そろそろ諦める頃合いのようで。
「――開けないの?」
私の手を握ったまま、優吾が私が握っている小さな赤い箱をちらりと一瞥する。
「うーん。中身の想像ができるからさぁ……」
プロポーズに合わせて渡される小さい箱なんて、中身を見るまでもなく誰だって想像できるはずだ。
だからこそ、これをおとなしく受け取るべきかどうかっていう、迷いがなぁ。
「いやいやいやっ。そもそも私は結婚を取りやめるために家を出たんですけど?」
なに迷うって。なに考えてんの私。
あほなことを考えそうな自分自身に私は首を横に振る。そんな私を見て優吾は小さく笑い。
「それは違うんじゃない? 契約を破棄したから出て行ったんでしょ? 僕との結婚が嫌だったわけじゃなくて、不安だっただけだもんね?」
「う……ん?」
優吾の言葉に、頷きそうになって私は慌てて首を横に倒す。
言われてみれば確かにそうなんだけど、いや、でも、うーん。もう何について悩んでいるのかさえ分からなくなるほど、私の頭の中はぐちゃぐちゃになってきていた。
優吾と別れたい。でも、それ以前に付き合ってない。契約は破棄した。けど、私は優吾に結婚を迫られてて。今の生活は苦じゃない。けど、優吾と過ごしたあの毎日は、確かに……。
「あのさ。難しいことは一先ずおいておこう。頭を空っぽにして、もっと単純に言葉を出してみてよ」
ね? と優吾にそう笑顔で言われても、どうすればいいの?
「すごく簡単なことさ。僕と一緒に過ごした日々を思い出して――」
優吾にそう言われて、思い出すのは最初のこと。
カフェオレをぶちまけて、笑顔のこいつとぶっ飛んだ契約を交わす羽目になった。
そう言えば。
「あれ。あの時、優吾のスーツにごちそうしちゃったあの飲み物。ショコラミルクフロート・オレっていうんだけど、結局は食べ損ねてそのままだったのを思い出したよ」
「ああ、あの時か。あれは衝撃的な出会いだったね。今後もあの時以上の『ときめき』は味わえないと思ってるよ」
優吾はそう言うとおかしそうに笑う。
「ときめきってなによ?」
「ん? あの時の春乃の青い顔ったら、今思い出してもかわいらしかった」
「おいっ」
「いや、本当に。真っ直ぐ僕を見つめる君のキラキラと輝く純粋な瞳にドキリとさせられた。真剣に僕に謝る君の誠実な声に、こぼれた甘い香りがあいまって、本当、何もかもがスイートだったんだ。まるで物語の中に入り込んでしまった気分になった」
「なにそれ。そんな恥ずかしいこと考えてたのっ」
さすが雅臣さんの息子だよっ。なんかお前の頭の中が甘いよっ。
「うん。考えてた。だからってわけじゃないんだけど、春乃と暮らした後は、想像以上に楽しかったんだ。素直なところや真っ直ぐなところは尊敬できたし、それなのにどこか諦めてたり、妙に物分かりのいい大人に見せようとしたり」
「失礼ですぅ! 私は立派な大人ですぅ!」
「ふふっ。そうだね。でも、もうなんか、一緒にいる時間が長くなるにつれて、春乃にかまいたくて仕方なくなってたんだよね。毎日新鮮で。君が時々『愛してる』って、言ってくれただろ? なんでもない言葉なのは知っていたはずなんだけど、それでもすごくうれしくて。もっと聞きたくて、君が好きなことを何でも知りたいと思っていたよ。もちろん今でも」
優吾はそう言って、まるで懐かしい昔のことでも思い出すように微笑みを浮かべた。
私たちが離れてからまだそれほど時間は経っていないのに、不思議なもので、私もだいぶ前のことのように思う。
「いやぁ、あれだよ。いいタイミングで優吾が私の喜ぶことを言うものだから、ついね」
