ロザリー・R・レジェス(5)
「殺してないだろうな!」
「死体性好の気はねぇよ。ちゃんと加減したし、打ったのは額だ」
声だけが響く。
ロザリーの五感は未だに宙を浮いているような心地で定まらなかった。
何が起こった?
殴られたのだ。額を正面から。
見えなかった。文字通りに、桁違いだった。
(痛ぇ。全身が痛え)
受け身も取らずに倒れた。どんな吹っ飛びかたをしたのか、わかったものじゃない。
少しずつ感覚が戻ってきた。リングマットに寝転がっている。
ロザリーは腕を動かし、
即座にマットへ叩きつけられた。
「なっ!」
目を開ける。木々の隙間から星空が見えた。
天を遮って、胴元の汚いニヤケ顔が現れる。
「マジだぜ、動けるのかよ。どんな体力してんだこの女」
「ンだコラ。邪魔だてめぇ」
威嚇しながらも、腕を抑え込まれているのを感じる。両腕を上げるように固定されていた。
脇を開けた姿勢に寒気が走る。
「おい離せくそ野郎! きたねぇな、フケが落ちてくんだよ!」
胴元は嫌らしい笑みを浮かべたまま、ロザリーの罵倒に苛立ちすらしない。
ハナから同格の言葉として受け止めていないのだ。ロザリーの言葉など虫のさえずり同様に聞き流している。
「こうもタフな娘とはな。スカウトしたら活躍しそうだ」
声。
胴元は愉快そうに笑い、ロザリーの足元に顔を向ける。
「ははっ! いい部下になるな」
「ジョークじゃねぇさ。真面目に、こういうやつが最後まで戦えるんだ。これからヤるのは……ま、耐尋問訓練ってとこだな」
寒気が止まらない。
ロザリーはようやく足元に顔を向けた。
ロザリーの股の間に、 アメリカ人がしゃがみこんでいる。
その片手がロザリーのズボンに伸ばされた。
「やめろエテ公! 今すぐ離せ! あたしから離れろ! くそヤンキー!」
暴れてももがいても、力づくで抑え込まれて離れられない。
「活きがいい。どこまで持つか楽しみだ」
それどころか、ロザリーの抵抗を嬉しそうに見ている。
舌なめずりをしてロザリーのショートパンツを掴む。ブチリと音を立ててベルトが壊された。
「やめろ! やだっ! ちくしょう!」
暴れて叫ぶ、その疲労がロザリーの胸にチクリと黒い穴を空ける。
ーーロザリー姉は無茶ばっかり。
「離せ、帰せよ!ロリコン野郎、その辺のケツでも掘ってろ!」
一度穴が空いてしまえば、広がるのは早かった。
ーー無用な無理をするくらいなら、ロザリー。家族のことを見てやってくれ。
絶望、という深淵が、ロザリーの心を侵していく。
「ちくしょう……ちくしょう!」
自分はこうも無力だったか。こうまでなにも出来ないのか。打つ手がなくなるまであっけなさ過ぎる。
無茶をしてきた。ケンカをしてきた。覚悟はしてるつもりだった。
けれど、こうまで打ちのめされるとは。
「それじゃ、約束通り最初はもらうぜ」
「おう。実際、ウィリアムズが功労者だからな」
「く、そ、がァ」
せめて最後まで暴れてやる、という決意は、
「暴れるな鬱陶しい」
岩石のような握り拳を見せられただけで硬直してしまう。
カチャカチャと鳴るベルトの音、囃し立てる周囲の男たちの声。
ロザリーの背中を冷たい絶望が滑り落ちていく。
異変はまず一方向から。
「殺すのはダメだよ」
「分かった。殺さなければいいんだな」
「あぁ? なんだお前……ぇげっ!」
ギャラリーの一人がリングに飛んできた。チェーンに腰を引っかけるようにして無様に倒れる。
騒ぎが不意に静まった。
押しのけられる観客が、呆気にとられて闖入者を見上げる。
じゃらりとチェーンをこすらせて、誰かがリングに上がった。
「あん?」
「な……」
男だ。背が高い。
胴元が車に跳ねられたような勢いでぶっ飛んだ。
男が蹴り飛ばしたのだ。と思ったときには、ロザリーは引きずられていた。ウィリアムズがロザリーの足をつかんだまま逃げている。
「ひ……きゃあ!」
「うるせぇ! 死にたくなければ黙って着いてこい……!」
突きつけられたのは拳ではなかった。
銃だ。
ぞくり、と死の恐怖に体の芯まで冷えきって、
頭が冷える。
「こっちだ」
ウィリアムズに腕を引かれる。
森に向かうらしい。狂乱するギャラリーを隠れ蓑に逃げるつもりだ。
ロザリーは抵抗しようとして、簡単に引きずられている自分に気づく。
力負けという段階ではない。
そもそも力が入らない。
(足が……震えて……!)
怯えている。自分が。誇り高きロザリー・R・レジェスが。
悪態すら喉につかえて出てこない。ウィリアムズに引かれるまま森の闇へと分け入っていく。
「ったく、相変わらず鼻が利く連中だ。少し羽を伸ばすくらいで鬱陶しい」
ウィリアムズはお気楽に愚痴る。
だが、彼の表情が一変した。
「待て、ウィリアムズ。この恥さらしが」
「嘘だろ追ってきやがった! 走れこのグズ!」
「ぎゃっ!」
ロザリーを力任せに引っ張って森を走る。つまづいて転んでもウィリアムズは腕だけで引きずりあげて森を走った。
(こいつ、どんな感覚してるんだ!?)
