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リアルファミリー  作者: 冴木 昴
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「変化の兆し-5」

 満開の桜が散り始めると、新芽の緑が病院の敷地に彩りを添えた。鮮やかな新緑は、徹夜明けの目には少々眩しすぎる。勇介は屋上の手すりにもたれて、視線を遠くに向けた。屋上から見る街並みは、まるで箱庭のようだ。春の昼下がり、温かな日差しが住宅街の屋根を照らしている。

 S大病院から、市立総合病院に移って一週間が経つ。初日の当直から始まって今日まで勇介は自宅に帰っていない。

 新入りなのだからと、慣れるために何でも引き受けるようにしていたのがいけなかった。救命の連中は本音と建前の区別もつかないらしい。

「特にあの浅川浩二!」

 昨夜も……。

彼は苦々しい思いで色黒医師の顔を思い返した。


 救急車からの連絡で、通行人を巻き込んだ交通事故の連絡が入った。着任してからずっと仮眠室で暮らしている勇介を気の毒に思った佐竹医局長が「帰っていいよ」と優しく声を掛けてくれた矢先だった。

「運転していた男性は、通行人と接触した後電柱に突っ込んで意識不明の重体です」

 血だらけの患者を運び込んだ救急隊員が報告した。

「よし、オペ室へ! 通行人はどうした?」

 本日の当直である医局長の佐竹が訊ねた。

「通行人二名は軽傷ですが、女性のほうが頭部を打ったようです」

 救急隊員の言葉に勇介は後から運ばれて来た通行人のほうへ行こうとした。

「おっと、北詰ちゃん、早く帰るんだろう? オレが二人診てやるから、キミはいいよ」

「もう帰れよ」とキザったらしくウィンクして、浅川は患者二人と共に処置室へ消えた。勇介はポカンとして彼を見送った。

(オレに気をつかってくれた?)

 患者はオペ室と処置室にそれぞれ入り、勇介はひとり救急の入口で所在無げに突っ立っていた。

「……じゃあ、お言葉に甘えて帰ろう」


 自席に戻って白衣を脱いだところに血相を変えた宮下看護師が駆け込んできた。

「ああ、よかった! 北詰先生、オペのサポートお願いします」

 勇介は眉根を寄せた。今日は外科から若い医師が手伝いに入っていたはずだったが?

「実は先程、浅川先生と手伝いの外科の先生がもめちゃって、浅川先生が外科の先生を追い出しちゃったんですよね」

「なに~!」

 事故をおこした男性患者の緊急オペは四時間にも及んだ。ようやく終了してオペ室から出てきたときには夜の九時を回っていた。そして当然のことながら、軽傷者を担当した浅川は、とっくに処置を済ませて帰宅したあとだった。

(何が「もう帰れよ」だ! お前のせいで外科医が帰っちゃったのに! 自分の方が先に帰ってんじゃねぇか!)

 それでも「今日こそ帰るぞ!」と意気込んでロッカー室で着替えをしていると、医局長が呼びに来た。

「北詰くん、悪いけどまた事故だ……。ホント、申し訳ない」

 胡麻塩頭を深々と下げられては、頷くしかなかった。

 その後、仮眠を取ろうと思ったときにもう一件急患が入り、結局一睡もせずに今に至る、という状態だった。


 勇介はため息をつくとポケットからタバコを取り出した。口に咥えて火をつけようとしたとき、背後にある屋上への鉄扉が開く音がした。振り返ると木村師長の娘の由香が居た。彼女は先客に驚いて固まった。

 優しく見えるように微笑みながら声をかける。

「由香ちゃんだったよね。また木村看護師長を迎えに来たの?」

 彼女はさっと何かを自分のトレーナーの裾に隠した。

「みゃあ」

「え……?」

 彼女のトレーナーの腹の辺りで何かが蠢いた。

「みゃあ」

 じっと見つめていると、彼女は観念したように腹の中からソレを取り出した。

「お母さんに、言わないでください」

 トラジマの仔猫を胸に抱えて由香は哀願するように見上げた。

「そのネコ、どうしたの?」

 訊ねたとき、パジャマ姿の女の子が鉄扉から現れた。由香とたいして変わらない年頃の少女は、勇介と由香を見て表情を曇らせた。

「麻衣ちゃん、ごめん……、見つかっちゃった」

 由香の言葉に、何となく事情が飲み込めた。麻衣ちゃんと呼ばれたパジャマ姿の少女はこちらに目を向け、次いで由香の手の中の仔猫を見つめた。

「いいのよ。由香ちゃんに頼んじゃって、ごめんなさい」

 麻衣は由香の腕から仔猫を抱きとると、愛しげに頬をすり寄せた。彼女は仔猫を抱いて屋上の片隅にあるエアコンの室外機の陰に歩いて行った。由香も彼女の後を追ってゆく。勇介は体を傾けて二人の様子を眺めた。

