第8話 領民流出
第8話 領民流出
冬は容赦なく領地を覆っていた。
灰色の空。
凍った畑。
冷たい風。
かつて賑わっていたバルトロメウス領の市場も、今は人影がまばらだった。
パン屋の前に並ぶ人々の顔は暗い。
焼きたての黒パンから香ばしい匂いは漂う。
だが笑顔はない。
店主が値札を書き換える。
また値上げだった。
「勘弁してくれよ……」
農夫の男が肩を落とした。
「今月で三回目だぞ」
「私だって好きでやってるんじゃない」
店主は疲れ切った顔で言う。
「小麦が高すぎるんだ」
「これでも赤字なんだよ」
後ろに並んでいた母親が幼い娘の手を握った。
娘は小さく尋ねる。
「お母さん、今日はお肉ある?」
母親は笑おうとした。
だが笑えなかった。
「今日はスープだけね」
少女は黙って頷く。
その様子を見ていた老人がため息をついた。
生活が苦しくなっていた。
誰の目にも明らかだった。
同じ頃。
伯爵邸では会議が行われていた。
しかし会議室に漂う空気は重い。
暖炉の火は燃えている。
だが誰も暖かさを感じていなかった。
レナードが机を叩く。
「税収が足りない!」
役人たちはうつむいた。
「申し訳ございません」
「謝って済む問題か!」
レナードの目の前には報告書が並んでいる。
税収減少。
人口減少。
商人減少。
職人減少。
数字はどれも赤字だった。
ガルドが静かに言う。
「増税しかありません」
レナードは顔をしかめた。
「増税だと?」
「はい」
「今でも苦しいのに?」
「他に方法がありません」
沈黙が落ちる。
やがてレナードは苦々しく言った。
「やれ」
その決定は瞬く間に領内へ広がった。
税金が上がる。
すると今度は商人たちがさらに去る。
職人も去る。
農民も去る。
仕事が減る。
税収が減る。
だからまた税金が上がる。
悪循環だった。
そして人々は気づき始める。
この領地に未来はない。
ある日。
領都の南門。
荷車が何台も並んでいた。
荷物を積み込む人々。
毛布。
衣服。
鍋。
家具。
家族の思い出。
全てを荷車に載せている。
門番が驚いた。
「どこへ行くんだ?」
農夫の男が答える。
「移住だ」
「移住?」
「隣領へな」
「本気か?」
男は頷いた。
「子どもを飢えさせたくない」
その隣では若い職人夫婦が荷物をまとめていた。
妻が言う。
「本当に大丈夫かな」
夫は苦笑した。
「大丈夫だ」
「向こうは仕事がある」
「住宅も用意されてる」
「給料も今より高い」
妻は驚く。
「そんな場所あるの?」
夫は答えた。
「メルカトル商会の新都市だよ」
その名を聞いた瞬間、周囲の人々もざわつく。
最近話題になっていた。
新しい商業都市。
新しい工房。
新しい市場。
学校。
診療所。
職人街。
交易拠点。
そして安定した仕事。
誰が作ったか。
皆知っている。
アルティナだった。
その頃。
王都から少し離れた新都市では。
真新しい石造りの建物が並んでいた。
煙突から煙が上がる。
工房では金槌の音。
市場では威勢のいい声。
焼きたてのパンの香り。
煮込み料理の湯気。
人々の笑顔。
活気があった。
アルティナは建設中の広場を歩いていた。
厚手のコートに身を包み、革手袋をしている。
隣にはセドリック。
「今日だけで百二十人だ」
「移住者ですか」
「ああ」
アルティナは遠くを見る。
家族連れが荷車を引いている。
老人を支える若者。
子どもを抱く母親。
皆、不安そうだった。
だが目の奥には希望があった。
アルティナは小さく呟く。
「仕事を用意してください」
「もちろんだ」
「住居も」
「手配済み」
セドリックは笑う。
「本当に容赦ないな」
「何がですか」
「救う時も徹底的だ」
アルティナは答えなかった。
ただ移住者たちを見つめていた。
一方。
バルトロメウス伯爵邸では別の騒ぎが起きていた。
ミレーヌが執務室に呼ばれていた。
目の前には借金の一覧表。
金貨の数字が並んでいる。
最初は笑っていた。
だが途中で顔色が変わった。
「これ……」
「何かの間違いでしょう?」
レナードは疲れた顔をしている。
「間違いじゃない」
「でも」
「全部本物だ」
ミレーヌは震える手で紙をめくった。
宝石代。
馬車代。
晩餐会費用。
衣装代。
利息。
違約金。
数字が並ぶ。
恐ろしいほどの数字だった。
「返せるの?」
彼女は小さく聞いた。
レナードは答えない。
答えられない。
その沈黙だけで十分だった。
その夜。
ミレーヌは眠れなかった。
窓の外では雪が降っている。
彼女は震えながら考えた。
借金。
破産。
没落。
貧乏。
嫌だった。
絶対に嫌だった。
翌朝。
侍女が部屋を訪れる。
だがミレーヌはいなかった。
衣装も。
宝石も。
現金も。
全て持ち出されていた。
机の上には一枚の手紙だけ。
『ごめんなさい』
それだけだった。
レナードは呆然と立ち尽くした。
外では雪が降り続いている。
領民は去る。
商人も去る。
婚約者も去る。
残るのは借金だけ。
窓の外の白い景色は静かだった。
だが数字だけは静かではなかった。
人口減少。
税収減少。
生産減少。
その全てが、破滅へ向かう速度をさらに速めていたのである。




