後日談
眼下には深い森が広がっている。
私はピーちゃんに乗って、その緑の上を飛んでいた。ずり落ちたりしないようピーちゃん用の特別な鞍を作ったので、すっぽりとお尻が収まって乗り心地がいい。
あと二ヶ月もすれば本格的な冬がやってくるけど、今はまだ空の空気もそれほど冷えていなかった。日差しも夏より和らいで、絶好の飛行日和だ。
私がこの世界へやって来て、半年が過ぎた。
ここでの習慣や常識に戸惑う事もあるし、日本の便利さが恋しくなる事もあるが、エルフの皆は親切で優しく、里での生活は充実していた。
長さんやセニアラナさんの伯母さん、年かさのエルフたちは私の事を自分の娘のように気にかけてくれるし、エカルドさんやセニアラナさんとは気楽に付き合える友達になれた。二人の方が私より随分と年上だから、お兄さんお姉さんみたいに思える時もあるけど。
サイーファスさんは私を幸せにする事を自分の使命のように感じているらしいので、ただの居候にしては大切にしてもらっている。
教育係として厳しい時は厳しいけど、私の事を想って叱ってくれるのだという事が分かっているから、嫌いになったりはしない。彼はとても実直で信頼できる人だ。
「そろそろかな」
前方を眺めると森の端が見えてきていて、そこには人間の兵士さんたちの宿舎などを併設した監視塔が建っていた。
私は人間社会の様子を知るために、たまに彼らの話を聞きに行っているのだ。エルフの里に篭っていると外の世界を知る機会が少ないから。
ピーちゃんも私と一緒に何度かここへ来ているので、指示を出さなくても監視塔の方へ向かってくれた。
「こんにちは」
塔の近くの開けた場所に降り立って、そこでコウモリ猫にブラシをかけていた黒髪で小柄な兵士さんに声を掛ける。彼はソイさんといって、コウモリ猫の調教師であり、幻獣を操る専門の訓練を受けている少し特殊な兵士さんでもある。
歳は私よりも上らしいが、童顔な事もあって親しみやすい人だ。
「よっ、リフ。元気か?」
彼は手を上げて、私の新しい名前を呼んだ。
そう、リフ――正式にはリフルニツカというのが、サイーファスさんが結局三週間も考えてつけてくれたこの世界での私の名なのである。
思いきり外国風の名前なので最初は自分で違和感があったのだが、今ではすっかり馴染んだし、とても気に入っていた。
「はい、元気です。皆さんお昼まだですよね? たくさんお料理持って来たので、よければ一緒に食べましょう」
着地と同時に私のために地面に座ってくれたピーちゃんから降りて――訓練のたまものだ――背中に積んでいた鍋も移動させる。
兵士さんたちから色々な話を聞く代わりに、いつも昼食のおかずを持参しているのだ。
「やった! 俺らの食べてるもんと似たような料理でも、エルフのレシピって美味いんだよなぁ。どんな調味料使ってんの?」
「ふふ、内緒です」
ソイさんは重い鍋を運ぶのを手伝って、外に出されている長い食卓の上に置いてくれた。
監視塔の中にいた他の兵士さんたちは私がピーちゃんに乗ってくるのを見ていたようで、声を掛けるまでもなく、待ってましたと言わんばかりに各々パンや飲み物、椅子などを持って集まってきた。
全部で十九人いて、その中には私がこの世界へきた初日に出会っている茶髪の人や、おじさん兵士も含まれている。
「待ってたぞ、リフ」
「料理を持って来てくれるなら、もう少し頻繁に来てもいいんだぞ」
二人から話し掛けられながら、食卓を整えていった。
男の人って、美味しい料理で簡単に釣れるんだなぁ。
皆で昼食を取った後、溜まった仕事を片付けに戻る人もあれば、森の監視任務に戻る人、食休みに草の上に寝っ転がる人もいた。
ソイさんは食休み組で、私の隣に座って、コウモリ猫のグルーキーとピーちゃんが仲良くひなたぼっこしているのを一緒に眺めた。とろんと気持ちよさそうな顔をしている二頭、かーわいーなー。
「で、あの話はどうなった? 許可は貰ってきたか?」
「いえ……」
私はちらりとソイさんを見てから、またピーちゃんたちに視線を向けて答えた。
「エカルドさんは一人だけで行くんじゃなければいいんじゃないかって言ってくれたんですけど、サイーファスさんはまだ駄目だって」