 少女たちは室外機の陰に置いてあるダンボールの中に仔猫を入れた。二人して額をくっつけ合うように中を覗きこんでいる姿に、思わずフッと笑みがこぼれる。二人は大人たちに内緒で、この屋上に仔猫を飼っているのだろう。

 ふいに由香がこちらを振り返ると言った。

「やっぱり、ダメ……ですよね?」

「あ、ああ……」

 ゆるんだ表情を引き締めて、北詰医師の顔に戻る。入院中の患者が動物に触れて良い筈が無い。麻衣ちゃんという、この女の子が何の病気で入院しているのか知らないが、抵抗力が落ちている患者は、些細な事が原因で思わぬ感染症などを引き起こす。医師としてはこれを黙って見過ごすわけにはいかない。

「そうだね、ここは病院だから動物は飼えないね」

 すると、麻衣が大きな瞳を潤ませて言った。

「ここじゃなければいいの? 病院の外の駐車場とか、そういう所なら、いいの?」

「いや……そうじゃなくて、動物はばい菌があるから、病気の人の体にとって良くないっていう事なんだよ」

「じゃあ、病気じゃない私が……」

 由香が言いかけた時、屋上の鉄扉が開いて木村看護師長が現れた。彼女は険しい顔つきでパジャマの少女と自分の娘を見た。

「お母さん……」

 由香が反射的に立ち上がった。木村師長は小走りで近づいていくなり、由香の頬をピシャリと叩いた。

「あ……!」

 見上げていた麻衣が思わず声を漏らす。叩かれた由香も、何がおこったのかわからないというような顔で母親を見つめている。木村師長は険しい顔のまま低い声で言った。

「捨ててきなさいって、この前言ったでしょう? どうして言う事、きけないの?」

「あたしが! あたしが由香ちゃんに頼んだの。チビを飼ってくれないかって。だから、だから……」

 オロオロしながらパジャマ姿の麻衣が母子の間に割って入ろうとした。

 木村師長は麻衣をそっと脇に避けると、由香に向かって言った。

「麻衣ちゃんは入院患者なのよ。……わかるでしょう? 体力が落ちている麻衣ちゃんが細菌感染でもしたらどうなるか。由香のしている事は、麻衣ちゃんの為にはならない事に、どうして気がつかないの?」

 木村の声がわずかに震えている。由香はポロポロと涙をこぼして「ごめんなさい」を繰り返している。そのとなりで麻衣が青い顔をして立っていた。

 長期入院の子供にとっての毎日はとても退屈で、そして不安な日々だ。家族とも離れて病院のスケジュールに従って暮らす。ドクターが現れるたびに、今日は何の検査だろう? とビクビクする子供たちの顔は、見ている方が辛い。そんな病院の中で偶然友達になった二人が秘密で仔猫を飼う事は、特に麻衣にとって有り得ないくらいにワクワクする出来事だったに違いない。由香もいけない事とわかっていながら、それでも友達の嬉しそうな顔を見てしまったから、きっと断れなかったのだろう。

 木村師長は低いトーンのまま、俯く由香と麻衣に厳しく言った。

「ネコは飼えないわ。わかったら中に戻りなさい。麻衣ちゃんは手洗いとうがいをして、殺菌消毒もすること。いいわね」

 麻衣は俯いたまま小さく頷いた。

 勇介はクルリと彼女たちに背を向けてタバコに火を点けた。背後から不安げな由香の声が聞こえる。

「お母さん、ネコは……どうするの?」

「保健所に相談します」

「でも!」という由香を制して木村師長はビシッと言った。

「むやみに動物を拾ってはいけないの。最後までキチンと責任を持って育ててやれない事がわかっているのに拾ってくるのは、間違っているわ。そんな、無責任な事をするくらいなら、最初から放っておく事が正しいと、お母さんは思うわ」

 勇介は木村師長の言葉にハッとした。


 ――最後まで責任が持てないなら、最初から放っておく事……。


 病院の敷地に植えられた桜に目を向ける。夕闇の中、五分咲きの桜の下を横切ってゆく歩のヴィジョンがふっと脳裏をよぎる。彼と渚をネコに見立てるのは大変失礼な話だが、木村師長の言葉は、勇介の胸に深くじわりと沁み込んだ。

 歩たちはもうマンションに落ち着いた頃だろう。部屋を与えて時々顔を出し、歩と渚を眺めて癒されたい。自分の心の隙間を埋める為に、彼らを手元に置きたいと思うのは、まるで二人の少女と同じじゃないのか?

(オレは最後まで責任を持って二人と付き合ってゆくことが出来るのだろうか。父がしていたのと同じように愛情を注ぎ、末永く慈しんでやることが出来るのだろうか。その覚悟が無いなら、今なら……まだ遅くないのかもしれない……)


 タバコが短くなった頃には、勇介はまた一人、午後の屋上に佇んでいた。


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