1. 悪役令嬢、王家の胃袋を掴む
パルハニミエ公爵の息女アマリアが前世の記憶を思い出したのは十二歳のとき。十代前半の年若い貴族の子女を集めて行われる王宮でのお茶会の席で、第二王子クラウスを暴漢から庇って重症を負ったときのことだ。
その暴漢は城勤めの使用人で、何代か前に没落して爵位を返上した家の末裔だった。貴族の血を引く己が使用人に身を窶しているというのに、苦労を知らない子供たちが無邪気に豪奢なお茶会を楽しんでいるという事実が耐え難く思っての犯行だったらしい。
暗殺者とも呼べぬ代物だったその青年は、テーブルの上のデザートナイフを凶器に子供たちを襲った。食器とはいえ大人が本気で振るえば十分な凶器になる。運悪く一番近くにいたのがクラウスで、その顔目掛けて振り下ろされた凶器から咄嗟に彼を庇ったアマリアは、肩口から背中に掛けて大きな傷を負った。
それは夏のことで、薄着で首回りの肌が無防備だった流行りのドレスが仇となった。幸い青年はすぐに取り押さえられて二度目の攻撃は免れたものの、大人の男が力任せに切りつけた肌には傷跡が残ってしまった。
決して鋭利とはいえないデザートナイフで素人が斬り付けた傷口はひどく粗く、そのために治癒魔法でさえ綺麗には治せなかった。
未婚の娘、それも貴族の娘にとっては致命的だ。婚姻に障りが出るほどの傷で、そのショックでしばらくの間床から離れられなかった――というのが表向きの理由になってはいるが、事実は異なる。
ショックはショックだ。しかしそれは良縁が望めなくなるからという理由ではなかった。唐突に前世というものの記憶を思い出したからだ。
あのとき、振り下ろされるナイフを見た瞬間、強烈な既視感に襲われた。
(あれっ、このシーンどこかで見たことがあるな?)
そう思った直後から次々に溢れ出すアマリアのものではない記憶の奔流に押し流され、その混乱から床に臥すことになったというのが正しい。
二週間掛けてようやく前世と今世の自分を融合させたアマリアは、王宮の客間に用意されたベッドに沈んだまま「やべぇな」と呟いた。自分がとある小説の悪役であると気付いたからだ。
空き時間にサクッと読める異世界もののライトノベルには通勤中大層世話になったが、まさか不慮の事故死を経てその中の一つに転生するとは思わなかった。
物語の世界に転生とか一体どういう原理なのか。
存在するかどうかも分からぬ神を小一時間問い詰めたい気分にもなったが、それどころではないのも事実である。
なにしろ「白薔薇と赤薔薇、その光と影」の「赤薔薇」、悪役令嬢アマリア・パルハニミエだ。
一生消えぬ傷を盾に憧れのクラウスの婚約者に収まったものの、その座を脅かす才女を貶めた挙句にクラウスにも家族にも見放され、王国から追われる悪役令嬢アマリア。
その末期は物寂しいものだ。
華やかな貴族の生活から一転、平民に落とされたアマリアは、名前を変えて再出発しようと努力する。
しかし、どうにか隣国で家庭教師の職を得て働き始めるも、教え子を暴走する馬車から
庇って致命傷を負い、呆気なくこの世を去ることになる。
二度も身体を張って誰かを救ったのに自分だけが割を食うだなんて冗談ではないし、そのうえ前世に引き続き事故死だなんて御免被りたい。
そんなわけでなんとか穏便に事を済ませたいと思っていたアマリアだったが、なんと寝込んでいる間にクラウスとの婚約が決まってしまっていた。
周囲の年嵩の子供たちが危急の事態に硬直する中、たった十二歳の少女が見せた度胸とクラウスへの献身はいたく国王夫妻を感心させた。クラウス自身も深く感じ入って是非にと望んだということである。
婚約回避なんてしてる間もなかった。
どういうことだ。