それに甘えてもいい立場だったから、私はそれを十分に甘えさせてもらったと思う。
「喜ばせたかったからね。でも春乃のツッコミが楽しくてついやりすぎてた感は否めないかな」
「思った以上に下ネタ好きよね」
「男ですからね。それでも小娘みたいに頬を赤らめない君に、悪ノリしてたのは事実だなぁ」
「だよねっ! もう絶対に悪ノリしてると思ったよっ!」
「いや、半分は本気だったよ? 君を抱きたいのも事実だし」
「ここでそう言う話を入れてくるのかよっ!?」
油断したっ。なんて、頬を膨らませて見せる私に、優吾は口の端を釣り上げてにやりと笑う。その顔も随分と見慣れたものだ。
「こういうノリがやっぱり楽しいんだよ。春乃と一緒にゲームしたりさ」
「うん。楽しいよね」
そうだよな。すごく楽しかった。すごく。
初めて出会ってから、優吾とその関係者たちのぶっ飛び具合といい。アホほどお金があるわりに、私に合わせてくれるお人好しの集まりで、私を受け入れてくれた人たち。
そう、私はただ毎日が楽しかった。
シンプルに考えたら何のことはない。
「私、みんなのこと好きだわ……」
優吾の両親も、駒百合家の側近連中も、黄龍家のお手伝いさんたちも、西園君も――それに、目の前のこいつも。
そう思ったら、私は喜びと悲しみが同時に心へせめぎあい、泣きたくもないのに私は子供のようにめそめそと泣いてしまった。
本当は、私だって暖かな場所に居たい。
「お金が欲しいんじゃない……」
「知ってるよ」
誰もいない暗い部屋に帰るのは寂しいのだ。
「仕事は嫌いじゃないけど、別に無理にしたいってわけでもないし、一人暮らしだって好きじゃない」
「分かってる」
優しい優吾の母親と父親に、私の両親を重ねてしまっていたのは認めるしかない。
あの人たちの笑顔がうれしかったし、娘と言ってもらえるのがどれだけ幸福だったか。
「ただ……『普通』の家族が、『普通の幸せ』が欲しかったの」
「そうだね」
どんなに願っても私の望むものが手に入らないなら、あきらめるしかなかった。じゃないと『捨てられた可哀そうな私』は前に進むことすらできなかったから。
誰でもよかった。そう、最初は本当に誰でもよかったから、私は『契約』を受け入れたけど、今は違う。認めるのが怖かっただけだ。
何にもなくてもいい。ただそばに居て、ただ私を必要としてほしかった。
私は、ただ――。
「じゃあさ、春乃」
優吾は私を呼ぶと私の涙をぬぐい、自分の方にそっと向けさせた。
「もう諦めてそれを受け取るしかないと思うよ?」
優吾は「それ」と視線で赤い小さな箱に目配せする。
「なんでよ?」
涙は引っ込まない、思わず反論してしまう私に。
「何でって、君が欲しいものを僕があげるためだよ。そして、僕も君から同じものをもらうため」
「結婚したら、何をくれるの?」
このやり取りすら恥ずかしいんだが……もうここまで来たら後には引けない。
「決まってるよ。世界を満たせるほどの愛で幸せな家庭を築くんだ。協力してくれるだろ?」
優吾はそう言うとウインクを飛ばしてくる。
なんだこいつ。めちゃくちゃ恥ずかしいっ! よくもそんな平然とやってくれるなっ!
「ああ、もうっ! 結婚でも何でもしてやるわよっ!」
――そう。ただ愛されたかっただけなんだよね。
相変わらず、アホほど広いマンションは全く何の変化もない。
「春乃様、雅臣様が本家に新しく離れを――」
「だから、いらないってばっ。本家に入るときは空いてるお部屋を使わせてもらえればいいって言ってるのにっ」
変化と言えば、私の左薬指にダイヤの指輪がくっついたことくらいだろうか?
