「変化の兆し-3」
「患者は四十六歳男性、宴席で突然苦しみだしたとのことです」
救急隊員からの報告を受けた宮下看護師が報告する。
「一度嘔吐したみたいだから、急性(アルコール中毒)ですかね?」
妙にのんびりとした言い方に、何だか気が抜けそうになる。患者は真っ青になって胸をかきむしっている。
(なんで、胸を……?)
「腹部CT、撮ります」
看護師長の木村女史が患者を処置室へと運びながら言う。何だかもやもやとひっかかるものがあり、勇介は木村の背中に向かって声をかけた。
「すみません、胸部もお願いします」
上がってきたCTを見て、ちょっとブルーになる。
「腸閉塞に、心筋症を併発してる」
「ああ、なんかこの人、酔っ払って変な格好でずっとほったらかされていたみたいです」
宮下が思い出したように言う。たぶん患者は元々腸に疾患があったに違いない。圧迫された腸が閉塞を起こし、それが上部だったため、心臓のポンプ機能に負担がかかったのだろう。
ピーーーーーーー
突然の電子音。室内に緊張が走り、バイタル計にスタッフの視線が集まる。
「先生! VF(心停止)です!」
予想外の事態だった。
(まずい!)
S大病院でのオペは常に予定されていた術式をこなせばよかったが救命は違うのだ。改めてそう思うと、腕に自信のある勇介でも揺らぐものがある。
(まずは蘇生、それから……それから……?)
横たわる患者を見たとき、『医師である北詰勇介』が目覚めたようだった。真っ青な患者の顔が父の姿に重なる。
おちつけ、北詰勇介!
自分を叱咤し、大きく深呼吸した。
「宮下くん、人工心肺準備して!」
勇介は患者に飛びつくと、心臓マッサージを始めた。背後でグズグズしている宮下を怒鳴りつける。
「早くしろっ!」
「それが、PCPS(簡易型人工心肺)しかないんですが、大丈夫ですか?」
「じゅうぶんだろ! 何今さら言ってんだ。サッサと行け!」
宮下は慌てて準備室へと走って行った。
(くそっ! なんでそんな当たり前の事をいちいち確認するんだ)
何だか無性に腹が立ってきた。心マに自然と力が入る。
ピッピッと弱い拍動が帰って来た。
「先生、蘇生! 動き出しました。でもあまり心拍数が上がりません!」
看護師長がバイタルを読み上げる。
オペ室のドアが開いて佐竹医局長が入ってきた。
「北詰くん、PCPS(人工心肺)準備できたよ」
早速患者の容態とCTをチェックした。患者のリスクが少ない方法で、もっとも堅実な治療方法を必死で考える。
「北詰くん、まだ時間内だし、外科から誰か呼ぼうか?」
佐竹医局長が心配そうに言うが、勇介の耳からは外部の音が消えていた。懸命に過去の経験と知識を探ると、頭の中で一つの流れが固まった。いける、そう思う自分がいる。
「いえ、ボクがやります。まず、腸閉塞を処置後心カテ(心臓カテーテル)で外部循環を確保して、それから心臓にかかります」
「どうして?」
「左心室に詰まった血栓を抜くのに人工心肺を使わなくてはいけません。でも、人工心肺を使うにはヘパリン(血液を固まらないようにする薬)投与をしなければならない。腸を後にすると、切開の際、大量出血の可能性があるからです」
セオリーで行けば、当然心臓からだろう。案の定佐竹は難しい顔をした。「賛成しかねる」という表情だ。
勇介は自信たっぷりに聞こえるように言い放った。
「大丈夫、腸閉塞、十分以内でやれます!」
オペ室内がシンとなった。
オペ室から運び出されてゆく患者をぼうっと見送って、大きく息を吐く。助手に付いてくれた佐竹医局長に肩をポンと叩かれて、勇介はようやく身じろぎをした。
「腸閉塞七分三十五秒、記録的だな」
佐竹の胡麻塩頭に汗の粒が光っている。勇介はフッと笑みを漏らした。本当にやれるとは、自分自身思っていなかった。心臓は専門分野だが、それ以外は知識として知っているにすぎない。大学病院とはそういうところだ。
「人工心肺の扱いも慣れているな。本来ならあの患者は心疾患が見つかった時点で、近くの循環器・呼吸器センターへ転送しても構わないくらいだったが」
勇介は驚いて佐竹の顔を見た。
「でも、あのまま転送していたら恐らく患者は助からない」
勇介の言葉に、佐竹は曖昧な笑みを浮かべて言った。
「……私が担当していても助かったかどうか。ならば、確実なセンで、循環器センターへ。とまあ、今までは実際そうしていました」
「今までは……?」
首をかしげる勇介に、佐竹医局長は、今度は満面に笑みを見せて言った。
「北詰先生だから、助かったんですよ。あの患者は本当に運がいい」
――オレだから?