悪役令嬢アマリアは、一生消えぬ傷を盾に婚約を迫ったのではなかったか。迫るどころか先方が望んで決定事項になっているではないか。
「うーん、小説の世界に転生っていっても、なにもかもが小説通りとは限らないか。考えてみたら記憶が戻る前の私も、別に王子との婚約を狙ってたわけではなかったし」
ベッドを降りて、すっかり体力が落ちてふらつく足で鏡の前に立つ。
そこに映っているのは白磁の肌に見事なストロベリーブロンドの美少女。けれども小説の挿絵で見た、勝気で生意気そうな顔立ちではない。
――柔和で無害そうな、年相応の表情を浮かべる少女の顔だ。
「……うん、ま、あんまり深く考えないようにするか。できる限り破滅回避の努力はするにしても、自分一人でできることなんてたかが知れてるし」
小説とは似て非なる世界。人間関係だって小説とは全然違う。ならば、来るかどうかも分からない未来のために思い悩むなど時間の無駄だ。
そんなふうに思ったアマリアは、楽観的に生きることにした――と言いたいところではあるが、未来の諸々よりも切実な問題に直面していた。
――二度と味わうことのできない和食への渇望。味覚のホームシックである。
前世と今世の自分の融合を果たした結果、どうやら三十余年生きた前世の比重が多くなったようで、味覚的嗜好がそちらに寄ってしまったようだった。
だというのに肝心の物がないのだ。
料理長が心を込めて作った日々の食事に決して不満があるわけではない。しかし、三十余年慣れ親しんだ味には敵わない。素朴ながらも豊かだった、あの日本の食事にはとても。
しかし、再現してみようにも米はぱらりとした長粒種しかないし、味噌や醤油なんてものは存在しない。できる限り似せたものを作ろうにも、貴族の十二歳女児ではできることなどたかが知れている。せいぜいが焼鮭か塩唐揚げくらいだ。ガツンと生姜とニンニクを利かせた醤油味の唐揚げなんて夢のまた夢。
「あっそういえば豚カツはできる……けど駄目だ、犬印のソースがない! 芋と鮭はあるから三平汁ならなんとか……いや、出汁用の昆布も鰹節もないな。でもせめて味噌汁……味噌汁が飲みたい……ワカメと豆腐のやつ……! 豚汁でもいいな……」
完全に和食の舌に戻ってしまったアマリアの、懐かしい料理への渇望は日増しに募るばかり。一年が過ぎる頃には禁断症状の域に達しつつあった。
日本人を殺すなら醤油と味噌を封じればよいという誰かの言葉は正しかった。
思い余って何をしたかと言えば、屋敷の書庫や王宮図書館に入り浸って文献探しである。アジアに近い文化を持った大陸東方。そこにあるかもしれない食材を探すためだ。
妃教育の合間を縫って図書館に足繁く通い、東方方面の地理文化や外交、貿易関係の書物を読み漁る様子に「さすがは殿下のご婚約者にして外務補佐官のご息女。熱心ですな」と、婚約の経緯のこともあって評判は鰻登りだったが、まさかその内心が異世界の料理まみれになっているなどとは思うまい。
遊ぶ間を惜しんで通い詰めた結果、醤油と味噌と思しき調味料が東方の水穂皇国にあるらしいという情報だけはどうにか得ることができた。できたが、東方への航路は開通してまだ数年と日が浅く、東方諸国との国交樹立はこれからという段階であった。
そこから西方人にとってはかなり癖が強いあれらの調味料が普及するまでに、あとどれほどかかるのか。
「年単位、下手すれば数十年単位でお預け。これは詰んだ……」
と絶望したところで、父からまさかのタレコミがあった。
外ではきりりとしている父は、すっかり寛いだ自宅モードのゆるふわ口調で言った。
「東方の水穂皇国から親善の証にって、王家宛に珍しい食材とか贈ってくれたんだけどね。一応レシピ付けてくれたんだけど、馴染みがないからどうにも口に合わなくてどうしたものかなって」
