第16話
「明日からまた授業だな。」
夏季休暇の最終日はしっとりとした雨になった。
既に寮には休暇を実家や保養地で過ごしてきた学生たちが戻っており、明日から始まる新学期を前にして、それぞれが期待と不安を胸に抱いてごった返している。雨に濡れて曇った窓からは、徐々に輝きを失ってきた木々が見える。雨に濡れてくすみ始めた緑は、季節の終わりと始まりを知らせる先触れとなって、道行く人々に夏の終わりと実りの秋の到来を知らしめる。
うだるような暑さも肌に突き刺さる日差しも影をひそめ、ドミトリーは過ぎ去った夏の余韻に一抹の寂しさを抱かずにはいられなかった。
「いいじゃないか、授業。何もしていないよりは遥かに楽しいだろ?」
それと無く残念そうなベックマンの言葉に、ドミトリーは苦笑いを溢しながら言葉を返す。
「そうは言ってもな。教養とか学んでも使う機会なんて...うん...あったよ。この野郎。」
ベックマンの目に剣呑な光が宿る。あの日、彼は何か吹っ切れたようで、日頃の言動もさばさばしたものになってきた。もやしっ子ドワーフはいつの間にやら随分と擦れた性格になってきたように思える。一緒に自由工作していた先輩が実は皇族だったり、すごいものを作ったはいいがお前達にはまだ早いと没収されたり。思い返せば彼にとって多難な休暇だった。
勿論、黙っていたことに悪気が無いのは事実である。セルゲイ本人から口止めされていたし、知れば知ったで胃が痛む。ドミトリーもそうだったが、確かにいきなりの身分公開はドッキリにしては質が悪すぎる。
セルゲイは楽しむ素振りすら見せていたが、ごく普通の亜人種には全く持って面白くない冗談である。タイミングこそ違えど、同じドッキリに遭遇した身としてはシンパシーを感じなくもない。
「あれはどうしようもなかったんだ。悪気があったわけじゃない。」
「分かってるさ。分かってるけどさ、やっぱりあれは心臓に悪すぎると思うんだ。」
ドミトリーは後片付けの傍ら、3人と問答しながら過ごしていた。ベックマンの持つこの国の平民の常識、セルゲイの持つ皇族の常識。セルゲイが問いドミトリーが答えて、ベックマンが補足する。
何だかんだ言ってもベックマンも頭の回転は速く、3人の問答は学生の水準を超えたものだった。
廃嫡されたとはいえ、幼少時は次期皇帝として育てられたセルゲイは帝王学や統治論をある程度修めており、この世界における君主とはどのようなものなのかを知る貴重な機会となった。
ちなみに、それらを総括して解りやすく表現するならば、「情にあふれるマキャベリ」である。
統治者としての方向性は意外なほど洗練されていたが、やはり粗削りの感は否めなかった。もっとも、割り切れずに苦悩する主君を支え続けてきた彼としては、何とも言いづらいものだった。王たる身でも、心は人間。葛藤が無い者などいない。
「王家も王家で悩み事が沢山あるのさ。笑って流せなくても見守るくらいは良いんじゃないか?」
「随分と実感がこもってるね。」
宰相だった彼の経験談なのだから当然である。
「表現力が豊かなだけだよ。吟遊詩人にでもなればよかったかな。」
ベックマンが可哀想なものを見る目で見てきたため、ドミトリーは一言付け加えた。
「ほら、僕は人前では上がらないし。」
この夏、引っ込み思案なドワーフの少年の感情表現が極めて豊かになった事をドミトリーは心から嬉しく思っている。断じて弄りやすくなって楽しい訳では無い。断じて。
一方、2人を良くも悪くも翻弄した当人は王宮にいた。休暇の最後ぐらいは顔出しをしなければ、後日両親から呼び出されかねない。皇帝の長男でありながら廃嫡された彼の立場は、宮廷において非常に微妙なものになっている。自身の存在が内乱の種になりかねないと言うのが、現在のセルゲイの悩みの種である。
「いっそのこと絶縁でもしてくれればありがたいんだがなぁ。」
セルゲイは慣れ親しんだ宮殿の廊下を歩きながら、傍らに控える老貴族にぼやく。
「そのようなことをおっしゃいますな。陛下も、殿下の事を心から心配しておられるのです。」
「心配する対象が間違ってるって言ってるのさ。俺よりもヴォーヴァの方を心配すべきだろう。」
セルゲイの弟であるヴラジーミルは体格に恵まれず、士官学校で苦労していると手紙を通じて知っていた。廃嫡のやり取りがあっても兄弟の仲は良好で、何かにつけて双方での手紙のやり取りを今でも続けている。
彼の弟、ヴォーヴァことヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ・エルマコフは、負傷によって廃嫡されたセルゲイに代わって帝国の皇太子となった。彼は現在、法術大学にほど近い帝国士官学校の騎兵科で、将来の藩塀となるであろう貴族の子弟たちと共に勉学と鍛錬に励んでいる。
「一応は顔出しはするけど、何度も言うようにもう俺を皇太子として見ないでくれ。ヴォーヴァがそのために今頑張ってる。」
「無論、承知しております。ただ、あなたの才を惜しむものが居るのもまた事実。」
「惜しむな。切り捨てろ。未練で国を割る気か?」
マカボニーの重厚な扉の前で、セルゲイは立ち止まり老貴族に無表情に見る。
「それと、文句は俺の指を潰した奴に言うべきだ。」
ノックをしてドアを開けるとパイプの匂いが広がった。付き添いの老貴族が口上を述べる。
「陛下、セルゲイ殿下をお連れしました。」
「息災で何よりだ。少し日に焼けたな。」
執務室で書簡に目を通していた男が、セルゲイを見ながら声をかける。
「お元気そうで何よりです。陛下。」