こんな風に言われたのは初めてだった。S大病院では、難易度の高いオペに成功しても、いつもこんな風に個人的に褒められた事は無かった。
『いやあ、さすがは香川先生の愛弟子だけある。よく仕込まれてるよ』
『香川先生の指導はさすがだ』
執刀医は勇介だったが、そういえば術後の評価に「北詰」の名前は出てこなかったっけ。今まで気にしたこともなかった。自分がうまくやれば、香川教授の株が上がる。それでいいと思っていた。それが使命だと思っていた。
でも、今こうして佐竹に「北詰医師」の腕を褒めて貰い、患者の無事を見届けた事で、勇介の中の何かが変わりつつあった。
(S大病院を追われたからって、医者である事に変わりはない。この救命で、どれだけやれるか、一から頑張ってみよう)
患者の家族に容態を説明した後、外科の病棟へ行った。先ほどの患者は救命ではなく、外科のフロアにあるCCUに入れられていたので、駆けつけた家族と共に様子を見るためだ。
渡り廊下を通り、一階に降りていくと風景が変わった。本館に出たのだと気付いた。取って付けたような救命の建物は、別館とは名ばかりのボロい施設だったが、外科のある本館は数年前に建て替えられていたから、まるで別の病院のようだった。ナースステーションに隣接するCCUに入ろうとする勇介の耳に、自分の名前が飛び込んで来た。
「S大病院の北詰だってさ。大学病院だからって、好き勝手してんだろ」
勇介は患者の家族を先に行かせると、そっとナースステーションの中を覗いた。数人のドクターとナースがたむろしている。
「でも、すっごく男前だって聞いたけど?」
背の高いナースが含み笑いをする。
「顔なんて関係ないね。だいたい、まだ時間内なんだから、外科にひと言あってもいいだろう?」
勇介は眉根を寄せた。何の話かよくわからないが、どうやら非難されているらしいと気付く。
「心臓のオペだったら、オレが切りたかったのに」
メガネの若い医師が言うと、看護師の一人が言った。
「いいえ、切ったのは腸閉塞。心筋症は切らずに心カテだけで処置したらしいですよ」
もう一人の小太りの医師がうなずきながら笑う。
「そうだよな。救命にはPCPSしか無いんだから、怖くて切れないんだろうさ。切るような患者はこの辺じゃたいてい循環器センター行きだから、心臓のオペなんて滅多にないもんな」
「外科に回してくれれば、このボクがスパッと切ってやったのに」
彼らの言葉に腹が立ってくる。切らなくてもいい患者は極力切らないのが当たり前だ。それなのに、こいつらは!
(患者を何だと思っているんだ? それにオレはPCPSだけだって、バイパスぐらいやってのける自信があるんだ!)
勇介は足音も高らかに、CCUの扉を開けて中に消えた。
外科から救命に戻ると、宮下看護師が声を掛けて来た。
「あ、あの……北詰先生、……どうぞ」
見ると彼は缶コーヒーを差し出している。彼のおどおどした目つきは気にはなったが、とりあえず受け取ると礼を言った。
「ありがとう」
宮下は何故か頬を赤らめたかと思うと、ニッコリと笑った。
「当直、よろしくお願いします」
「こちらこそ」と言って会釈し、与えられた自分のデスクに向かおうとすると、背後に気配を感じた。振り返ると宮下がニコニコしながらついてくる。
(……ああ、コーヒー、おごりじゃないのか)
ポケットをあさると五百円玉を手渡して、「釣はいらない」と言ってやった。宮下はブンブンと首を左右に振ると、
「ココへ来て三年、PCPS使うの、初めてです。それにさっきの腸閉塞オペの早さと言ったら……。俺、感激しました」
「え……?」
首をかしげる勇介に宮下はうっとりした表情で言った。
「北詰先生が来てくれたおかげで、もう俺たち肩身の狭い思いをしなくて済みます」
何だか良くわからないが、感謝されて悪い気はしなかった。
それにしても、さっきは外科で非難され、救命では救世主扱いをされて……。いったいこの病院で何がおこっているのだろう。
その理由は当直の合間に宮下が(頼みもしないのに)すべて説明してくれた。
「さっきはみっともない所をお見せして、申し訳ありませんでした」
「さっきって?」
救急車を断ろうとしたときの事だと彼は言った。
「ベテランの先生が先月お辞めになってから、外科の若い先生方が交代でヘルプに入ってるんですが……」
宮下は悔しそうに唇を噛む。
「あの人たち、こう言うんです。『俺たちは外科医だから、オペの患者以外は診ないよ』って……。そんなのって、おかしいですよね」
だから軽傷の患者を断ろうとしたのか。勇介の頭の中に、さっき外科のナースステーションでたむろしていた若い医師たちの顔が浮かんだ。
(あいつらか……)
「医局長は外科と揉め事をおこすなって言うし、今日はもう一人の救命医の浅川先生もお休みだったから、仕方なく……」
『外科医は切ってナンボ』そんな事を考えていた時代が、たしかに自分にもあったな、と苦笑いしながら彼の話を聞いていた。院長までヘルプに入っているくらいだから、本当にココの救命は人手不足なのだろう。
「じゃあ、実質この救命専門の医師は何人なの?」
「北詰先生を入れて三人です」
……死ぬ、マジでそう思った。三人という事は三日に一回の割合で当直があるということだろう。
はあ……知らず知らずに大きくため息をついていた。また救急車からのコールが鳴った。
「花見や祭りの時期は夜が忙しいんですよ。急性アル中やケンカのケガとか」
宮下はさっきとは別人のように嬉々として受話器に走って行った。
都心の病院ではないから、運び込まれる患者の件数はそれほど多くはないようだが、それでも医師三人で対応するのはかなりキツイだろうと思った。
(まあいいや。どうせ家には遠くて帰れないし。慣れるまで、とことんやってみるさ)




