第六十五話 『海中の神域』
「……ねぇ、お兄さん?」
「ん?」
クロノの手を引いて泳ぐマリアーナが、言いにくそうに口を開いた。
「何で、ここまでしてくれるの?」
「共存が夢なのは分かるけど、僕とはさっき会ったばかりなんだよ?」
「親切すぎじゃない?」
しかも初対面で攫おうとした相手である、普通はここまでしないだろう、普通は。
「んー……助けたいってのに理由がそんなに必要かなぁ……」
「まぁしいて言えば、あれかな」
「俺にもさ、血は繋がってないけど、兄貴みたいな奴が居るんだ」
「憧れであって、絶対に負けたくない存在って感じでさ」
「だから、負けたくないって気持ちがちょっと分かんだよ」
そう言って、クロノは左手の指輪を見る。きっと、今もどこかでローは頑張っている筈だ。置いていかれる訳にはいかない、離れていても、負けたくない気持ちに変わりはないのだ。
「たまにはさ、下の奴が勝っても良いと思うだろ?」
「お前に手を貸すのに、これ以上理由がいるか?」
「……普通はいるんじゃないかなぁ……」
「……けど、お兄さんはそっちのほうが似合ってるかも」
そう言って前に顔を向けたマリアーナ、その頬が赤いのは気のせいだろうか。
「そういえば聞きたかったんだけど、人魚の宝玉って何なんだ?」
「この先に、海林って場所があるんだけどね」
「その中心に、生き物が何にも住んでない空間があるんだよ」
「そこは神海って呼ばれてるんだ」
「何者も存在しない、ぽっかりと水中に開いた穴みたいな場所」
「昔からそこは、神聖な場所として海に住む者は扱ってきた」
「僕達海住種の大人の儀式も、その場所で行われるの」
「そして、人魚の宝玉もその場所で生まれる」
「神海を取り巻くように水流が流れて、その水流で固められた砂とか、サンゴとか、そういった物の結晶が、人魚の宝玉の正体だよ」
「様々な物が固められて、磨かれて、ガラスみたいに透き通った輝きを持つ、海が生んだ奇跡の宝石」
「生まれる瞬間の美しさとか、水流の流れ方が、複数の海住種が踊ってる様に見えるから、その名前が付いたって言われてるよ」
それは大層な物を取って来いと言われたものだ。
「けど、その話だけじゃ分かんない事があるんだけどさ」
「大型の鮫だとか、危険だとか、さっき言ってただろ?」
「それはどういう意味だったんだ?」
「神海が神聖な場所として扱われるようになったのは、その場所が不思議な場所だからってだけじゃないの」
「その周りの海林に住む大型の鮫・クリスタルシャークの存在……」
「海林にだけその存在が確認されてる鮫で、決して海林から出ようとしない」
「そして、決して神海に踏み込む事はない鮫」
「踏み込んだ敵に容赦はしないけど、神海に辿り着いた者への攻撃はしない」
「まるで、守護神のようなあの鮫が、あの場所を神聖な場所に見せてるんだと思う」
海の中の神域、そこを守る守護者……。どうやら、一筋縄ではいきそうにない。
「何とか見つからずに済めばいいんだけど、そうも行かないと思うんだよね……」
「神海にさえ辿り着ければ、帰り道で攻撃される事は無いって聞いたけど……」
「海林は迷路みたいって話だからなぁ……僕が全速力で泳いでも、きっと追いつかれちゃうよ……」
「襲われるのは、まず間違いないって事か……」
海の生物と水中戦、考えただけでゾッとする。まともな思考回路じゃ勝つ姿は想像出来ないだろう。
「しかもクリスタルシャークは魔法も使ってくるって聞いた事があるよ……」
「正直、僕も生きて帰れる自信がないかな……」
その言葉に、クロノは頭に『?』を浮かべた。
「え、行くのは俺だけだろ?」
「マリアーナは海林の前辺りで待ってろよ」
「何馬鹿言ってるのさ! そんな事出来ないよ!」
「その、僕の為に頑張ってくれるのに、僕だけ見てるとかそんなの……」
「俺の夢が本当か、俺の言葉に嘘がないか、それを証明できなきゃ意味が無いんだぞ?」
「俺一人で行って、お前の為に人魚の宝玉を取ってくる事に意味があるんだ」
「だから、俺一人で行く」
「~~~~~っ! でも……っ!」
マリアーナが何かを言う前に、辺りの雰囲気が変わった。崖のような場所から、不思議な光景が眼下に広がる。
「何だ……あれ……」
「あれが海林、綺麗でしょ?」
オレンジや紫、様々な色に輝く何かが、海の中に輝く森を創り出していた。
「あれは光珊瑚、珍しい種類なんだけど、この場所には普通じゃ有り得ない数が自生してる」
「地上の木みたいに高く生えてる、あの珊瑚で生まれた海中の森、それがこの場所なんだよ」
「そして、見えるかな、あそこ」
マリアーナが指差す方を見ると、輝くサンゴの森の中に、穴が開いたような場所が見えた。
「あの何も無い場所、あそこが神海だよ」
「そして、あれ……」
言われる前に、クロノの目も『それ』を捉えていた。輝く森の中から、透き通った背びれが見える。
かなり遠くの筈だが、その大きさは凄まじい物があった。
「あれが、クリスタルシャークか……」
「やっぱ、大きいね……」
何故水中の大型生物と言うのは、これほどまでに恐怖心を与えてくるのだろうか……。
「……迷ってても仕方ないよな……」
「マリアーナは危険だから、絶対に来るんじゃないぞ!」
「あ、ちょっとお兄さんっ!!」
マリアーナの静止を振り切り、クロノは崖の下に飛び降りて行った。
そして、その様子を遠くから見ていた影が二つ……。