私の存在はこの地域を治める人間のご領主様にも伝わっていて――ソイさんたちが初日に報告しているからだ――前から「屋敷で食事でも」と招待されているのだ。
普通の人間なのにエルフたちの里に受け入れられていて、珍しい幻獣のピーちゃんの飼い主でもあるという事がご領主様の興味をかきたててしまったみたい。
「過保護だよなー、白いエルフは。別に何も危険はないのに」
「サイーファスさんたちは世間知らずな私がご領主様に利用されるんじゃないかって心配しているみたいです」
「確かにリフをこちら側に引き込めればエルフたちとの繋がりは強くなるし、何よりご領主様は強力な幻獣を手に入れる事ができる……」
真面目な声音に私が息を呑んでソイさんを見ると、おちゃめに笑って肩をすくめられた。
「心配しなくてもご領主様は強引な事はしないさ。さっき言ったろ、危険はないって。……ま、リフに親切にして、リフ自身に『ご領主様の力になりたい』と思わせるよう仕向けるとか、そういう遠回しな手は使ってくるかもしれないけど」
「人間不信になりそう。やたらと親切にされたら注意しよう」
私が顔をしかめると、ソイさんは「一つの可能性を話しただけだって」と言った。
「ご領主様だって本気でお前をどうこうしようとは思ってないよ。単に興味があるから、どんな子か見てみたいっていうだけさ。気軽に誘いに応じればいい」
「そう、ですよね……。エカルドさんもそんなふうに言っていました」
エカルドさんはご領主様と会った事があるみたいで、「彼は愚かな為政者ではないし、エルフを敵にまわすような事はしない。今回の誘いにも裏はないさ。噂のリフルニツカを見てみたいだけだろう」と。
「だけど同時に、『多少の打算はあるだろうけどね』とも言ってましたけど」
エカルドさんやセニアラナさんたちは自分たちも一緒に領主の館に行く事で、その「多少の打算」から私を守れると考え、許可を出してくれたようだった。
しかし一方でサイーファスさんは、ほんの少しでも打算があるなら私を行かせるべきではないという意見だ。
そして私としては、ご領主様と食事なんて緊張するし、サイーファスさんに逆らってまで行きたくはないという気持ち。
「打算ね。それは当たり前の事さ。権力者は清廉潔白ではいられない。リフを今すぐ利用しようとは考えてないだろうけど、将来のあらゆる可能性を考えて顔見知りになっておこうという思いはあるかもな」
「うーん、実は打算は私にもあるんですけどね。いつかエルフの里を出た時にはこの森の近くの町で生きていくつもりですから、身元がしっかりしていない私がちゃんと仕事を得られるように、ご領主様とはお近づきになっておいた方がいいかもって」
「そういやお前、そろそろエルフの里を出ないのか?」
ソイさんの質問に私は一度固まって、うつむいた。
焦りのような寂しさのような感情が胸をよぎる。
「……なるべく早く出ないととは思うんですけど」
エルフの皆は優しいとはいえ、いつまでも甘えていられないという気持ちもある。サイーファスさんの家でずっと居候を続けるわけにもいかないし。
この世界で生きていくために最低限必要な知識はついたと思うから、あとは穢れが取れれば、サイーファスさんも独り立ちの許可を出してくれるだろう。
しかし自分の穢れが今どれくらい薄くなったのか、私は彼に訊けないでいる。
サイーファスさんの家もエルフの里も居心地が良すぎるし、皆と離れるのが辛いから。
二度と会えないくなるわけじゃないとは分かっているんだけど。
「ピャアア!」
「ナァァァ!」
と、その時。ピーちゃんとグルーキーが「やるか、この!」というケンカ腰の雄叫びを上げたので、私の沈んだ気持ちが一気に吹き飛んだ。
……グルーキーは女の子だと聞いていたんだけどな。
「大丈夫かな」
「放っとけよ。本気じゃない」
どうやらひなたぼっこに飽きたグルーキーがうつらうつらしていたピーちゃんに緩い猫パンチでちょっかいを出し、しつこいそれにピーちゃんがブチ切れ、グルーキーも応戦、という流れだったようだ。
最近二頭は仲良くなって、よく遊びで取っ組み合っていたり、じゃれ合っていたり、お互いを毛づくろいしたりしていたが、
「ピャッ!」
