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1話 その少女は、まだ世界にいなかった


 その少女は世界にいなかった。


 目の前にいるのに誰も名前を呼ばない。

 その姿を目にしても、誰一人として声をかけようとしない。


 ——だが、俺にはしっかりと見えている。 


「なんだよありゃ」

「気味悪ぃ。見ちゃいけないもんだろ? あれ」


 周囲の誰もが少女に視線を向けている。

 なのに、誰も向き合おうとしていない。


 いや、そうじゃない。

 こいつらは見えない振りをしているだけだ。


 ……またここでもか。

 噛んだ唇から血の味がした瞬間、咄嗟にその名前を口にした。


 すると、少女の俯いていた顔がゆっくりと前を向く。

 

 小柄で少し幼さが残る顔立ち。

 その可憐な唇を震わせながら、俺の姿を見て声を絞り出した。


「……バエル、さん」


 小さな、本当に小さな声。

 だが少女は確かに俺の名を呼んだ。


 左右で色の違う瞳が、どこか(すが)るように俺を見つめている。

 ただひたすら何かを訴えかけるように。

 

 銀髪の少女が、今にも壊れそうな表情で立っていた——


 あの時はまだ気づかなかった。

 この少女との出会いがなければ、俺は多分、ここに存在していない。




◇◇◇




 目を開けた瞬間、病院に運ばれたのだと思った。

 視界に広がるのは見覚えのない白い世界。


 無理もない。

 連日の残業で身体は限界を迎えていた。

 今後は待遇の改善を要求したいが、どうだろうな。

 どうせ、何も変わらない日常が続くんだろ?

 

 だがそこで、単純に倒れたわけではないことに気づいた。


 よく見ると俺の身体が宙に浮いている。

 しばらく呆気に取られていると、急に声をかけられた。


「佐藤直人さん」

 

 いつの間にか光を(まと)った女性が俺を見ている。


「残念ですが、前の世界であなたは死にました」

「——え?」 

「ですが、これまでのあまりの不運……いえ、あなたの境遇が気の毒だなと思いまして。私の独断で、あなたを別の世界に送ることにしました」

「……異世界転生ってやつか」


 言葉の意味自体は分かる。

 ラノベを読んでいて、俺もシチュエーションには憧れたことがあった。

 だが、それでも理解が追いつかない。


 死んだ。

 その言葉だけがいつまでも頭から離れない。

 俺は確かさっきまで——


「がっ!」


 そこまで考えたところで頭痛がした。

 自分が何をしていたかさえ思い出せない。


「私の不手際で、あなたの記憶の一部を消してしまいました。その件は許してくださいね?」

「そ、そうか。だから思い出せないんだな」

「……本来あなたのような別の世界の人間を、このような形でこちらに送るつもりはありませんでしたので。それくらいは仕方がありませんよね?」

 

 女性——恐らく神の表情が少しずつ曇っていく。

 俺がため息をついて黙ると、すぐに笑顔が戻った。


「ふふ、優しいのですね。それでは……この世界に、あなたの認めたものを残す権利を与えます」

「権利?」

「この権利が何を残すかは、あなた自身が知ることになるでしょう」


 得意げな神の手に、いつの間にか何かが握られていた。


「この世界で生きていく補助として、これを渡してあげます」

「……スマホ?」


 それは見間違えるはずもなく、ただのスマホだった。

 ご丁寧にカバーまで付いている。


 急に現実感が戻ってきた。

 なるほど、これが転生特典ってことか。

 少しばかり最強武器に憧れていたことは内緒だ。


「ただし対価が伴うかもしれません」

 

 しれっと語る神の声に、思わず妄想が遮られた。


「それが対価となるかどうかは、あなた次第ですよ」

「なんだそれ。全然説明になってないぞ!」


 不穏なことを言われた気がするが、今は考えても仕方がない。

 現代の知識で無双しろってことなら分かりやすい話だ。


「まぁ、いいさ」

 

 どうせ一度死んだ身だ。


「で、その世界ってのにはいつ行けるんだ?」

「話は以上です。あなたに祝福があらんことを!」

「な——」

 

