第33話「アプレゲール」
夜、九条に若い男が来た。
警察官だった。私服だったが、そういう体つきをしていた。内ポケットから小さな布包みを取り出した。
「祖父の遺品です」
包みを解くと、古い眼鏡が出てきた。丸い、細い金属フレームの眼鏡だった。
美晴が受け取った。しばらく見てから湊に渡した。
男が話した。祖父が刑事だったこと。光クラブ事件で山崎晃嗣を逮捕した担当だったこと。遺品整理をしていたら出てきたこと。
「なぜ持っていたのかわからなくて」
男が続けた。
「祖父も警察で、父も警察で、私もそうなりました。ただそれだけで来たわけじゃないんですが」
美晴が「続けてください」と言った。
「山崎という人間が、気になっています」
湊が眼鏡を手の中で持った。
軽かった。ひどく軽かった。それなのに、何かがあった。
男が話し続けた。山崎晃嗣という人間について。戦時中に同級生を上官の私的制裁で亡くしたこと。上官を庇って一人有罪になったこと。約束された分け前を反故にされたこと。「人間はもともと邪悪」と遺書に書いたこと。
「でも」と男が言った。
「本当にそう思っていたんですかね」
リリが黙って聞いていた。
届いた。
怒りではなかった。嘆きでもなかった。
世の中への絶望だった。人間への絶望だった。しかしその奥に、もう一つあった。
自分は上っ面だけ悪人だった。本当は善人だと思っていた。自分以上の悪人は世の中にいくらでもいた——上官も、裏切った愛人も、約束を守らなかった者たちも。自分は最も合理的に、最も正直に生きただけだった。
湊が眼鏡を見た。
もう一つ届いた。
眼鏡は真の善人を見分けるための、心のまじないだった。これをかけて見れば分かる——本当の悪人が誰で、本当の善人が誰か。理知の目で見ること。それだけが山崎に残ったものだった。
湊が男に向いた。
「これは、まじないだったと言っています」
男が動かなかった。
「真の善人を見分けるための」
しばらく間があった。
湊がもう一度眼鏡を見た。
最後に届いたのは句だった。
「望みつつ心安けし散るもみじ 理知の命のしるしありけり」
湊が静かに口にした。男が聞いていた。
誰も何も言わなかった。
しばらくして男が言った。
「祖父は、わかっていたんですね」
湊は答えなかった。
男が眼鏡を受け取った。包みに戻した。立ち上がった。
「持って帰ります」
美晴が頷いた。
男が出ていった。
リリがしばらく黙っていた。
「悪人って、案外正直なのかもね」
誰も答えなかった。
守り鏡は静かに光った。美晴だけが見た。
湊は安酒を飲んだ。




