第56話
ある日の、午後だった。
ローザは、ひとり、宮廷の庭園にいた。手入れの行き届いた花壇に、いまは、薬草も植えられている。ローザが、自らの手で育てたものだった。
色とりどりの花の間に、慎ましく葉を広げる薬草たち。華やかさはないが、人を癒す力を秘めた、ローザの大切な草花だった。それは、どこか、ローザ自身に似ている気もした。
その傍らのベンチに腰かけ、ローザは、膝の上に、一冊の古びた書物を広げていた。
母の、薬草書だった。
肌身離さず持ち歩いてきた、母の形見。偽りの花嫁となった夜も、皇帝の命を救った夜も、いつも、この書が共にあった。
ローザは、そっと、その頁を撫でた。
異国を巡り、多くの知識を遺した母。家では「らしくない」と疎まれ、その娘であるローザもまた、長く居場所を持てなかった。
けれど――。
「お母様」
ローザは、空を見上げて、語りかけた。
「あなたが遺してくださったものが、たくさんの人を救いました。そして……私自身をも、救ってくれたのです」
風が、優しく、庭園を吹き抜けていく。
母の顔は、もう、おぼろげにしか思い出せない。けれど、この薬草書の頁を繰るたびに、母の声が、聞こえてくるような気がする。よく学び、よく人を助けなさい。そう、語りかけてくれているような。母の遺した言葉と知恵は、いまもなお、ローザの中で、生き続けていた。
かつて、ローザは、自分には何の価値もないと思っていた。誰の役にも立てない、空気のような存在だと。
だが、いまは違う。
母から受け継いだ知識で、皇帝の命を救い、陰謀を打ち砕き、多くの民を癒やした。誰かの身代わりとしてではなく、ローザ・フォン・アーベラインという、一人の人間として。
ローザは、自分の指先を、見つめた。
令嬢らしからぬと言われた、まめのある手。かつては、恥じることもあったかもしれない、その手。けれど、この手こそが、母から受け継いだものの証であり、たくさんの命を救ってきた、誇るべき手だった。
婚礼の夜、皇帝に見破られる、きっかけとなった手。その手が、いまでは、ローザの誇りそのものになっている。隠す必要など、もうどこにもない。この手で、これからも、たくさんの人を救っていける。そう思うと、ローザの胸は、静かな喜びで満たされた。
その時、背後から、足音が近づいてきた。
「ここにいたのか」
皇帝ジークハルトだった。
ローザの隣に腰を下ろし、彼は、優しく微笑んだ。かつての冷たさは、もう、その顔にはなかった。
「母君の書か」
「はい。少し、お話ししておりました」
ローザが微笑むと、皇帝は、そっとその肩を抱き寄せた。
「ローザ。お前は、私の、何よりの宝だ」
その言葉に、ローザの胸が、温かく満たされた。
かつて、この人は、誰も信じられなかった。誰のことも、宝などと呼べなかっただろう。その人が、いま、心からの言葉で、ローザをそう呼んでくれる。二人が歩んできた道のりのすべてが、その短い一言に、込められていた。
偽りの花嫁として、震えながら輿入れした、あの嵐の夜。
看破され、契約を交わし、密かに毒を解いた日々。
想いを通わせ、共に陰謀と戦い、命を救い合った、すべての時間。
そのすべてが、この、穏やかな幸せへと、繋がっていた。
ローザは、母の薬草書を、そっと胸に抱いた。そして、愛する人の肩に、静かに頭を預けた。
二人を、暖かな陽光が、優しく包んでいた。
偽りから始まった物語は、こうして、本物の愛と、確かな居場所という、何よりの結末を迎えたのだった。
もう、誰の代わりでもない。
ローザは、ローザ自身として――この国の、本物の皇妃として、生きていく。




