51話 黒き理想
頭に響いていた声が遮断され、手の中のカードが脈打つように黒く瞬く。
刹那——闇が噴き上がった。
黒き奔流が足元から俺を呑み込み、螺旋を描いて夜を駆け上がる。
陰影が歓喜に震えながら俺を貪り喰らい、視界も、聴覚も、感情すらも巻き添えにして、どこまでも漆黒に塗り潰されていく。
不思議と恐怖は感じなかった。それどころか——ひどく、気分がいい。
今ならなんだって出来そうな気がする。
やがて荒れ狂っていた闇が晴れていく。
……俺に視界が戻る。
前方には白銀の境界線の向こうで俺を見つめる仮面。
剣を構え続けていたであろうその腕が、危うげに揺らいだ。
「……あり得ん。その、力は——」
いつの間にか俺の右手には、見覚えのない黒剣が握られていた。
それは何者をも寄せつけぬような、全てを深淵へと誘う黒き命脈。
月光はもう届かない。
初めからそこにあるべきだったかのように、この剣は手に馴染む。
——俺は、こんなもの知らない。
「ケケッ……上出来だ。お前は本当によくやった!」
——ッッ!!
俺の口が意志とは無関係に笑った。
「さぁて……せっかくの戦いなのに、今までつまんなかっただろ? 遊んでやるよ!」
隠しきれない嗜虐心に満ちたその声は——俺の口から出ていた。
「……チィ! だが私とて!」
仮面がカードで呼び出した長刀を構える。
すると呼応したように白銀の障壁が光を反射し、俺の瞳に色濃く映る。
誇示しているのは絶対防御態勢。
境界線の向こうから放たれる圧もまた、今までとは比較にならない。
「——遅ぇ」
「なに!?」
ガキィィンッッ!
黒き暴威が全てを組み伏せんと、勢いのままに仮面目掛けて刀身を叩きつける。
……俺は、いつ踏み込んだ?
気づいた時には既に仮面の懐に入り込み、剣を叩きつけていた。
障壁の加護がなければ、あるいはこれで決着はついていたかもしれないと思わせるほどの神速。
その障壁にも、大きく目立つ網目状の模様が刻まれている。
「貴様……ッ、いったいその動きは」
「非力なもんだな、この身体は。——邪魔だ」
再び振るわれる噬光の一閃。
バキィィィイン!!
たったのそれだけで、いとも簡単に障壁は砕け散った。
だがすぐに、仮面を守る絶対防御は蘇るはず!
——再生、しない!?
「ケケケッ!」
俺の攻撃は止まらない。
斜め上から、黒剣が周囲の光を喰らいながら振るわれる。
「——なんて、重さだ!」
「おいおいおいおい……! それで止まると思ってんのかぁ?」
「くっ」
黒の狂宴は終わらない。
俺は一度阻まれた剣を引き、再び鋭く構える。
仮面は短く舌打ちすると手首を返し、青白い刃を滑らせようとしていた。
受け流すつもりなのだろうが、それでは遅すぎる——いや、俺が尋常じゃなく速すぎるんだ!
「——もっと楽しませろよ」
黒の質量をもって、小手先の技術ごとねじ伏せていく。
逃げを許さない一撃が流し損ねた刀身に叩きつけられると、仮面の握る柄が悲鳴を上げ始める。
俺の目にはスローモーションのように見えているが、実際は違うのかもしれない。
万力で締められたような叫喚はやがて破砕音へと至り、即席の弾丸と化した長刀の破片が複数、顔を覆い隠す仮面へと突き刺さった。
ガリッと嫌な音をたてて面妖な仮面に網目状の亀裂が入り、一部の破片はそれを貫通して奥へと食い込んだ。
「ぐぁっ……!」
仮面は咄嗟に顔を押さえたが、地面に落ちていく命の源泉は止まる様子がない。
それすらも狙い澄ましたことのように、俺の口元が歪に吊り上がっていく。
——なんだ、この動き!?
あの仮面を押している。先ほどまでの圧倒的な実力差を、今は微塵も感じない。
動体視力、反射神経、どちらも信じられないほど上昇しているのが嫌でもわかる。
それに——
なによりも、この超越した立ち回りを俺の身体がやってのけたのか!?
「ッ!」
「ククッ、その面拝ませてもらおうか!」
「……や、やむを得ん」
その声は動揺を隠しきれていない。
半壊した仮面を左手で押さえながら、右手でローブからなにかを取り出すと宙へ放った。
直後、俺たちの周囲に煙が蔓延していく。
同時に前方から、勢いよく地面を蹴ったような音が耳に届いた。
「ケケケ! 逃がすかよ!!」
——お、おい!