他は元の生活に戻っただけで、いつも通り変化はない。この場合の『元』っていうのは、優吾と暮らしていたマンションに私が戻ったということだ。
雑貨屋のバイトも続けている。もちろん売り子として。
「春乃様が困ってるじゃない。いい加減にあなたが雅臣様を説得したらどうなの要」
朝食の席で私と優吾の空いたグラスをハーブティーで満たしながら、美影さんが要さんにあきれた視線を向けていた。
「俺は断然、雅臣様の意見に賛成! もうなんですぐに籍を入れないのさっ! また逃げられたらどうするの優吾様!」
「だから、もう平気だって」
家のフカフカソファーにクッションを抱えたままゴロゴロと騒ぐ聖君に、優吾は苦笑い交じりに軽くあしらうが。
「いえ、いいえっ! これは雅臣様のご計画通りに、春乃様を軟禁して一先ず婚姻届けを書いていただくのが何よりも優先でございますっ! 優吾様と春乃様が無事結ばれることこそ私たちの願いでございます! 何を置きましても――」
「ちょっと! うるさいわよ蛟っ! あんたは少し落ち着きなさいよっ! 帰ってきてくださっただけで感謝なさいっ! まったく余裕のない男共ねぇ」
「もっと言ってやって美影さん。むしろ軟禁とか洒落にならない単語が出てきてる時点で、お父様の離れ計画は潰しといてください。お願いします」
優吾が私との結婚を取り付けたことを両親に報告したあと、雅臣さんと奏さんはもちろん喜んでくれたし、要さんたちもとても喜んでくれた。
そう、喜んでもらえたのは嬉しいのだけど、結婚の催促がより激しくなったのだ。
いや、まあ戻ったんならもう結婚するんだろ? と思われるかもしれないが、私たちはちょっと特殊な出会いをして結婚目前だったわけだが、一度も恋人にはなったことがないのだ。
だから、優吾と話し合って恋人らしいことをしようと決めた。
でもそれがどうやら周りをやきもきさせてしまっているようで、雅臣さんから軟禁されそうになってるというわけだ。まあ、なんとしてでも回避させてもらうがな。
「ああ、仕事に行きたくない」
「いや、行けよ」
朝食も食べ終わり、優吾はあと数十分くらいで仕事に行かなければならないのだが、どうにも私がここに戻ってきて以降、彼は仕事に行くのを渋るようになった。なんでですかねぇ。
「もっと恋人らしく絆を深めたいって思ってるんだよ」
「帰って来てからでもできますけど?」
「だって、今まで恋人らしいことは全部ダメだったんだよっ!? このチャンスを逃しちゃダメな気がしてならないんだよっ!」
「状況が違うだろっ! さすがにもう居なくならないしっ!」
って、なんでそんな疑わしそうな目でこっちを見るんだよっ!? びっくりだよっ!!
「それは分かってるけどっ! そう言う心配じゃなくて口実にしようかと思ってるだけだからっ!」
「自分の欲望に忠実過ぎんだろっ!」
「だって戻ってきてもうひと月だよっ! なのに、いまだに一緒にベッドに入ってくれないのはかなり不満があるんだよっ。ぶっちゃけエッチしたいんだよっ!」
「朝っぱらから盛るなっ! そう言う話ももろもろ含めて仕事から帰ってきてからだっ! いい加減に仕事に行きなさいよっ!」
と、私がさした時計はあっという間に彼の出勤時間になっている。
優吾は時計をじっと見つめた後、あきらめたように席を立つと私に近づいてきて、私に軽くキスをした。まあ、もう怒ることも避けることもしなくていいんだけど。
どうにも照れくさい。
「帰ってきたら、きちんと覚悟を決めてもらうからね」
なんて言って、優吾が私の頬を撫でる。
温かくて優しい彼の手が、私が思った以上に心地よくて。
「もうあんたの嫁なんだから、好きにしなさいよ」
照れくさいから彼から顔を背けて、早く行けと追い出すように手を振った。
だけど、幸せ……何だよなぁ。なんてついにやついてしまった私の目の前に、いつの間にか聖君が近付いて来ていて、ニヤニヤと私の顔をのぞき込んでいた。
「うおっ! な、なによっ!」
「べっつにぃ~。嬉しそうだなぁって思ってさぁ」
「ちょっと、怖い顔でニヤニヤしてるわよ聖君」
なんて聖君から逃げるように後ずされば。
「春乃様。優吾様とこれから子作りに励むわけですから、経験豊富な私にいつでもご相談くださいませ」
そう言って、美影さんまでニヤニヤと笑っていて。
「それはいらないお世話だよっ」
と反論する私だが、さらに。
「ですが順番は籍を入れた後が理想かと思われます。きちんと避妊具の着用を――」
「ちょっと黙ってもらえます要さんっ」
そもそも、そんなの予定してないんだから、うちにゴムなんて置いてあるわけないだろうがっ!