確かに、味にも香りにもかなりの癖がある。
しかしその贈り物が、彼らが最上級の礼儀を尽くしたものだということは分かっていた。
それに珍しいものとあって王家の面々も諦めきれず、各家の家政を預かるご夫人方に何か良い案はないものかと相談があったらしい。
「お、お父様……」
これは大チャンスではなかろうか。
ごくりとつばを飲み込んだアマリアは、震える声で訊いた。
「目録とレシピ、拝見してもよろしいかしら」
「勿論だとも」
各国を渡り歩いて多様な価値観に触れてきた父は、先進的な考えの持ち主だった。だから、子供だと言う理由でアマリアの言葉を無下にはしなかった。
快く見せてくれたレシピの写しに目を走らせたアマリアは、喜びのあまり快哉を叫びそうになった。添えられた説明から察するに、贈り物の内訳はほぼ間違いなく醤油と味噌である。よくよく見れば、米酒や味醂、昆布らしきものもあるようだ。
「ぃよっしゃぁ!!」と喉元まで出かかった叫びをどうにか呑み込んだアマリアは、緩んだ表情を引き締めると努めて冷静に言った。
「お父様。もしかしたら、王家の方々のお口に合うようなレシピを提供できるかもしれませんわ。少し心当たりがございますの」
娘のただならぬ様子を真剣な眼差しで見つめていた父は、子供の戯言や思い付きではないと察してくれたようだった。ここ最近のアマリアの様子から、何か思うところもあったらしい。
彼は快く頷いてくれた。
「じゃあ分けてもらうから、やってみなさい」
――結論から言えば、アマリアのレシピをもとに作られた料理は大好評であった。アマリア自身も懐かしの味に大満足だ。
添付されていた皇国のレシピは、素材の味を活かしたものばかり。味噌や醤油の風味がダイレクトに伝わる料理は、馴染みのない王国人には厳しいとアマリアは判断した。
まず味噌汁や漬けマグロなど無理であろう。前世の世界でさえ欧米諸国に和食が普及する前は、「腐った豆の汁」だの「虫の汁漬け」だの酷い言われようだったのだ。
そこでアマリアが用意したのが、下味や隠し味として使うレシピだ。
味噌を隠し味にしたじゃが芋のポタージュにグラタン、茸と茄子とベーコンのバター醤油炒め、生姜を利かせた醤油味の唐揚げ。味醂は敢えて調味料としては使わず、食前酒として出した。デザートはミルクアイスの味醂がけ。
それらの料理を王家の食卓で披露した試食会は、絶賛であった。
王妃と皇太后は食前酒とデザートの甘く濃厚な味わいにキャッキャウフフと楽しげであったし、王女は苦手な茸と茄子をモリモリと食べて周囲を驚愕させた。
領地で芋類の研究をしている王弟とその子息は深く感じ入るようにポタージュとグラタンを味わっていたし、王と二人の王子などは唐揚げに首ったけで、ほとんどそればかり食べていたように思う。しまいには最後の一つを巡って牽制し合う始末で、普段は厳格な王も「すまぬがもう一皿……いや、二皿追加で。ついでに冷えたエールをジョッキで」と居酒屋で注文でもするような調子でお代わり要求をした。
どう考えても城下の居酒屋に通い慣れている物言いであったが、そこは突っ込まないことにした。
「素晴らしい」
零れ落ちた衣の欠片はおろか、皿に残ったバター醤油ソースまで名残惜しそうにパンで拭い取ってきっちり腹に収めた王は、まず一言そう言った。
「我らには馴染みのない調味料をこれほどまでに使いこなすとは。これならば皇帝一家を歓待する晩餐会でも喜ばれるであろうな。アマリア嬢、このところは随分と熱心に東方の文献を読み込んでいたとも聞いている。勉強熱心なことでなによりだ。公爵、娘御の将来がまことに楽しみであるな」