「ニャ!」
どうやら今も、ソイさんの言う通り本気でケンカしているわけじゃないみたい。
二頭とも真剣にじゃれ合うあまり、動物に慣れていない人が見れば殺し合っていると勘違いしそうな恐ろしい形相をしているが、決定的な攻撃はしていない。
グルーキーは本能からピーちゃんの喉元を狙ってしまうようだけど、牙が刺さらない程度の噛み方だし、ピーちゃんもくちばしや脚を使う時は、絶妙な力加減を守っている。
とはいえ、幻獣二頭がその巨体を暴れさせ、相手に飛びかかり、地面を転がり、馬乗りになったりなられたりしている姿は迫力があった。
グルーキーが森の中へ逃げるように駆けていくとピーちゃんはそれを追い、遠くのほうでまた「ピャアピャア!」「ウニャウニャ!」とやり合っているような鳴き声が聞こえ、かと思うと今度は何故か攻守逆転して、ピーちゃんを先頭に森から走り出てきて、再び取っ組み合う。
二頭の爪やくちばし、牙が相手をかするたび、お互いの毛が抜けてふわふわと宙を舞っているが、ピーちゃんもグルーキーも楽しそうなのでとめはしない。というか、とめられないし。
幻獣は貴重で手に入りにくいし、飼育にもお金がかかるので、この監視塔にはグルーキーしか幻獣はいなかった。
一方ピーちゃんもエルフの里でポイガたちと追いかけっこをする事はあるが、彼らの上品な遊び方では満足できない時もたまにあるようで、不完全燃焼のまま、折れた太い枝相手にドタバタと一人遊びしている事がある。
ピーちゃんとグルーキーではピーちゃんの方が強いのだが、それでも遊びの取っ組み合いで大きな力の差が出るという事はない。二頭はいいケンカ相手なのだ。
結局、二頭の取っ組み合いは、ソイさんの休憩時間が終わるまで続いた。
「楽しかった?」
「ピャア」
帰り道、空を飛ぶピーちゃんに声を掛ける。グルーキーの爪が当たってしまったらしく、ピーちゃんのまぶたの上には小さな引っかき傷ができていたが、本人は気にしている様子もなく満足気な顔をしていた。
兵士さんたちの邪魔になるといけないので仕事中は訪ねる事ができないけど、また昼食を持参して監視塔に遊びに行こう。ソイさんや他の兵士さんたちも、「ぜひピースケを連れて定期的に遊びに来てくれ」と頼まれている。たまに体力を持て余したグルーキーに襲われるらしいのだ。
グルーキーは遊びのつもりなのだが、人間が相手をするのは大変みたい。
「そうだピーちゃん、ここら辺で一度降ろしてくれる?」
中間地点を越えてエルフの森へ入ったところで、今日の目的の一つを思い出した。
今はコラスタケというキノコが旬で、森でよく採れるのだ。この前初めて食べさせてもらったのだが、エリンギに似た味で美味しかった。
サイーファスさんもキノコ類は好物のようだし、おみやげに採って帰りたい。
森に降りるとちょうど場所がよかったのか、そこら中コラスタケだらけだった。手袋にナイフ、そして麻袋を持って、しばらくキノコ狩りに専念する。
他のエルフが取る分を残すとしても、これだけあればエカルドさんやセニアラナさんにもおすそ分けできるだろう。
ピーちゃんが自由に木の実をついばんでいる横で、私は次々とコラスタケを袋に入れていった。根本を残すようにすると、来年も収穫が期待できるらしい。
キノコでいっぱいになった麻袋を抱えて、また森の上を飛んでいく。
西の空を見れば、太陽が随分と地平線に近づいていた。集中していたせいか、思ったより時間が経っていたようだ。
ピーちゃんは鳥だけど鳥目じゃない。暗くなっても周囲が見えるので日が沈んでしまってもいいのだが、あまり遅くなるとサイーファスさんが心配するだろう。そう思って、
「少し急ごうか」
ピーちゃんに声を掛けた時だった。
何かに気づいたように下を見ていたピーちゃんが、くるりと進行方向を変えて森に降りようとしたのだ。
「どうしたの? 里に帰るんだよ」
「ピャア」
ピーちゃんは私の言っている事を理解しているようだが、進路を戻してはくれない。枝にたくさんの葉を生い茂らせた木々が障害となって、私の目では地上に何がいるのか確認できなかった。
今は季節じゃないはずだけど、ピーちゃんの好きな果物であるオットムでもあったのかな?
