【81】 今住んでいる所から離れたい
北村史郎(社長)、奈美、海斗の3人が、すぐそばの喫茶店に入って行った。
社長「つい最近、あなた方のことも、ご主人の過去もお聞きしました」
奈美「……」
社長「奥さんも、海斗君も大変だったね。色々苦労されたんでしょう」
奈美「まぁ」
社長「でも、こうしてお越しいただいて、私はほっとしているんですよ」
奈美「……」
社長「最初にご主人がここに来た時から、何か訳があるんだろうな、とは思っていたのですが」
奈美「……」
社長「まだ、家族が繋がっているんだ、って、わかって。とにかく良かった」
奈美「すみません。いろいろとご迷惑をおかけしまして」
社長「いや、とんでもない。私たちはとても助かっているんですよ。あんな真面目な人が来てくれて」
奈美「なら、いいんですが」
社長「これはお世辞でもなんでもなく」
奈美「そうですか」
社長「ええ、そうですとも。だいたいご主人がここへ来てから、一度も休んだことも無いし、遅刻したことも無い。海斗君、君のお父さんは立派だよ」
海斗の口元が少し緩んだ。
社長「一日中立ち仕事なのに、どこが痛いとか言ったことも無いし、風邪をひいたこともない。きっと体調管理にも気を使っているんでしょうね」
奈美「そうかも、知れません。真面目だけの人なんです」
社長「うん、そう言う所はあるかも知れませんね」
奈美「もう少し、ゆるめてくれるといいんですけれど」
社長「大丈夫ですよ、これからは」
奈美「もっと気楽に生きてくれたらな、と思います」
社長「そうですね。ところで、今日はご主人を連れ戻しに来たとか、ですか?」
奈美「いえ、そう言うわけでは」
社長「だとすると?」
奈美「いえ、とにかく家族3人で話し合って、今後どうするか、一緒に住むのか、どこに住むのか、仕事をどうするか、学校をどうするか、決めなければならないことが山ほどあるので、なるべく早く決めて、次の新しい生活に入りたいんです」
社長「なるほど。それで、急いで松山までやって来たわけですね」
奈美「ええ」
社長「海斗君、どうだい、ここの街は?」
海斗「……」
社長「今住んでいる街と比べて?」
海斗「こっちの方がにぎやか」
社長「そうかね。埼玉県の方が、にぎやかで人もたくさん居ると思ったけれど」
海斗「うううん。こっちの方が都会だよ」
社長「そうか。嬉しいことを言ってくれるね。松山市は四国でも一番大きい都市だからね」
海斗「うん」
社長「それに、博物館や美術館もあるんだよ」
海斗「お城もあるんでしょう」
社長「ほぉー、よく知っているね。驚いたなぁ」
社長が大げさにびっくりした表情を見せた。
海斗の口元が大きく緩んだ。
社長「今度、お父さんに連れて行ってもらうといいよ」
海斗「連れて行ってくれるかなぁ?」
社長「じゃぁ、おじさんがお父さんに、一緒に行くように言ってあげるよ」
海斗「うん」
社長「奥さんは、どこに住みたいとか、なにかお考えがあるんですか?」
奈美「いいえ、私は日本ならどこでも。ただ、今住んでいる所からは離れたいんです」
社長「それは、どうして?」
奈美「……」
社長「いえ、嫌なら答えなくていいんですよ」
奈美「いえ、なんと言っていいのか。まぁ、いろいろあったので」
社長「それだけ聞けば充分です。どうです、よろしければ、ここに住むことも候補のひとつに入れていただけませんか?」
奈美「私は、どこでも」
社長「坊ちゃんは、どうかな?」
海斗「『坊ちゃん』?」
社長「そうか、ついつい、松山の人間は、『坊ちゃん』って言ってしまうな。ははははは」
松山市は、夏目漱石の『坊ちゃん』ゆかりの地であった。
海斗「ここ、好きだよ!」




