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介護から逃げられない

 相談者は、五十代の女だった。


 服は地味だが、洗濯は行き届いている。

 爪も短く切られている。

 きちんとした人だと、一目で分かった。


 ただ――座った瞬間、肩が落ちた。


「……介護の話をしても、いいですか」


「どうぞ」


 それだけで、女は小さく息を吐いた。


「母です。九十を過ぎました」

「認知もあって、歩けなくて」

「一人では、何もできません」


 説明は淡々としている。

 泣き言には聞こえない。


「施設の話をすると、親戚が言うんです」

「親不孝だって」


 女は、膝の上で手を組み直す。


「私も、そう思ってました」

「最初は」


「今は?」


 女は、少し考えてから答えた。


「……分からなくなりました」


 正直な声だった。


「母を嫌いになったわけじゃない」

「放り出したいわけでもない」


 間を置いて。


「ただ、朝が来るのが怖いんです」


 俺は、何も言わなかった。


「起きた瞬間に」

「今日も一日、続くんだって思うと」

「身体が、動かなくなる」


 女は、そこで初めて俯いた。


「やめたい、って言葉が」

「喉まで出てきて」

「でも……言えなくて」


「なぜ?」


「人でなしみたいだから」


 その言葉は、静かだった。


 俺は、少しだけ姿勢を変えた。


「嫌いになったか?」


 女は、すぐに首を振る。


「……いいえ」


「憎んでる?」


「そんなこと、ありません」


「じゃあ」


 女を見る。


「壊れかけてるだけだ」


 女は、はっと顔を上げた。


「……壊れる、ですか」


「ああ」


「壊れるってのはな」

「弱いからじゃない」


「逃げ道がない状態だ」


 女の目が、揺れた。


「施設に入れる理由が欲しいんです」

「誰かが見て、納得する理由」


「証拠か」


 女は、苦笑した。


「そうですね」

「私が悪くないって、言える何か」


 俺は、首を振った。


「それは、無理だ」


「……やっぱり」


「誰かにとっての正解は」

「別の誰かにとっての罪になる」


 女は、黙った。


「だから」

 俺は続ける。

「証拠を集めても、終わらない」


「親不孝かどうかを決める権利は」

「他人にはない」


「……でも」


「あるとしたら」

「それは、あんただ」


 女は、目を伏せた。


「もう一つ、聞く」


「はい」


「このまま続けたら」

「どうなる?」


 女は、答えるまでに時間がかかった。


「……母より先に」

「私が、壊れます」


 声は、震えていなかった。


「それでいいか?」


 女は、首を横に振った。


「じゃあ」


 俺は、静かに言った。


「もう、十分だ」


「え……?」


「十分やった」

「誰に見せなくても」


 女の肩が、少しだけ揺れた。


「やめたいと思った時点で」

「もう、限界は超えてる」


「それを」

「親不孝って言葉で縛るのは」

「ただの暴力だ」


 女は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく言う。


「……証拠、いりませんでしたね」


「ああ」


「理由も」

「もう、分かってました」


「だろ」


 女は、立ち上がった。

 来たときより、背中が少し軽い。


「私……」

「母を、嫌いにならずに済みそうです」


「それでいい」


 ドアの前で、女は一度だけ振り返った。


「壊れなかったら」

「それで、親孝行ですか」


 俺は、少し考えてから答えた。


「少なくとも」

「人でいられる」


 ドアが閉まる。



 事務所に、静けさが戻る。


 相棒が、ぽつりと言う。


「重いわね」


「静かだろ」


「……うん」


 窓の外を見ながら、俺は思う。


 介護をやめる理由に、

 証拠はいらない。


 壊れる前に立ち止まることは、

 逃げじゃない。


 それを知っている人間が、

 一人でもいれば――


 もう、それでいい。


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