なんて考えたけど、ピーちゃんはそんなに食いしん坊じゃなかったみたい。
そこにいたのは、ポイガを駆けて森の中を疾走するサイーファスさんだった。
ピーちゃんは上空でポイガを追い越してから地上に降りたので、サイーファスさんは視界に入った私たちにすぐに気づいてスピードを落とした。
「リフルニツカ!」
「サイーファスさん、どうしたんですか? 一人で森に入っているのは珍しいですね」
エカルドさんなんかはよく狩りをしているけど。
私がのんきに言うと、サイーファスさんは少し怒ったように眉間に皺を寄せたまま答えた。
「あなたを迎えに来たんですよ。帰りが遅かったので何かあったのではと思ったのです」
私はハッと目を開けて、「すいません」と謝った。
「この前、あなたは領主の話をしていたので、彼らが強引な手段に出たのではと心配しました。人間の兵士たちに何もされませんでしたか?」
「まさか、そんな! 遅くなったのは、これ――コラスタケを採っていたせいです。兵士さんたちとはいつも通り一緒にごはんを食べて、話をしただけですよ。ご領主様のお誘いもちゃんとお断りしてきましたし」
「そうですか、よかったです。……少し早とちりをしました。他人を疑う事はよくないのですが」
サイーファスさんはホッとした表情をすると同時に、自分を恥じるように肩を落とした。
「サイーファスさんは私を心配してくださっただけです。私もつい時間を忘れてコラスタケを採ってしまって……。キノコはサイーファスさんも好きだから、喜んでもらえるかと思っていっぱい採ってきたんです」
「そうですか。ありがとうございます――リフルニツカ」
サイーファスさんは大量のキノコを見て一瞬目を丸くしたが、次には私と目を合わせて、びっくりするくらい優しい笑みを浮かべてくれた。
最近よくこんなふうに柔らかく笑ってくれる気がするのだが、いちいち破壊力がすごくて心臓がドキドキしてしまう。
「さぁ、では帰りましょうか。我が家へ」
「はい」
私は勝手に赤くなってしまった頬をどうする事もできないまま、サイーファスさんの後に続いた。
しかしサイーファスさんのレアな笑顔は、すぐに保護者然とした厳しい表情に塗り替えられる。
「しかしキノコを採ってきてくださるのは嬉しいですが、次からはちゃんと予定を私に伝えてくださいね。何時頃に帰ってくるのか分からないと心配になりますから。それに前から考えていたのですけど、兵士たちのところへ行く時には一人で行かない方がいいと思うのです。私かエカルド、セニアラナ辺りと一緒の方が安心ですし……」
しばらくはやまないだろうと思われたサイーファスさんのお説教は、思ったよりも早く、不自然に途切れた。
口ごもるサイーファスさんに「どうしました?」と尋ねると、数秒の間があった後で、申し訳なさそうにこう言われた。
「……今のは忘れてください。口うるさく言い過ぎました。あなたにリフルニツカ――『自由な小鳥』という名を贈ったのは私なのに、束縛するような真似をして」
サイーファスさんは俯き気味にポイガのたてがみをじっと見たまま、弱々しい声で続ける。
「あれは駄目、これも駄目、とあなたの行動を制限するたび、自分でも反省しているのです。これではまるで、リフルニツカを自分の望み通りにしようとしていた、あなたの母親のようではないかと」
「そんな事ありませんよ! サイーファスさんは私を心配して、注意してくれているだけです。母とは違います。だって私の安全、私の幸せを第一に考えてくれているでしょう?」
「もちろんそうです。もちろんそうですとも。あなたには幸せになってほしいし、いつも笑っていてほしい。そのために私に何ができるのか、常に考えています。けれど……私があなたを人間に近づけないようにしているのは、あなたの身の安全を考えてというだけの事ではなく、私が近づけさせたくないからそうしている部分もあるのです。自分勝手な要求です」
罪を懺悔する咎人のように、サイーファスさんは苦しげに顔を歪ませていた。
「どうして私を人間に――兵士さんやご領主様の事ですよね? 彼らに近づけたくないと思うんですか?」
そっと尋ねると、サイーファスさんは元気のない様子で「分からないのです」と答える。