俺と仮面は、互いに恐るべき速度で裏路地を駆ける。
純粋な速度比べであれば俺に分があるだろう。
だが仮面は複雑な道を熟知しているとでもいうのか、距離は一向に縮まる気配がない。
何度目かの曲がり角の先で、仮面の靴音が突如途絶えた。
「ケケケケッ!!」
——もうこれ以上は。
「黙ってろ」
——ッッ!
そうして俺の身体も曲がり角を抜ける。
辿り着いたのはこの戦いの始まりの地点——ガゾンの死体がある場所だった。
「……そういうことですか」
「あ?」
声の聞こえた先を反射的に見上げる。
「あなたから連絡がありましたので、何事かと思えば……フフッ、間に合って良かったですね」
目にしたものは、上空に浮遊する黒いローブの男と、その隣に浮かぶ仮面。
ローブの構造が他とは違うのか、男の顔だけはハッキリと確認できた。
「……種はまいた。ゲートを開け」
「やれやれ、本当に人使いの荒いことで」
男がなにか小声で呟くと、二人の近くの空間に闇夜を両断したような一本の亀裂が走る。
ゆっくりと縦に広がる裂け目はやがて、渦巻く黒い影へと変貌していった。
「さ、行きますよ」
「……」
呼びかけには答えず、仮面は今にも剥がれ落ちそうな面を手で押さえながら俺を見下ろしている。
「上から見物とは趣味がいい。——だが、まさか逃げられるとは思ってねぇよな?」
「ま、まさかっ」
黒いローブの男が驚きの声を上げた瞬間、俺の足は勝手に——
「——バエル!!」
背後からの一言がなければ、あるいは本当に空に届いていたかもしれない。
聞き覚えのある声に反応した一瞬で、二人の姿は虚空へと消え去り、裂け目は跡形もなく閉じられてしまった。
消える最後の瞬間、どうしてか仮面が一度こちらを振り向いた気がする。
だが今は——
——リース! どうしてここにいるんだ!?
声を振り絞っているのに返答はない。
リースは空を見上げた後、死体となったガゾンへ、そして……俺へと視線を向けた。
「バエル、あなた……」
「テメェ……」
「セツちゃんから、あなたに何かあったって! ここにいるかもしれないって聞かされて……私一人の方が早く着けるから、先に行ってって——」
「——そんなことはどうでもいい。どうして邪魔をした?」
は? 今俺の口は、何と言った?
「……バエル?」
「つまんねぇことしてくれたな」
怒気を孕んだ声に、リースの表情が固まった。
「ちょっと待って。……あなた、本当にバエルよね?」
「見たまんまだろ」
「……その黒い剣はなに?」
リースが警戒するように一歩足を引く。
どうしてか一瞬、無性に癪に障った。
——違う! 俺はそんなこと思っていない!!
これだけは絶対に断言できる。
なのに俺の意志を無視して、黒剣を握った手がゆっくりと持ち上がっていく。
「じょ……冗談、よね?」
——やめろ!
「……逃した責任は、お前が取ってくれるんだよなぁ?」
——ふざけるな! リースは仲間だぞ!!
「仲間、ねぇ?」
俺の言葉が心底おかしいと言わんばかりに俺の口元が歪み、黒剣を握る指にはますます力が込められていく。
——くそっ、このっ……剣を離せ!
身体が言う事を聞かない。
その事実にはとっくに気がついていた。それなのに——
どうして俺は、今まで見ているだけだった?
「お前の口から仲間だなんて、ケッ、笑わせんなよ」
「……正気じゃないわね。——ごめんバエル!」
リースが魔導撮影機——夢魔の王女を構えて叫んだ。
「“私が上よ”!」
「ケケケ!」
俺の姿をしたなにかが黒剣を振るうと、リースの放ったカードは突然打ち消されたように効果を失った。
「……え!?」
「先に攻撃してきたな! 俺に仇なすなら、お前は敵だ!!」
——や、やめろ!!!!!
俺の姿をした化け物が、あり得てはならない攻撃対象へと嬉々として襲いかかる。
「バエ……ル……?」
「ククッ……ケケケケ!!!」
内側から声を張り上げるが、俺の身体には届かない。
リースはもう目の前にいた。
黒い刀身が月光を呑み込み、そして——
——やめろぉぉぉおおおおおお!!!!
そうして俺は、雪白の天使を見た。




