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第三話:琥珀色のティータイムと、嵐の予感

オルテンシアの街に、少しだけ湿った風が吹く季節が巡ってきた。

宿屋『踊る子鹿亭』の屋根裏部屋、僕とティナの「研究所」は、雨の日特有の静かな空気に包まれている。窓の外では、魔導灯が雨粒をぼんやりと青白く照らし出し、石畳を濡らしている。

「アルト、見て。この数値の揺らぎ……昨日の午後のデータと明らかに違うわ」

ティナが計算機アバカス・ルーンの盤面を指差した。彼女の指先は、僕よりも細く、しかし誰よりも確かな動きをする。最近、彼女の分析能力は目を見張るほど洗練されてきていた。最初はただの「勘」に頼っていたお転婆な令嬢は、今では僕の冷徹な分析と、彼女自身の鋭い直感が見事に融合しつつある。

「これは……気圧の変化による魔力伝導率の低下かな。この数値の揺らぎは、王都の魔導士ギルドによる『大規模な一斉調整』の予兆かもしれない」

僕がそう分析すると、ティナは瞳を大きく見開き、それからニヤリと笑った。

「一斉調整? つまり、市場の魔導具が一斉にメンテナンスモードに入る……一時的に、魔素の消費量が減るのね」

「そういうことだ。そうなれば、魔素の相場は一時的に冷え込む。逆に、メンテナンスが終わった瞬間に溜まっていた魔力が一気に解放され、価格は急騰する。……つまり、今のうちに『買い』だ」

「素敵! アルト、私たち、本当に天才じゃない?」

ティナは弾むように立ち上がり、僕の肩を叩いた。僕たちの関係は、もはや宿屋の主従でも、単なる相棒でもない。互いの知性を尊重し、この街で一緒に生きるための「唯一無二のパートナー」になりつつあった。

その時、宿屋の階下からベルが鳴った。

客だ。しかし、いつものような商人の荒々しい足音ではない。静かで、重厚な、品格を感じさせる革靴の音。

「……誰かしら? この雨の中、こんな時間に」

ティナが少し不安げに扉を見つめる。僕も予感めいたものを感じ、立ち上がった。

階下に降りると、食堂の入り口に立っていたのは、漆黒の外套に身を包んだ男だった。雨に濡れた銀髪をかき上げ、男は僕たちをじっと見つめた。その瞳は、ティナと同じ、どこか高貴な輝きを宿している。

「……お嬢様。やっと見つけましたぞ」

男の声には、怒りも喜びもない。ただ、静かな執着だけが籠もっていた。

ティナの顔から、一瞬にして血の気が引く。

「……執事の、セバスチャン……?」

「お迎えに上がりました。王都でお待ちの公爵様も、大変ご心配されております」

食堂の空気が凍りついた。客たちは何事かと見守っているが、僕には分かる。この男は、僕たちが今まで積み上げてきた穏やかな日常を、力ずくで壊しに来たのだ。

「帰って……! 私は帰らないわ! 私はここで、自分の力で生きるって決めたの!」

ティナが僕の背中に隠れるようにして叫ぶ。その小さな身体が震えているのが分かった。

僕は一歩前に出た。宿屋の看板息子として、客を守る責任がある。いや、それ以上に、僕の隣にいるこの少女を守りたいという、自分でも整理のつかない感情が動いていた。

「お引き取りください。ここは宿泊客のプライバシーを守る場所です。ティナが帰りたくないと言っている以上、僕はあなたをここから追い出す権利がある」

執事のセバスチャンは、ゆっくりと僕に視線を移した。冷徹なその瞳が、僕という人間を値踏みしている。

「ほう。貴殿が、この踊る子鹿亭の息子、アルト殿ですか。お嬢様を唆し、このような場末の宿に連れ込んだという……」

「唆したんじゃない。彼女は自分の意志でここにいて、自分の力で働いている。あなた方が決めたレールの上じゃない、彼女自身の価値を証明するためにね」

僕は毅然と言い放った。執事は一瞬だけ眉をひそめ、それから皮肉な笑みを浮かべた。

「……なるほど。これが、お嬢様が仰っていた『自分の人生』というやつですか。ですが、現実はそれほど甘くはありません。彼女がここにいることで、公爵家には莫大な損失が出ている。彼女の血筋がどれほど貴重か、理解されているのですか?」

「損失? そんなものは、数字の問題だ。僕たちが稼いでみせる。彼女の価値は、血筋や権力なんかじゃない。彼女自身が積み上げた、今の努力だ!」

僕は、その日の昼間に計算機で出した予測値を、テーブルの上に叩きつけた。

「彼女は、これだけの情報を整理し、街の商売を左右する分析をした。彼女の価値は、この街で証明されつつある。あなた方のルールなんかより、ずっと確かな数字としてね」

執事は沈黙した。食堂の客たちが、固唾を飲んで僕たちを見守っている。

雨音が激しさを増す中、執事はため息をつき、外套を整えた。

「……よろしいでしょう。今日は手ぶらで帰ります。ですが、お嬢様。公爵家は、あなたの価値を別の形で見極めさせていただく。……今度の『王都魔導博覧会』。ここでご提示する分析値が、あなたの真の価値を証明することになるでしょう」

執事はそう言い残し、嵐の中へと消えていった。

残されたのは、震えながら僕のシャツを掴むティナと、騒然とする食堂。

僕は彼女の手を取り、静かに屋根裏部屋へと連れ戻した。

部屋に入り、扉を閉めると、ティナはそのまま床に座り込んだ。

「……ごめんなさい、アルト。私、あんな身分だったから……」

「謝るなよ。君は君だ」

僕は彼女の隣に座り、まだ熱いままのティーカップを差し出した。

琥珀色の紅茶。それは、街の商人が土産にくれた高級な茶葉を使った、僕たちのささやかな贅沢だ。

「王都魔導博覧会……。市場の最高峰だよ。世界中の魔導士、商人が集まり、その年の経済を決定づける場所だ」

「……私に、できるかな?」

「できるさ。僕たちの計算は間違っていない。それに、僕もついている」

僕は彼女の冷えた手を、自分の手で包み込んだ。

彼女の手は、いつもよりもずっと冷たかった。でも、僕の体温が伝わると、少しずつ温かくなっていく。

「……アルト」

「何だい?」

「私、帰らないわ。ここでの生活が、一番大切なの」

「知ってるよ。……さあ、冷めないうちに飲んで。それから、博覧会に向けて、最高の戦略を立てよう」

雨はいつの間にか止んでいた。

雲の隙間から、月光が差し込み、屋根裏部屋を銀色に染める。

僕たちは再び計算機を手に取った。

執事の言葉は、恐ろしい予感だったかもしれない。でも、今の僕たちには、それを乗り越えるための「数字」と、何よりも「互い」がいる。

10歳の少年と、家出した令嬢。

二人の経済学は、今、王国を揺るがす大きな舞台へと歩み出した。

この先には、どんな嵐が待っているか分からない。でも、どんなに厳しい相場であっても、二人で計算すれば、きっとその先にある「温かな日常」を見つけ出せるはずだ。

「アルト、博覧会の予算はいくら必要だと思う?」

「今の収益なら、仕込みに銀貨二百枚。……あとは、君の閃き次第だよ」

「ふふ、任せて! 私たち、世界一の宿屋になるんだから!」

ティナの笑顔が、月明かりの下で誰よりも輝いていた。

踊る子鹿亭の明かりは、これからも街の片隅で、二人を温め続けるだろう。

嵐の前夜、僕たちは何よりも堅い絆で、結ばれていた。

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