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身代わり花嫁は、皇帝陛下に正体を知られている  作者: 小林翼


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第1話

 その夜、空は裂けるように荒れていた。


 窓を叩く雨と、地を揺らす雷鳴。アーベライン伯爵家の屋敷は、嵐に呑まれているかのように、絶えず軋み続けていた。


 皇帝のもとへ嫁ぐため発つ日を、三日後に控えた夜のことだった。


 ローザは廊下の隅で、息を殺していた。冷えた壁に背を預け、両の手を胸の前で固く握り合わせている。乱れた足音と、押し殺した怒号が、姉ヴィオレッタの寝室のほうから絶え間なく漏れ聞こえてくる。蝋燭を手にした使用人たちが、誰もが血相を変えて、暗い屋敷の中を右へ左へと駆け回っていた。


 何かが起きている。それも、取り返しのつかない、何かが。


「いない……ヴィオレッタ様が、どこにもいらっしゃいません……!」


 侍女の悲鳴じみた声に、屋敷中が凍りついた。


 姉が、消えた。婚礼を目前にして、跡形もなく。


 ローザの胸の奥で、嫌な予感が冷たく広がっていく。姉の輿入れは、辺境の伯爵家を皇室につなぎとめる、ただ一本の細い綱だった。その綱が、いま、音もなく断ち切られようとしている。


 ほんの数刻前まで、姉は何ひとつ変わらぬ様子だった。それが、衣装も装飾品もそのままに、本人だけが煙のように消えてしまったという。攫われたのか、それとも自ら去ったのか。誰にも、分からなかった。


 父の書斎には、青ざめた家令と、震える侍女たちが集められていた。卓の上には、姉の私室で見つかったという書き置きが一枚だけ。だが、そこに記された文字は乱れた走り書きで、行き先も、理由も、何ひとつ判然としなかった。


「駆け落ちだと……? この、よりにもよって、この時に……!」


 父の声は、怒りよりも、恐怖に近かった。


 皇帝への約束を違えれば、それは帝室への裏切りにも等しい。アーベライン家は、取り潰されても文句は言えぬ立場だった。父の額には、びっしりと脂汗が滲んでいる。


 ローザは部屋の隅で、ただ立ち尽くしていた。


 いつものことだった。家の一大事に、誰も次女の存在など気に留めはしない。地味で、目立たず、空気のように扱われて育ってきた娘。それが、ローザという人間だった。


 だからこそ――父の視線が、ふいに自分のほうへと向けられたとき、ローザは我が耳を、いや、我が目を疑った。


 父は、何かに取り憑かれたような目をしていた。一度ローザを見つめ、それから値踏みするように頭の先からつま先までをゆっくりと眺め、もう一度、その顔をじっと見据えた。


「……ローザ」


 低く、掠れた声だった。


「お前、姉と背格好が似ているな」


 言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。


 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。雷光が窓を白く染め、父の顔を一瞬だけ照らし出した。その表情に浮かんでいたのは、追い詰められた者だけが見せる、捨て鉢な決意の色だった。


「家を救えるのは、もう、お前しかおらん」


 ローザの指先から、すうっと血の気が引いていく。


「お前が行け、ローザ。姉の代わりに――皇帝陛下のもとへ、嫁げ」


 雷が、屋敷を大きく揺らした。


 ローザは、声を失ったまま、父を見つめ返すことしかできなかった。喉の奥が、からからに乾いていた。何か言わなければと思うのに、唇は震えるばかりで、言葉にならない。


 冷酷無比と噂される、若き皇帝。その正体も、人となりも、ローザは何ひとつ知らない。知っているのは、ただひとつだけ。


 偽りの花嫁が皇帝に見破られれば、その先に待っているのは、死だけだということ。


 窓の外で、嵐はいよいよ激しさを増していく。逃げ場のない夜が、静かに、けれど確かに、ローザという小さな娘を、ゆっくりと呑み込もうとしていた。


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