『迷霊案内人』第1話:黄昏の信号機 ―鳴り止まない警告―
1.
古美術「九条」の店内を、埃の舞う午後の西日がオレンジ色に焼き付けている。
店主の九条湊は、カウンターの奥で一人、ラベルの剥げた安ウィスキーの瓶を握りしめていた。
「……ガラガラ、ペッ」
琥珀色の液体を洗面台に吐き出し、念入りに口をゆすぐ。死の匂いを消し、生の世界の味を舌に焼き付けるための、彼なりの儀式だ。
それから、わざとらしくシャツの襟を寛げ、だらしない「ろくでなし」の笑みを顔に貼り付けた。
その背後、カウンター奥の壁には、一人の少女がもたれかかっている。助手の、リリだ。
「……湊、またやってる。その無意味なうがい、電気代の無駄だって言ってるでしょ。そもそもあんたのその顔、誰が見ても『仕事の依頼を待ってる顔』には見えないわよ」
リリの鋭い声が飛ぶが、湊は答えない。
いや、答えられないのだ。彼女の声は、この世で湊にしか届かない。
「……源じい、お待たせ。こっちは準備できてるよ」
店の入り口に立つ源じいが、無言で頷く。
源じいの一歩後ろには、顔色の悪い中年の男が、震える手で一つの古びた時計を抱えて立っていた。
2.
依頼人の男が、恐る恐るカウンターに座る。
男の目には、湊と源じい、そして店内に溢れる古道具しか見えていない。
すぐ横の壁にもたれ、自分を値踏みするように見つめているリリの姿も、彼女が漏らす
「……この男、何かに追いかけられてるわね」
という不穏な呟きも、男には一切届いていなかった。
「……あの、源さんに伺いました。九条さんなら、この……『懐中時計』の呪いを解いてくださると」
男が震えながらテーブルに置いたのは、風防が割れ、煤けて黒ずんだ円形の時計だった。
湊はそれを一目見て、わずかに目を細める。
「懐中時計、ねえ。……あんた、そいつをどこで手に入れた」
「……三年前、廃線になった踏切の近くで拾ったんです。以来、夜な夜な『カン、カン、カン』という音が耳から離れない。最近じゃ、私の娘が……夜中にその音に呼ばれて、踏切の方へ歩き出してしまうんです」
リリが湊の肩越しに時計を覗き込み、冷たく告げた。
「懐中時計じゃないわ。それは『鉄道時計』。
それも、猛烈に熱を帯びてる……誰かの執念が、まだ針を止めてない」
「……いいだろう。案内を引き受ける。源じい、報酬の確認を」
源じいが無言で、厚みのある封筒を湊の前に置いた。
依頼人の男が差し出した、切実な代償だ。
湊はそれを無造作にポケットへねじ込む。
「案内料は確かに。……あんたは家に帰って、娘さんの手を離さないようにしてな」
3.
深夜。霧の立ち込める廃踏切に、ハンターカブ(CT125)の排気音が響く。 カブのヘッドライトが真っ白な闇を射抜くと、そこには「下りたまま」の遮断機の幻影が浮かんでいた。
カン、カン、カン、カン――。
鳴り響く幻聴の警告音。遮断機の向こう側に、煤けた制服を纏った老監視員が立っていた。彼は狂ったように、折れかけたレバーを握りしめ、誰にも見えない「列車」を待ち続けている。
「……止まれ! まだだ! まだ交代の奴が来ておらん! 持ち場を離れるわけにはいかんのだ!」
老監視員の叫びが、空間を歪ませる。湊はカブを降りず、アクセルを軽く煽った。
「爺さん。あんたが三十年前にその踏切で突き飛ばして助けたガキ……あいつはもう、あんたよりデカいツラして生きてるぜ。さっき、あんたの形見だと思って拾った鉄道時計を、俺のところに持ってきたよ」
「……時計? そうか、わしの時計を、あの子が……」
「あんたの交代要員は、ここには来ない。あんたの勤務時間は、三十年前に終わってるんだ」
湊はカブのライトをハイビームにし、咆哮を上げた。
「案内してやる。この錆びたレールの先、あんたの『家』までな!」
カブが急加速し、幻影の遮断機を物理的に切り裂く。
老監視員の魂が、湊の突き放すような、だが確かな「肯定」を受け入れ、光の中に溶けていった。
4.
古美術「九条」に戻った湊は、真っ暗な店内で一人、洗面台に向かっていた。
「……ガラガラ、ペッ」
いつものように安酒で口をゆすぎ、重厚な鍵を開けて廊下の奥へ向かう。
そこには、言葉も、音楽も、光も必要なかった。
ただ、緩やかな電子音が一定のリズムを刻み、暗闇の中で緑色の小さな点が、静かに点滅している。
湊は、案内を終えて針が止まった鉄道時計を棚に置くと、その緑の瞬きをじっと見つめた。 点滅は、ほんのわずかだけ、力強さを取り戻したように見えた。
「……おやすみ」
湊は誰にともなく呟き、静かに扉を閉めた。
再び古美術「九条」には、音割れしたジャズだけが流れ始めた。




