第2話
アーベライン家において、ローザの居場所はいつも端のほうにあった。
姉のヴィオレッタは、輝くばかりの美貌の持ち主だった。両親の愛も、屋敷の華やぎも、すべては姉のためにあった。次女のローザは、ただ静かに、その影に隠れて生きてきた。
誰も、ローザに多くを期待しなかった。叱られることも、褒められることもなく、ただ忘れられたように、日々は過ぎていった。
けれど、ローザには、ひとつだけ大切なものがあった。
亡き母の、形見だった。
母は、この家では少し変わった人だったらしい。異国を渡り歩き、薬草と医術の知識に深く通じていた。そのせいで、母は屋敷の中で“異物”のように扱われていたのだと、ローザは後になって知った。
母が遺したのは、一冊の古びた薬草書。びっしりと書き込まれた処方と、丁寧に挟まれた押し花。そして、薬草をすり潰すための、使い込まれた乳鉢だった。
異国の文字も交じるその書は、ローザにとって、母そのものだった。会ったときの記憶はもう薄れかけているのに、頁を繰るたびに、母の声が聞こえてくるような気がするのだった。
ローザは、その書を心の支えに育った。
誰にも顧みられぬ日々の中で、薬草の名を覚え、効能を諳んじ、母の遺した処方を一つひとつ試した。乳鉢で薬草をすり潰す時間だけが、ローザにとって、自分が自分でいられる時間だった。
そのせいで――令嬢にはあるまじきことに、ローザの指先には、硬いまめが刻まれていた。
絹のように白く、傷ひとつない姉の手とは、まるで違う手。けれどローザは、この手を恥じてはいなかった。これは、母から受け継いだ、確かなものの証だったから。
その夜、ローザは自室で、その薬草書を胸に抱いていた。
窓の外では、嵐がまだ続いている。父の言葉が、耳の奥でいつまでも反響していた。
――お前が行け、ローザ。姉の代わりに、皇帝陛下のもとへ嫁げ。
恐ろしかった。正体が露見すれば、待っているのは死だ。冷たい寝台の上で、ローザは何度も寝返りを打った。逃げ出してしまいたいと、心のどこかが叫んでいる。それでも。
ローザは、ゆっくりと顔を上げた。
この家が取り潰されれば、純朴な侍女たちも、長年仕えてきた家令も、路頭に迷うことになる。守りたいものが、ローザには確かにあった。たとえ、自分を顧みなかった家であっても。
「……行きます」
翌朝、ローザは父にそう告げた。
声は震えていたが、決意は揺るがなかった。父は一瞬、何かを言いかけて、結局は黙って目を伏せた。その横顔に浮かんだのが、安堵だったのか、罪悪感だったのか、ローザには分からなかった。
そうして、輿入れの支度が、慌ただしく始まった。
姉の名を騙り、姉の衣装を纏い、姉として帝都へ向かう。ローザは、自分の名前さえも、置いていかねばならなかった。
旅立ちの朝。
ローザは、わずかな荷物の中に、母の形見の薬草書を、誰にも気づかれぬよう、そっと忍ばせた。
他の何を失っても、これだけは手放せない。これだけが、偽りの花嫁となる自分を、それでもローザ自身として繋ぎとめてくれる、唯一の糸だった。
馬車の扉が、重い音を立てて閉じられる。
御者の鞭がしなり、車輪がゆっくりと回り始めた。住み慣れた屋敷が、窓の向こうで少しずつ小さくなっていく。見送る者は、ほとんどいなかった。
ローザは、胸の薬草書をぎゅっと抱きしめた。
冷酷な皇帝が待つ、帝都へ。
偽りの花嫁を乗せた馬車は、もう二度と戻れぬ道を、まっすぐに進み始めていた。




