動きやすそうな格好をしており、プロポーションの良さが見てとれた。長身でスリムな体型ながら、その肉体はとてもしなやかそうだ。
かすかに動くたびにさらさらと揺れる美しい黒髪の間から、冷たく澄んだ瞳がじっと礼を見つめていた。
「この家に用事があるのか?」
続けて彼女が質問する。彼女の瞳と同じように、冷たく澄んだ声だった。
「はいはい、ありますよ~。そういうあなたは、栞さんのお姉さんですか?」
彼女とは正反対の、明るくだらしない声で礼が答える。
「この家とは関係ない。……では、もうひとつ聞きたい」
と言って彼女は改めて礼を見た。
その男は、まるで興奮した犬のようにハッハッと息を荒らげ、デレデレした顔で自分を見つめている……。
これでは期待する答えは得られないだろうと半分諦めながら、彼女は次の質問をした。
「カラスを見なかったか?」
「は? カラス……? ああ、カラスね。いやあ最近確かに見なくなりましたねえ。お姉さんは動物愛護協会の方? それとも、黒い服を来てるから、カラスマニアの方かな?」
「……」
「奇遇ですねえ! 実は僕も鳥の中ではカラスが一番好きなんですよ! いや、動物の中でも一番かなあ」
彼女は礼の目も気にせずに、堂々とため息をつくと、ちらと礼を見やって言った。
「この家に用があるのではないのか?」
「え? ああ! そうでしたね、僕もう行かないと……。いやあ、残念だなあ。じゃあ、カラスを見たらすぐ知らせるから、連絡先を教えてくれるかな?」
と言って、礼が上着のポケットにあるスマホを取り出すために視線をはずした瞬間……
シャン
という金属音がして、礼が顔をあげた時には彼女はすでにその場から消えていた。
「へ?」
驚いた礼が道路に出て辺りを見回すが、辺りに人影はなかった。
「……。ヘンなナンパだな……。でも、いい女だったな~」
彼女の冷たく澄んだ瞳を思いだし、ニヤニヤしながら園田家の玄関に向かうと、礼はチャイムを押して、家の中に入っていった。
◇
ピンポーン
「こんにちはー、退魔師の末堂礼です~」
玄関の鍵が開いていることに気づいた礼は、それだけ言うとズカズカと家の中に入り込んだ。
誰も出てこないのをいいことに勝手に階段を上がった礼は、そこで美瑠と栞の母親と顔を合わせることになった。
「お兄ちゃ……ん?」
待ちわびたはずの兄の登場だったが、美瑠の期待に反してその顔はヘラヘラと、だらしなく、ニヤけきっていた。
「いや~、そこできれいな女の子に声かけられちゃってさあ~。やっぱりいい女にはいい男ってのがわかるんだろうな~。あ、栞ちゃんは? このドアの中? 園田さ~ん、退魔プランはバッチリですから、安心してくださいね~」
礼のあまりに場違いなテンションに、美瑠はしばらくの間、あっけにとられて動けずにいた。
栞の母親もポカンと口を開けたまま礼を見ている。
「お兄ちゃん、ここ来るとき、家の中見てこなかったの?」
「へ? なんかあったっけ?」
「じゃあ、栞先輩のお母さんのケガは……」
「あ、お母さん、頭どうしたんですか? タンスの角にでもぶつけました?」
礼のあまりにマヌケな答えに、美瑠は怒りでわなわなと震えだした。
「このバカ兄貴は~~~」
そこには、自分の無力さを嘆き、弱気になっていた美瑠はもういなかった。
「ふざけたこと言ってないで……」
栞の部屋のドアをバン!と叩いて美瑠が言う。
「さっさと中に入って、栞先輩を助けてあげてよ!」