「変化の兆し-4」
登場人物が増えてきて、ようやくにぎやかになってきました。
明け方になって、ようやく忙しさが一段落した。勇介は自席に座ってぼんやりと窓のほうを見る。ブラインドの隙間から見える空は朝焼けの金色に染まっている。
昨夜は例の心肺停止の患者以来、重篤な患者は無かった。しかし週末だったせいか、酔った花見客のケガ人やアルコール中毒が多発した。ケガ人はたいした事ないが、アルコール中毒にはまいった。いったい何人の胃を洗浄した事やら。こっちが吐きそうだった。
「北詰先生、来て早々申し訳ないですね」
看護師長の木村女史が熱いお茶を入れてくれた。木村師長は当直では無かったが、新参者を気づかって残ってくれたのだという事はわかっていた。
「心筋症の患者さん、容態は安定してるそうですよ」
「すみませんでした。余計な気を使わせてしまって」
「いいえ。先生こそお疲れでしょう。でも、さすがはS大病院の第一外科の方ですね。これで安心して心疾患の患者さんも受け入れできます」
淹れてもらったお茶をありがたくすすりながら、カルテを整理する看護師長を見た。木村師長は四十歳くらいに見えた。きっちりと髪を結い上げて高い位置で団子状にしている。ナースキャップは寸分の傾きも無い。
(独身かな?)
出会いが無く、忙しい職場ゆえに、S大病院の看護師たちはけっこう独身が多かった。
半分居眠り状態でぼんやりしていると、軽やかな足音が聞こえてきた。
「……お母さん」
医局の入口から遠慮がちな子供の声が聞こえ、勇介はハッとした。見ると小学校高学年くらいの女の子が、小さな男の子をおんぶして立っている。
木村師長が慌てて二人に駆け寄って行った。
「由香ちゃん、どうしたの? お父さんは?」
「お父さん、昨日も病院に泊まりこみで帰って来なかったよ。タケシが起きてからずっと泣いてるから……」
木村師長は困ったような顔で子供たちを見ている。女の子は木村師長に良く似た細面の顔を不安げに曇らせた。
(なんだ……主婦だったのか)
「看護師長、もうあがってください。こっちは大丈夫ですから。ご自宅は、近いんですか?」
子供だけで訪ねてくるのだから、多分自宅はこの近くだろうと思ったが、こちらに気を使っている木村師長を察して、あと一押ししてやった。
「はい、歩いてすぐの所なんですけれど……」
弟が姉の背中から母親を呼んでいる。
「ママ、ママ……」
幼い息子に『ママ』と呼ばれた途端に看護師長の顔が母親の顔になった。
「すみません、北詰先生。お言葉に甘えさせていただきます。春休みだからって、しょっちゅう遊びに来ちゃって……。ホントに、困ってしまいます。昼から出勤しますので」
母の言葉を聞いて、子供たちはニコッと笑顔になった。
由香と呼ばれた長女は、こちらに向かって礼儀正しく頭を下げた。母と同じようにキュッと結い上げたポニーテールがぱさっと揺れる。前に傾いた背中から、弟の顔がチラリと見えた。
ふと、二人の姿に歩と渚を重ねた。弟は渚よりずっと大きい。多分三歳か四歳くらいだろう。それでも母を呼んで泣くのだから、一歳半の渚を抱える歩は、さぞかし大変だろうなと思う。
看護師長は弟のタケシを抱っこすると、深く一礼して医局を出て行った。ドアの側で振り向いた由香に、勇介はとっておきの笑顔で手を振ってみた。彼女は瞳を大きく見開いて、頬を赤らめた。
(うん、まだまだオレのとっておきスマイルも捨てたもんじゃない。ただひとり……例外を除いては)
――鳴沢歩。
彼の心がどうしても掴めない。どういうわけか、歩は勇介が笑顔を向けるほどに表情を硬くするからだ。あの年頃の少年に対して、いったいどういった態度で臨めばいいんだろう?
