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身代わり花嫁は、皇帝陛下に正体を知られている  作者: 小林翼


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第21話

 ローザは、皇帝の問いに、しばし答えられずにいた。


 本当の名。それは、輿入れ以来、ずっと封じてきたものだった。姉の名を騙り、自分の名を捨てて、ここまで生きてきた。その名を、自ら口にするのは、いつ以来だろう。


 告げてしまえば、もう後戻りはできない気がした。けれど、この人の前でなら、偽らずにいたい。ローザの心は、すでにそう決まっていた。


 ローザは、ゆっくりと顔を上げた。


「ローザ、と申します」


 声は、わずかに震えていた。


「ローザ・フォン・アーベライン。それが、私の、本当の名でございます」


 名乗った瞬間、胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。長く押し殺してきた自分が、ようやく息を吹き返したような、そんな感覚だった。


 たった一言、自分の名を告げただけ。それなのに、これほど胸が満たされるとは思わなかった。誰かに名前で呼ばれること。それがどれほど尊いものか、ローザはこのとき、初めて知った気がした。


 皇帝は、その名を、かみしめるように繰り返した。


「ローザ」


 彼の口から漏れた、その響き。


 書面で知った名ではなく、彼女自身が告げ、彼自身が呼んだ名。それは、これまでとはまるで違う、温かな意味を帯びていた。


「いい名だ」


 皇帝は、静かに微笑んだ。


 冷たい皇帝の、初めて見せる、心からの笑み。ローザの胸が、痛いほどに高鳴った。


「これからは、二人のときは、その名で呼ぼう。お前は、ヴィオレッタではない。ローザだ」


 その言葉が、ローザの心を、深く打った。


 ずっと、姉の影として生きてきた。家でも、宮廷でも。けれどこの人は、影ではない、自分自身を見て、その名を呼んでくれる。たったひとり、この人だけが。


「……ありがとう、ございます」


 ローザの目に、涙がにじんだ。


 嬉しさと、そしてかすかな切なさが、入り混じった涙だった。なぜなら、自分はあくまで偽りの皇妃。この穏やかな時間も、いつかは終わるのだから。


 いつか姉が戻れば。あるいは、正体が露見すれば。この場所に、自分の居場所はなくなる。だからこそ、いまこの瞬間が、宝物のように愛おしく、そして、ひどく脆く感じられた。掴もうとすればするほど、指の間からこぼれ落ちていくような。


 そんな物思いを断ち切るように、その夜は更けていった。


 翌朝のことだった。


 ローザのもとに、思いがけぬものが届いた。


 一通の、手紙だった。


 差出人の名はない。けれど、その筆跡に、ローザは見覚えがあった。胸が、ざわりと騒ぐ。


 震える手で、封を開ける。短い、走り書きのような文面。だが、その筆跡は、紛れもなく――。


「お姉様……?」


 失踪したきり、行方の知れなかった姉ヴィオレッタ。その姉から、初めて届いた、便りだった。


 文面は、要領を得なかった。何かを伝えようとしながら、はっきりとは書けずにいる。そんな、もどかしさの滲む文字だった。まるで、誰かの目を恐れて、言葉を選んでいるかのように。


 なぜ、いま。どこから。どうやって。


 いくつもの疑問が、ローザの頭を駆け巡る。


 手紙を握りしめるローザの手が、小さく震えた。


 偽りの皇妃として、ようやく心の置き所を見つけ始めた、その矢先。捨ててきたはずの過去が、姉という形をとって、再びローザの前に現れようとしていた。


 穏やかだった日々に、新たな波紋が広がり始める。


 あれほど案じていた姉が、生きている。その安堵と同時に、得体の知れぬ不安が、ローザの胸を満たした。この手紙は、いったい何を告げようとしているのか。そして、姉はいま、どんな境遇に置かれているのか。


 ローザは、姉の手紙を見つめたまま、しばし立ち尽くしていた。


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