夜の森は当然、明かりなど何もない。
暗闇のなか、遮蔽物だらけの悪路を走っている。
ついていくだけのロザリーですら、足元の根や窪みに足を取られているのに、この男は先頭で障害物を踏み潰して走るのだ。
息が上がっても、ロザリーの耳は背後の足音を捉えている。
追っ手もさるもの、同じように夜の森を走っている。もしかしたら、ロザリーを引いていない分、追っ手の方が速いかもしれないほどだ。
どちらも尋常ではない。
(それなら)
上がった顎に力を入れて歯を食いしばる。
「あぁ!? 抵抗してんじゃねぇクソガキ!」
足を止めた瞬間、男は拳銃をロザリーに叩きつけるように押し込んできた。
――そこを突く!
ロザリーは両足を抱え込むように、仰向けに倒れ込んだ。
身体が落ちていく。男から離れていく。
「おらァ!!」
踵で男の拳銃を蹴りあげた。
バン! と一瞬森が閃く。
「ぐっ? この!」
ウィリアムズは跳ね上げられた銃口をロザリーに向ける。
寝そべるロザリーは動けない。と、いうか。銃声に腰が抜けていた。
「ウィリアムズ!」
どがっ、と鈍い音。
男がウィリアムズに跳びかかる。肉を打つ音が響く。
ロザリーは森の地面にうずくまっていた。
動けない。いつ銃口がまた閃くか分からない。その銃弾がロザリーに当たらないとも限らないのだ。関わりたくない。知りたくない。関係ない。
……いつの間にか、殴り合いは終わっていた。
「無事か」
男がロザリーをのぞき込む。妖怪かと思った。初老の男性だった。
大きな手に頭を撫でられて、
「……ぅ、うあ、へああああああっ」
ロザリーは泣き出してしまった。
「大丈夫か」
「……おう」
男性はあの後泣き止むまでそばにいてくれた。
一度ひょろっこい男がやってきたが、ロザリーを見て肩をすくめ、ウィリアムズを引っ張ってどこかに消えた。
本当なら彼も一緒に帰るはずなのだろうが、ロザリーのために残ってくれたらしい。
「家まで送ろう」
「いや、いらねぇ」
「では、大通りまで」
ということで二人で森を歩いている。
(……でけぇな)
物腰柔らかな紳士のような初老の男性だが、背は天突くように高い。広い背も長い腕も、しなやかな樹のように鍛え上げられていた。
悪い道を避けて夜の森を案内してくれている状況は、なんだか童話の世界にでも入ったような気分にさせられる。
(でも、この男はウィリアムズに殴り合いで勝ったんだよな)
しかも相手は拳銃を持っていた。
「あんた、軍人か?」
大男はロザリーをちらりと振り返る。すぐにまた前を向いてしまった。
「違う」
「じゃあ何してるんだ。ここまでケンカに慣れてて、夜目も利くんだ。カタギじゃないだろ」
「……私たちは傭兵だ」
「ようへいぃ?」
時代錯誤な職業に胡乱な声をあげる。
ロザリーはそこで初めて、PMSCという職業について知った。軍事作戦、軍事教導、軍事物資運用。まさに現代の傭兵だ。
「もしかして、ウィリアムズも?」
「同僚だ」
どうりで強いわけだ、とロザリーは歯噛みする。
「PMSCってのは、儲かるのか?」
ロザリーは大男にぶつかった。
「いってぇな。急に止まるなよ」
「やめておけ」
大男は灰色の瞳を、ロザリーに真摯に向けている。
「軍人よりもひどい。国に保護されず武器を取る仕事だ。今日のような目にも遭うだろう。いいことはない」
「……母さんが病気なんだ。金が要る」
「もっといい仕事はある」
「この国にはない」
ロザリーの間髪入れぬ抗弁に大男が口を閉ざす。
「それに。あたしの理由もある」
「理由?」
今はもう震えていない手を見下ろす。拳を握る。
ウィリアムズに引きずられていたときは、震えて力が入らなくて、拳を握ることもできなかった。
「怯えて何もできなかった。あたしが、その辺のか弱い女の子みてぇにブルブル震えて、手も足も出なかった」
大男が身じろぎをする。何か言おうとする気配に先んじて、ロザリーは叫ぶ。
「あたしは! あたしは力が欲しいんだ。正しいと思うことを実行できる力が。怯えない勇気が。誇らしく生きるために……ママの前で胸を張るために!」
悪いことはしない。悪いことは見過ごせない。顔向けできないことはしない。
ちっぽけな誇りだ。
だが、ロザリーにとっては、重要なことだ。それだけが、つらい身の上を生き抜くための杖になっているのだから。
「……きみの名前は?」
「ロザリー・レオナルド・レジェス」
「ロザリー。ひとつ、訂正する」
大男が、大きな手のひらでロザリーを撫でる。
「きみはか弱い女の子だ」
一瞬、声に詰まってしまった。
「……うるせぇ」
顔の熱さが、手のひらに伝わらなければいいと祈る。