「男性用と女性用、両方の避妊具の用意をしなくてはいけませんね! すぐに買いに行ってまいりますので――」
「蛟さんストップっ!! 行かんでよろしいっ!!」
マジで何なのこの人たちっ!? と、私があたふたしていれば、要さんがすっと私の前に出て。
「ですが大事なことでございます。優吾様と春乃様にはご計画がおありなのですから、恋人同士の営みを満喫する意味でも、ぜひご用意させていただきます」
大真面目な顔でそう言ってのけた。
「うるさいっ!! 人の話を聞きなさいよっ。無駄に優秀な従者どもっ!! 話し合いをする予定であって、優吾とそう言うことをするって意味じゃないのっ!! それに必要なら、そう言う道具類は全部自分たちで用意しますっ!!」
と一応は言ってみる私だが、まだ要さんが食い下がってこようと口を開き、私は思わず自分の両耳をふさぎたい気分になった。けど――。
「ヤバイヤバイっ。忘れものっ!」
と、リビングに仕事へ行ったはずの優吾が現れて、私が四人の男に囲まれているのを見て目を丸くして見せた。
「え? 何事?」
「実は優吾様――」
「もう本当にお口閉じて要さんっ!!」
くっそう。
結局はこうなるんだ。
本当に毎日が事件の連続で、何かしらツッコミどころしかなくて、それでもこの騒がしさが、疲れるのに幸せで。
きっと、結婚しても変わらずこんなノリで過ごして行くんだろうな。
そう思うと、この日常が懐かしく、そして愛おしく、そして――。
「そんなことより、遅刻するよ優吾っ!」
「ヤバイっ。要、車出してっ!」
「直ちに」
優吾の命令で要さんが速足でリビングを出ていく。
「じゃあ春乃、行ってくるね」
「はいはい、いってらっしゃい」
私と優吾は恋人らしくキスをして、優吾もすぐにリビングから出て行った。
一見、甘さと苦さは合わないように思ったこともあったけど、私は甘いカフェオレが好きだ。
ミルクとシュガーの甘味の中に、香り立つコーヒーのほろ苦さが混じったあのカフェオレのように。
私たちはきっとそれに似てる気がした。そしてそう遠くないうちに、私たちは程よく混ざって『家族』になっていくんだろう。
絶妙な配合でブレンドされた美味しいカフェオレのように。
濃厚で最高の一品になっていくのだ。
これにて完結でございます。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
最後だというのに更新が遅れたのはラストがうまくまとまらなかったせいです。申し訳ない。
誤字やら脱字やらがかなり多くて重ねて申し訳ないです。
いつかちょっとずつ直すかもしれません。かもです。信用してはいけません。
直すよりも別の書いてそうです。
が、実は私も転生もののお話も書いてみたいなぁ。って思っていたりもします。
2021/8/15 追記
ユーゴくんの名前の変換ミスがすごくて読み返してびっくりしましたが、『優吾』という字が正しい表記です。
あとがきまで長々とお付き合いくださってありがとうございます。
それではまた、お会いできる日を楽しみにしております。