そしてそれきり無言になって、一人で何か考えているようだった。
きっとサイーファスさんは、私の身に何かが起きて、使命を果たせない事を心配しているのだ。神官としての責任感から、神託によって保護している娘を危険に晒すわけにはいかないと。だから私の行動を制限する。
「きっとそうよね?」
サイーファスさんに聞こえないよう小声でピーちゃんに話を振るが、「ちがう」というように鳴かれてしまった。何となくだが、そう言っているように聞こえたのだ。
そしてこれも何となくだが、賢くて鋭いピーちゃんは、サイーファスさんが抱えている悩みの正体も、そして最近サイーファスさんの笑顔を見るたびに私の胸が疼く原因も、全て分かっているような気がする。
私も早くその原因の答えを知りたくて、夕暮れに染まった森の中、速歩でポイガを進める彼の背中を見ながら、ずっと訊こうと思っていた質問をついに口に出した。
この質問をすれば、答えに近づける気がしたから。
「サイーファスさん」
と呼んでも彼は前を向いたままだったが、尖った耳がぴくりと動いた。ちゃんと聞いていると思ったので続けて言う。
「私の穢れの事ですが、今どれくらいまで落ちたでしょう? 半年も経てばもうほとんど落ちてしまったでしょうか?」
穢れが落ちる事はいい事なのに、「落ちてしまった」と悪い事のように言ってしまった。私の気持ちが表れてしまったのだろう。
私の斜め前を走っていたサイーファスさんは、僅かに顔をこちらに向けて、長い髪をたなびかせながら冷たい口調で答えた。
「いいえ、まだです。二十三年かけて溜まった穢れなのですよ。半年くらいでは落ちません。――あなたはまだ、私から離れてはいけませんよ」
「そうですか」
まだ追い出されたりしないのだと、私はそれを聞いてホッとしてしまった。
よかった、と心の中で思いながらしばらく森を駆ける事に集中する。
そうして十五分ほど経っただろうか、そろそろ里が近づいてきた辺りで、サイーファスさんが唐突に言う。
「……さっきのは嘘です」
「え?」
一度流れた話題なので、私は一瞬サイーファスさんが何の話をしているのか分からなかったが、彼はこの十五分間、ずっとその事について考えていたようだ。
つまり私の穢れについて。
「えっと、嘘っていうのは……?」
やんわり聞きただすと、サイーファスさんはポイガの速度を緩めて、私とピーちゃんの隣に並んだ。けれどこちらと視線を合わせる事はなく、まだポイガのたてがみを見ている。
「あなたの穢れは、もうほとんど落ちているのです。ここの食べ物だけでなく、清浄な空気や……あるいはあなた自身に抵抗力がついた事――すなわち前向きになり、精神が回復した事がよかったのかもしれません。予想よりずっと早く、あなたは本来の魂の輝きを取り戻しています。完全に穢れがとれるまで、あとひと月もかかからないでしょう。……嘘を言って申し訳ありません」
――あと、ひと月。
残された時間の短さに呆然としてしまった。そろそろ里を、サイーファスさんの家を出る準備を始めなければならないという事だ。
でもサイーファスさんは何故……
「どうして、嘘を?」
これが逆ならまだ理解できる。私に早く出て行ってほしくて、穢れが取れていないのに「もう大丈夫ですよ」と言われるなら。
「そんな嘘をついても、サイーファスさんに得なんか無いのに。私が長く居座り続けるだけですよ」
「それが得なのです」
静かに、しかし間髪入れずに返された。
「あなたは何か勘違いしているのでは? 私はずっとリフルニツカに里にいてほしいと思っています。……人間であるあなたは、穢れがとれれば人間の住む町へ行くべきだと最初は考えていました。エルフではなく、人間たちと一緒に暮らすべきだと。そしてあなたを迎え入れた当初は、その考えに抵抗はなかったのです」
サイーファスさんは後ろめたそうに私を見る。
「しかし今は違います。あなたをよそへやりたくないと思ってしまう。兵士たちと話をして、あなたが人間社会に、人間の住む町に興味を持ってしまうのが怖い。穢れが無くなっても私の側にいてくれはしないかと、自分勝手にそう思ってしまうのです」