「恐縮です」
同じく試食会に招かれていた父は満更でもなさそうに微笑み、両親に婚約者を認められたクラウスは得意げに頬を染めた。
後日、クラウスはアマリアに単刀直入に訊いた。
「それにしてもさ、あの料理、ちょっと完成し過ぎじゃないかなって思ったんだけど。そこんとこどうなの?」
「単刀直入過ぎる」
苦笑いしたアマリアは、正直に――といっても一部は伏せたが――白状した。
「こんなこと言ったら信じてもらえるか分からないけれど。多分わたくし、前世は東方の人だったのだと思うの。あのお茶会の後でしばらく寝込んでいたでしょう。そのときに随分と鮮明な夢を見たの。東方で暮らしていて、色んな料理を作ったり食べたりしている夢よ」
「今までに読んだ本や聞き知った話を夢に見たのではなく?」
「どうかしら。それまでは東方のことなんて、正直あまり興味もなかったもの。だからもしかしたらそうなのかしらって思っただけよ。そうじゃないと説明つかないでしょう。東方どころか自国の料理すら作ったことがない貴族の女の子が考えたにしては、びっくりするくらいにしっかりしたレシピだったでしょ、あれ」
「それはまぁ……うん」
大人たちは熱心に勉強した成果だと思っているのだろう。けれども常日頃からアマリアと一緒に過ごしているクラウスは、ある種の違和感を感じていたに違いなかった。
なにしろ彼も文献探しに付き合ってくれていたのだから。その中に参考になり得るようなレシピが記載されていた記憶は、クラウスにもないはずだ。
彼は何か深く考え込むような仕草をしながら、しみじみとアマリアを見つめた。
「なるほどなぁ……前世、かぁ。何かの拍子にそういう記憶を思い出すことがあるって話は、俺も聞いたことはあるよ。それがアマリアの身に起きたっていうのは、なんというか色々考えちゃうけど」
「おかしなこと言うって思った?」
「うーん、全部信用できるかっていうと正直分からない。でも」
そこで一度言葉を切ったクラウスは、まっすぐにアマリアの目を覗き込み、そして柔らかく微笑んだ。
「試食会のときにさ。君、食べながらなんだかすごく懐かしい人に会ったような顔してたんだ。嬉しそうな、でも切なそうな……もう二度と会えないと思ってた人に会ったような、そんな顔。食べ慣れた味にようやく再会できたみたいな顔って言ったらいいのかな。だからさ、案外本当なのかもなって思ってる」
「……そっか」
あのとき自分はそんな表情をしていたのかと驚くと同時に、アマリアの胸はほんのりと温かくなった。
思っている以上にクラウスは自分を見ている。見て、くれている。
「――ね、アマリア。また何か美味しい料理のこと思い出したら、作ってくれる?」
「勿論よ」
アマリアは笑った。
思いがけず、王子様の胃袋まで掴んでしまったようだ。
その後もクラウスとの交流は続いた。勿論王家とも、主に東方料理を通じて懇意にしていただいている。
そして児童期を脱したアマリアは自ら調理することを許されるようになり、そのうちにクラウスの「弁当」まで作るようになってしまった。さすがに毎日は大変なので曜日を決めての弁当作りだったが、婚約者自ら自分のためだけに作ってくれた弁当は、多忙な王子の数少ない楽しみの一つになった。
――そして二人が十六歳になる年。
ユカライネン学院――社交界に出る直前の上流階級の子女に、教育の最終仕上げを施すための教育機関だ――に入学することになる。
小説「白薔薇と赤薔薇、その光と影」本編の幕開けである。
海外では醤油が虫の搾り汁みたいだなんて敬遠されていた時代もあったのに、今や皆さん寿司に醤油たっぷり付けて召し上がるんですな……(;´Д`)