「……なんかそういうのって、難しいな」
黒髪を掻き回しながらぼそりと独り言を言った。何だかドッと疲れた。父の葬儀以来、ずっと気を張っていたせいだろう。ホッとした瞬間なんて、歩と会ったときぐらいだったから、さすがに疲れが溜まっているのかもしれない。勇介は自席に座って重たいまぶたをゆっくりと閉じた。
どこか耳の奥のほうで救急車のサイレンが鳴ってる気がした。多分幻聴だろう。コールは無いんだから。
「たった一晩の当直でもう居眠りか? S大病院もたいしたことねぇな」
頭の上から降って来たセリフに、ハッとした。勇介はいつの間にかデスクに突っ伏していた。
(もしかして……寝てしまった?)
恐る恐る振り返ると、医局に大勢人が居た。
「ふ~ん、オペ一件……うおお! 心停止かよっ! まあ、着任初日の当直にしちゃ、ちょいとキツかったみたいだな」
勇介の書きかけた当直日誌をめくりながら、色黒の医師がにまっと笑っている。
《浅川浩二》
(……あさかわ こうじ)
色黒医師の白衣の胸についた名札を読み、再び彼の顔に目線を戻す。年齢は自分より年上かもしれない。ガッチリした男性らしいアゴのラインに無精ひげが生えている。色黒なので目立たないのが羨ましい。目が合うと、浅川の少し下がり気味の目が、いっそう細くなった。口元には白い歯がぞろりと勢ぞろいしている。
「いやぁ! なんとまあ、おっとこまえ! 女性陣が大騒ぎするわけだ! いやいや! はっはっは」
(なんだ? コイツ……)
いきなり騒々しい声で笑われて不愉快だった。デスクに座った状態では、見下ろされるのも腹が立つ。勇介は勢いよく立ち上がると、彼の手から当直日誌を奪い取った。
「あ……!」
背後で宮下看護師が息を飲んだ。周囲がにわかにざわめく。浅川医師が日誌を奪われた自分の手元を見て、次いで勇介の顔を再び見た。彼は勇介のほうが、背が高い事に気付いたようだった。一瞬面白く無さそうな顔をしたかと思うと、満面の笑みを浮かべて下品に笑った。
「うひょー、こわ~。美形は睨むと迫力があるねぇ。特に寝不足だと目元が妙に色っぽい」
医局内の緊張が一気に解けた。
がっはっはっは、と笑う浅川を見て安心したのか、皆自分の仕事に戻ってゆく気配がした。日誌の続きを書かなくてはと思い、勇介は彼から目を離した。……その時だった。
「……くっ!」
浅川があろうことかいきなり勇介の股間を掴んだ。
「顔も身長も負けてるけど、ココのサイズは一緒だな。わははは!」
「なっ!」
慌てて振り払ったが、あまりに予想外のことで言葉が出てこない。信じられない!
――この救命の医師は三人……。
医局長の佐竹、自分、そしてコイツかっ!
浅川は満足げにニヤリと笑うと言った。
「あと比べるところは腕だけだな。なっ、北詰ちゃん」
「よろしく頼むよ」と、何事も無かったようにウィンクして、浅川医師は医局を出て行った。しかも、すれ違いざまに医局に入ってきたポッチャリ系のナースの尻をするりと撫でて……。
「きゃあ! 何するんですかっ、浅川センセ」
尻を触られたナースは浅川の背中をビタンと手のひらでひっぱたいた。浅川は下品な笑いを廊下中に響かせた。
(何なんだ、アイツは!)
学生時代から「出る杭は打たれる」のことわざどおり、様々な妬みや中傷を受けたりしたが、浅川のようなタイプは初めてだった。
(相手にしてはいけない! あーいうタイプは、絶対に!)
その日から勇介はS大病院に居たときと同じく、無表情・無愛想の北詰医師に徹することにしたのだった。




