一人の人として見られたい
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
髪は整っている。服もきちんとしている。
けれど、顔だけが疲れていた。
「予約してませんけど……大丈夫ですか」
「椅子は空いてる」
そう言うと、彼女は少しだけ笑った。
座ってから、しばらく手元のバッグを撫でていた。
やがて言う。
「……私、ホストに通ってしまって」
責められると思ったのか、先に続ける。
「馬鹿ですよね。こんな歳で」
「年齢で馬鹿になるなら、世の中もっと静かだ」
彼女は一瞬、目を丸くした。
「……家では母親です。夫の世話もしてます。職場ではパートです」
「忙しいな」
「はい」
少し笑って、すぐ消えた。
「でも、誰も私の名前を呼ばないんです」
部屋が静かになる。
時計の音だけがした。
「家では“お母さん”
職場では“すみません”
夫には“おい”です」
彼女は膝の上で指を握った。
「その店の子だけなんです」
小さな声だった。
「“今日も来てくれて嬉しい、由美さん”って」
名前を口にした瞬間、涙が落ちた。
「私、あんなの営業だって分かってるんです」
「賢いな」
「なのに、やめられなくて……」
ティッシュ箱を机の端から滑らせる。
彼女は受け取って、少し泣いた。
「……私、男が好きなんじゃないんです」
「知ってる」
顔を上げる。
「あんたが欲しかったのは、
一人の人として扱われる時間だ」
唇が震える。
「……そんなの、贅沢ですか」
「水みたいなもんだ」
「え?」
「ないと死ぬ」
また涙がこぼれた。
しばらく泣かせてから、コーヒーを置く。
「その店はやめろとは言わない」
「……はい」
「ただ、水道が一本しかない家は危ない」
彼女は静かに聞いている。
「名前で呼ぶ友達を作れ。
趣味でも仕事でもいい。
家族にも、一回くらい言え」
「なんて?」
「私には名前がある、って」
彼女は泣きながら笑った。
帰り際、ドアの前で振り返る。
「……ありがとうございました」
「由美さん」
彼女は止まった。
目を見開いて、それから深く頭を下げた。
ドアが閉まる。
私は冷めたコーヒーを飲む。
「証拠なんてなくても、人はちゃんと分かっている」
誰にともなく呟く。
「だから——証拠はいらない。」