付き添いの貴族が退出したのを見て、セルゲイは姿勢を崩す。
「...もう、奥には行かんのだったな。アリョーシャには私から伝えておこう。」
「...助かるよ。」
廃嫡されてから、セルゲイは徹底的に家族から距離を取った。自分を見捨てた親への意趣返しもあったが、何よりも宮廷が信用できなくなったからである。
あの事故が偶然であるとはセルゲイは考えていない。偶然で片づけるには必然たり得る要素が余りにも多すぎる。皇太子の地位に執着は無かったが、不向きな弟にすべてを押し付けてしまったことが悔やまれてならない。
皇后アレクサンドラは廃嫡に強く反対したが、マクシームは自身の取っていた政策の手前、廃嫡の流れを止める事が出来なかった。領地を没収された貴族たちの反撃は、皇帝から期待の後継者を奪う事になった。
次男で現皇太子のウラジミールは人見知りで内向的な性格であり、体も決して頑強では無かった。ウラジミール自身も自分が皇帝の後継ぎになるなど全く考えておらず、兄の事故の後にあれよあれよと言う間に祭り上げられ、ふと気づけば皇太子だったという有様。
彼自身に君主としての能力はあまり期待できなかった。
「...今度の軍制改革、かなり受けが悪いね。彼らを止めなかったの?」
「西大陸がキナ臭くなってきてな。念の為に財務尚書と相談した結果だ。彼らとて遊んでいる訳では無い。勿論、これ以上の兵役の延長は無いがな。」
そう答えるマクシームの表情は非常に苦々しいものだった。
かつての大戦争で被った打撃は、今も帝国に暗い影を落としている。占領され、略奪された地域の復興が完了したのはつい先年の事だった。
大戦争における政府と軍の対応は、神殿や亜人種たちに非常に強い不満を抱かせるものだった。
当時の皇帝イヴァン13世はそういった配慮の出来ない人となりだったようで、極めて世俗的な理由で『加護』持ちを使い倒しあまつさえ捨て駒にしてしまうという愚行を働いてしまう。
『加護』持ちを苦しむ民衆の心の支えにさせず、弾圧する側として各地を転戦させた政府に神殿は猛烈に抗議。抗議に来た祭祀総長を不敬罪で処刑してしまったことで完全に神殿側の助力を得られなくなった政府は戦後の復興に際して、己の過ちを痛感することになった。
復興しようにも、西大陸側の古い領土からの人口流失は増えるばかりで全く止まらず、いくつもの都市と村落が放棄されてまった。匪賊が跋扈し加速する治安の悪化と交易の不振が政府を苦しめる。
責任の一端がある軍は戦争でその屋台骨をへし折られ、その再建にも四苦八苦するありさまだった。王家を見限り反乱を起こす貴族も後を絶たず、大戦後の帝国は長い停滞の時代を過ごすことになった。
混乱の中で皇帝は頻繁に代替わりをし、民衆からの目線は冷たさを増していった。
中でも亜人種たちは神殿との繋がりが深く、探検団にも多数が所属していたために政府に対してかなり強い不信感を抱き、反乱こそ起こさなかったものの協力らしい協力は全く得られなくなった。
何とか収入を増やそうにも、開拓の最前線で活躍していた探検団を戦場ですり潰してしまったために、新規の領土の開拓は事実上不可能。人々に滅ばなかった方が不思議だと言われる程には帝国の再建は難航した。
長い混乱が収束し、復興も完了した現在でも、英雄と共に失われた政府への信頼は回復していない。
「布告を出した時点で反発は覚悟していた。だが、反発を恐れて国を亡ぼすわけにはいかん。」
国民への負担を重くする事は本来ならば避けるべきであり、マクシームも当然それを理解していた。だが、帝国を取り巻く国際事情がそれを許さなかったのである。
以前から戦乱の絶えない西大陸だが、近年は戦場の様相が急速に変わってきた。まず、会戦の規模がそれまでと比較にならないほどに拡大。使われる武器もこれまで主流だった弓や剣ではなく、アルケブスと呼ばれる火縄銃が登場したことで戦闘時に生じる死傷者の数が爆発的に増え始めた。
西大陸は温暖な気候の為、帝国よりも遥かに人口密度が高い。帝国としては、国土では遥かに優っていても総合的な国力で勝てない強国がしのぎを削り合う西大陸はまさに魔境である。
火薬と言う存在があることは以前から知られていたが、それらが使用されるとすれば攻城戦位のもので、野戦において火薬が使用されるようになった現在、帝国は完全にこれらの新しい軍事技術の発展に完全に乗り遅れてしまった。
恒常的な予算不足を理由に先延ばしにされてきたが、復興の完了に伴って軍制の改革に手を付ける事が出来るようになったのである。
その端緒が先年の布告であり、本格的な施行に伴って反発は強まっていた。
「覚悟か...彼らは覚悟できてるのかな?兵数増えて調子に乗る前に釘を刺した方が良さそうだけど。」
そうつぶやくセルゲイを見てマクシームは頷くと天を仰いだ。
「ままならぬものだ。ヴォーヴァは頑張っているが、あれは王には向かぬ。お前よりもあれの方がよほど学者に向いていただろうに。」
「そう言うこと言うから周りが余計な気を回すんだ。親父がフラフラしたら示しがつかないだろ?」
長居は執務の妨げになるとセルゲイが辞した後、マクシームは再び報告書に目を通し始めた。日頃から几帳面で真面目な彼だが、手にした書類に力が入り、雫が濡れてインクが滲む。
「ままならぬ...」
無謬で居続けられるほど、マクシームは割り切れる性格ではなかった。例え非情になり切れない優しさが、誰かを苦しめる事になると理解していても。
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