 それ以上言葉は続かず、意識が白に導かれるように溶けた。




◇◇◇




 意識が戻った刹那、背中に硬い衝撃があった。


「っ、すみません!」


 反射的に身体を起こす。

 鬼のような上司に仮眠がバレたのかと焦った。


 ……いや、そうじゃないんだった。


 日本ではお目にかかれないような緑の大地が視界の果てまで続いている。


「——っ」


 あまりの眩しさに額に手を当てると、その隙間から蒼天が顔を覗かせた。

 歓迎されるような風を頬に受けて、初めてブラック企業に勤めていた日々が遠ざかっていくように感じた。

 

「お疲れ。今までの俺」


 身体の力を抜くと、右手に違和感を覚えた。


 そうだ、スマホだ!

 

 俺の転生ボーナス。

 電源は入っていたようで、意気揚々とアプリをチェックする。


「異世界でスマホってのも悪くないな。って……まてまて! おいこれどうなってるんだ??」


 その画面は当たり前のように電波表示がない。

 アプリの大半は灰色で、触れても反応がなかった。

 

「はぁああ!? マジで言ってるのか? ……これ、転生特典のはずだよな?」


 無我夢中で全てのアイコンに触れたが、開けたのはカメラと写真の二つだけ。


 そういえば神が、認めたものを残すとか言っていた。


 ……おい。

 か、神とはいえ人のことをバカにしすぎだろ!  

 異世界転生の特典が、写真が撮れるだけのスマホって!?


「嘘だろ……チートもない俺が、どうやってこの世界で生きていくんだ?」


 鏡がなくても、絶望した顔をしているのは分かる。


 ……いや、カメラならあるのか。

 この気持ちを忘れないために今の間抜け面でも撮ろう。

 正直、半ば投げやりだったことは否めない。


 カシャッ!!


 憎たらしいほど良い音で鳴り、写真が保存された。

 わざわざ確認するまでもないが、無様な顔を見ておこう。


 そこには、情けない表情がばっちり記録されていた。


「ん、あれ? 俺、少し若返ってる?」

 

 どこにでもいるような黒髪細身の男。

 高校を卒業した頃はこんな感じだったか。

 若返りとか、特に神から説明はなかったはずだが。


「……まぁ、いいさ」


 本来なら死んでいたと考えると、今更になって背筋が冷えた。

 それに比べたら大したことではない。

 だが異世界に来て最初にしたことが、まさか自撮りとは。

 保存された写真を見て少しだけ笑った。

 

 もうここは日本ではない。

 これから生きるのに、新しい名前を決めてもいいかもな。


 スマホを裏返して草むらに置く。

 よく見ると、背面カバーに何かが挟まっていた。


「これは、カード?」


 そういえば手帳型のカバーに定期券を入れた人をよく見ていた。

 これは見たことない形だったが、スマホの背面にいくつか差し込み口があり、そこへカードが収まっている。

 少しだけ引き抜くと、剣のようなイラストが見えた。


 ……懐かしいな。

 

 昔、カードゲームに夢中になって遊んでいた記憶が蘇る。

 まさかここでも見ることになろうとは。


 ふと脳裏に、当時の相棒だったカード名が思い浮かんだ。


「バエル」

 

 口に出してみると妙にしっくりときた。

 もうそれ以外は考えられない。


「俺の名前は——バエルだ」

「……えっ?」


 その瞬間、風に紛れるように小さな声が聞こえた。


 風が吹き草がざわりと揺れる。

 視線を上げると、丘の上に何かが立っていた。

 

 銀色の髪が風になびいている。

 小柄で薄い身体つきは、少しの衝撃で壊れてしまいそうなほど細い。


 左右で色の違う瞳が、じっと俺を見ていた。


 陽気に満ちた草原で、冬に取り残されたように見えるその姿は。


 ——まるで、残雪のような少女だった。


ここまで読んでいただきありがとうございます!

因幡タカと申します。


6/10より連載開始しました。

少しでも面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります。

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