恥じ入るように吐露したサイーファスさんに、しかし私の心は喜びを覚えた。
彼は居候の私の事を邪魔だとは思っていない、穢れが取れても里にいてほしいと思っている。その本心を聞いて自信が湧き、私の本音を話す勇気が出てきた。
私もサイーファスさんと同じ気持なのだと知って欲しくて、誰に急かされているわけでもないのに興奮したまま早口で喋る。
「私……! 私もサイーファスさんたちと離れたくないって、そう思っていたんです。人の住む町には行ってみたいし、興味もあるけど、里を出て行きたくないという気持ちもあって……。だって私、里の皆の事が大好きで、特にサイーファスさんとお別れする事を考えると胸が苦しくなるし……」
「リフルニツカ……」
瞠目してこっちを見ているサイーファスさんの声には、私と同じような喜びの感情があふれていた。
「本当に? 私に気を遣って言ってくださっているのではなく?」
「もちろん本当です! 私、サイーファスさんと一緒にいたい……」
思わず口から出てしまった言葉に、自分で赤面する。顔が火照って仕方がない。
サイーファスさんはこんな事を言われて困っているに違いない、恥ずかしいと思いながら、おそるおそる相手の表情を確認すると……。
なんとサイーファスさんも私に負けず劣らず、顔をまっかにさせていた。肌が白いから、首筋や耳まで赤く染まっているのがよく分かる。
私と目が合うと俯き気味に前を向いて、長い髪で顔を隠してしまう。
「あなたがそういうふうに思っていてくださると分かって安心しました。里に帰ったら、さっそく長に今後の事を相談しましょう。長やエカルドたちを含め、里の者たちは皆あなたとの別れが近づいてくるのを悲しがっていましたので、残ってくれると分かれば喜ぶでしょう」
「迷惑ではないでしょうか?」
「誰も迷惑になんて思いませんよ。もちろん私も」
ちらっとこちらを見たサイーファスさんの頬は、まだうっすらと赤かった。
「そうだ。今度一緒に人間たちの街へ行きましょう。私もめったに行かないのであまり詳しくはないですが、エルフの料理とはまた違う美味しいものがありますし、人間の職人が作る服や装飾品もなかなか素晴らしいですよ。働き者でいつも皆の手伝いを頑張っているあなたに、私から何か贈ります」
「え、本当ですか!?」
ここは「そんなのいいですよ」と遠慮するところだとは分かっていたのだが、普通に喜んでしまった。だって嬉しい。
買ってもらえるなら服がいいな。動きやすくて可愛いやつ。
「でも急にどうしたんですか? 人間の街へ連れて行ってくれるなんて」
「リフルニツカの気持ちが分かったので、不安がなくなったんですよ。あなたは里に残って――私と一緒にいたい。そうでしょう?」
さっきまで照れていたのに、サイーファスさんは自信を取り戻して強い視線を私に向けてきた。そういうちょっと意地悪そうな顔もかっこいいなぁ。
私の方は相変わらず赤面したまま、
「そうです……」
と小さく答える事しかできなかった。それを聞いてサイーファスさんが満足気に頷き、ピーちゃんは「やっと話がまとまった」とでも言いたげに呆れたように鳴く。
気づけば里に着いていたので、ピーちゃんから降りて綱を引きながら門に向かう。と、ポイガを連れたサイーファスさんが隣に並んだ。
目が合うと恥ずかしくてお互い微妙にそらしてしまう。
「手を」
「手?」
こちらに差し出されているサイーファスさんの手のひらを数秒見つめて、その意図を理解し、また赤面する。
だけど私も心臓をドキドキさせながら、ピーちゃんの綱を持っていない方の手を伸ばし、相手の大きな手に重ねた。
二人で照れながら笑い合って、エルフの里の小さな門をくぐる。
「これからはずっと一緒です、私のリフルニツカ」
「はい!」
そうして、構われたがりなピーちゃんが真ん中に割って入るまで、私とサイーファスさんはずっと手を繋いでいたのだった。
こいつらこれでまだ恋心を自覚してないんだぜ!
この日をきっかけに今まで以上に仲良くなり、手を繋ぐ以上の接触はしないものの、端から見たらいちゃついているも同然の甘い空気を垂れ流し、エカルドたちに「え? まだ付き合ってなかったの?」と突っ込まれる二人。