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第6話 実務崩壊

第6話 実務崩壊


冬の最初の雪が降った朝だった。


領都の屋根は白く染まり、人々は肩をすぼめながら通りを急いでいた。


しかし寒さ以上に、人々の心を冷やしているものがあった。


混乱だった。


伯爵邸の執務棟では朝から怒号が飛び交っている。


「帳簿が合いません!」


「税の記録がありません!」


「去年の資料はどこですか!」


書類が積み上がった机。


散乱する羊皮紙。


床に落ちた帳簿。


インクの匂いが充満する部屋で若い事務官たちが右往左往していた。


レナードは頭を抱える。


「何を騒いでいる!」


若い職員が青ざめた顔で振り返った。


「だ、旦那様!」


「税収記録が見つかりません!」


「探せ!」


「探してます!」


「なら早く見つけろ!」


怒鳴られた職員は泣きそうな顔になった。


その時、ガルド執事が静かに言った。


「ありません」


「何?」


「先月退職した税務官が管理していました」


レナードは固まった。


「退職?」


「はい」


「三十年勤めたベネット税務官です」


レナードは思い出した。


白髪の老人だった。


いつも帳簿を抱えていた。


地味で目立たない男。


存在すら意識したことがなかった。


「代わりは?」


「おりません」


「何故だ!」


ガルドは答えた。


「アルティナ様が引き抜かれました」


レナードの顔が歪む。


まただ。


またアルティナだった。


その頃、領内各地ではさらに深刻な問題が起きていた。


農村の税務所。


農夫のハンスが怒鳴っていた。


「待て!」


「俺は先月払ったぞ!」


若い役人は困惑している。


「記録がありません」


「払った!」


「ですが帳簿に……」


「だから払ったんだ!」


周囲の農民たちもざわつく。


同じだった。


あちこちで二重徴収が起きていた。


税を払った記録が消えている。


誰も確認できない。


誰も整理できない。


アルティナが整備した管理体制は、彼女が去った後ほとんど維持されていなかった。


結果だけが残る。


混乱という結果だけが。


一方。


領都北部の倉庫。


管理人の老人が真っ青な顔で棚を見つめていた。


「おかしい」


彼は何度も帳簿を確認する。


小麦二百袋。


そう書いてある。


だが現実には百二十袋しかない。


「四十でも五十でもない……」


「八十袋も足りない?」


部下も青ざめる。


「盗難でしょうか」


「こんな大量に?」


老人は首を振った。


以前ならありえなかった。


毎週在庫確認。


毎月監査。


四半期ごとの棚卸し。


アルティナが徹底していたからだ。


しかし今は違う。


半年近く誰も監査していない。


盗まれても気づかない。


間違っても気づかない。


消えても気づかない。


そして気づいた時にはもう遅い。


午後になると、さらに問題が起きた。


領内南部の街道工事。


工事責任者が役所へ怒鳴り込んでくる。


「支払いがおかしい!」


役人が首を傾げた。


「何がです?」


「三回も振り込まれている!」


「は?」


書類を確認する。


確かに同じ工事費が三重計上されていた。


責任者は頭を抱える。


「返せと言われても困る!」


「もう資材を買ったぞ!」


役人たちも顔を見合わせる。


誰が承認したのか分からない。


誰が入力したのか分からない。


誰が確認するのかも分からない。


まるで歯車が外れた時計だった。


夕方。


伯爵邸の会議室。


レナードは疲れ切っていた。


目の下には隈ができている。


机の上には苦情の山。


税金。


倉庫。


道路。


工事。


支払い。


盗難。


どれも問題ばかりだった。


「何故こうなる……」


彼は呟く。


ミレーヌが不安そうに尋ねた。


「そんなに大変なの?」


「大変だ!」


レナードは思わず声を荒げた。


ミレーヌが怯える。


レナードは舌打ちした。


「すまない」


だが余裕がなかった。


彼女は小さな声で言う。


「でも、帳簿係を雇えばいいのでは?」


「雇えない」


「どうして?」


ガルドが答える。


「皆、王都へ行きました」


「王都?」


「メルカトル商会です」


ミレーヌも黙った。


王都。


アルティナ。


その名前が出るたびに空気が重くなる。


同じ頃。


王都のメルカトル商会本館では。


大広間に温かな灯りがともっていた。


夕食の時間だった。


鴨肉のロースト。


焼きたてのパン。


魚介のスープ。


香辛料の効いた煮込み料理。


窓の外では雪が静かに舞っている。


セドリックが笑う。


「面白いな」


「何がですか?」


アルティナが尋ねる。


兄は報告書を見せた。


「応募者だ」


「応募者?」


「元バルトロメウス領の職員たち」


アルティナは目を通す。


税務官。


帳簿係。


倉庫管理人。


監査補佐官。


見覚えのある名前ばかりだった。


彼らは皆、有能だった。


そして有能だからこそ、自分の未来を理解していた。


沈みゆく船から降りたのだ。


セドリックは笑う。


「全員採用したいくらいだ」


アルティナは窓の外を見る。


雪が降っている。


遠い辺境の空にも同じ雪が降っているだろう。


だが彼女は何もしない。


救いの手も差し伸べない。


突き放しもしない。


契約は終わった。


それだけだ。


しかし終わった契約の穴は、想像以上に大きかった。


その夜。


バルトロメウス領では税務所の灯りが深夜まで消えなかった。


役人たちは必死に計算する。


だが数字は合わない。


帳簿は見つからない。


在庫は減る。


苦情は増える。


そして誰もが少しずつ理解し始めていた。


領地を支えていたのは華やかな伯爵ではなかった。


舞踏会でもなかった。


宝石でもなかった。


人知れず帳簿をめくり続けた人々と、その頂点に立つ一人の女性だったのだと。


だが気づくには、もう遅すぎたのである。



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