「ふふっ、好都合ですわ、あの人間一人で行くなんて……」
「あの場所は、ただ進むだけでは神海には辿り着けませんしね」
「では、少し虐めてあげましょう」
「海の中の問題に首を突っ込んだ罰を与えて差し上げますわ、たっぷりとね」
二体の海住種は、妹に気が付かれない様、クロノの後を追って行った……。
その頃、海林に飛び込んだクロノはというと……。
「近くまで来ると目に優しくないな、ここ……」
「ま~ぶ~し~い~よ~!」
「様々な色ってのが、キツイね……」
カラフルな光珊瑚の妨害に会いつつ、海の中を歩いていた。
「海底を歩いて進むなんて、不思議な気分だ」
「これで鮫とか居るって知らなかったら、旅行気分でフワフワ出来たんだけどな……」
「世の中そんなに甘くないってことだね」
「そんな事より、あの鮫とエンカウントしたらどうするの?」
「風を生んで無理やり水流を作れば、何とか動けたりはするだろうけど、やっぱり不利だよ?」
そもそも、出来れば会いたくない。
「風を生めば、風の力は使えるけど……」
「自然の風が存在しないここじゃ、風の感知は使えないしな……」
「ティアラが居れば、この場所でも感知が出来るんだが……」
「僕の振動感知も、今のクロノには使えないしね」
「アルディ君の感知は泳いでる鮫に効果ないじゃん~」
「どっちにしても、鮫の接近に先に気が付くのは、今のクロノじゃ無理だねぇ」
となると、必然的に鉢合わせる事になる。
「はぁ……遭遇しないで辿り着けないかなぁ……」
「無理だろうね」
「無理だと思うなぁ」
「……だよな」
溜息をつきながら歩を進めるクロノ、崖の上から見た限り、このまま真っ直ぐ進めば辿り着く筈だ。
そう思っていた矢先、いきなり水流がクロノの体を押し戻した。
「うわっ!?」
足が浮き、数メートルほど後ろに押し流された。慌てて体勢を戻すが、水中の為着地が上手くいかない。
「とっとっ! 何だ今の?」
水の流れが変わった訳じゃない、まるで道を阻むかのように水流が襲い掛かってきた。試しにもう一度進んでみるが、同じ様に押し返されてしまう。
「どうやら、正しい道とそうじゃない道があるみたいだね」
「そうじゃない道は、今みたいに水流で通れない、と」
「迷路みたいな場所ってそう言うことかよ……」
モタモタしていると、鮫に襲われる可能性が上がってしまう。
「くそぉ、走ろうとしても水の抵抗で変な感じだ……」
「普通に泳げばいいじゃないか」
「あ、そっか……」
呼吸が出来るせいで、水中だという事を微妙に忘れてしまう。クロノはバタ足で進んでいくことにした。
「しかし、このブレスレット本当に便利だな」
「絶対に外しちゃダメだよ? それ外したら間違いなく死ぬからね」
「怖い事言うなよ……」
「いや、本当の事だろう」
「戦闘中のゴタゴタでそれ外れたら、それだけで負け確定だよぉ?」
分かってはいたが、水中では不利な事が多すぎる。出来ればこのまま何も起こらずに済んで欲しいのだが、そんな安全な運命を神は許してはくれないようだ。
「ふふっ! 覚悟なさいな人間君!」
「アクア・シュトローム!」
頭上から聞き覚えのある声が響いたと思ったら、凄い勢いの水がクロノ目掛け撃ち出されてきた。
「うわぁっ!!?」
咄嗟に横に飛んで直撃を避けるが、水流によって大きく流されてしまう。
「むぅ、いい反応するじゃありませんか」
「姉さま、攻撃前に声を上げては奇襲の意味がありません」
「避けられるのも当然です、少しは考えてください魚頭が」
「ぐぅっ……い、いいからあなたも役目を果たしなさいなっ!」
「手を組んだ以上、最低限の働きはしなさい!」
「はぁ……間違っても私に当てないでくださいよ?」
「時と運によりますわっ!」
「……」
突然の攻撃に大きく流されたクロノ、何とか体勢を立て直したクロノの前に、シーが立ち塞がった。
その両手には、二本の透き通る剣が握られている。
「……ここまでするのか、あんた達……!」
「これは姉さまの案ですが、私はマリアーナが傷付かないのなら何でもいいです」
「確かに少々汚い手ですが、姉さまならこのくらいの汚さが丁度いいと思います」
「希少種君には少し納得が出来ないでしょうが、諦めてください」
「嫌だね、逆にマリアーナを勝たせてやりたいって気持ちが強くなったよ!」
「……マリアーナは負けます、絶対に」
「何故なら、君が私達に勝てる可能性は無いからです」
「水中で、人が海住種に勝てる道理はありません」
「ですから、出来れば……」
「シーッ!! 何を長々とお喋りしていますのっ!?」
「前衛が止まってちゃダメでしょうっ! さっさとその人間君をボッコボコにして差し上げなさい!!」
こちらに右手の剣を向け、何かを言おうとしたシーを遮り、アクアが叫んできた。どうやら彼女は後衛ポジションらしい。
「……やはり、姉さまとは相性的な意味で分かり合える日は来ない気がします」
「戦闘前の会話とは、戦闘後の〆の台詞を際立たせる為の印象付けとして最も大事な……」
「いいからはよ戦えっ!!!」
姉の叫び声を合図に、納得いかない表情のまま、シーが襲い掛かってきた。その速度は、クロノが構える前に懐に潜り込むほど早い。
(やばいっ! アルディッ!)
(あぁ!)
金剛を発動するのと、シーがクロノを斬り付けるのは、殆ど同時だった。
「む? その硬さ……人の物ではないですね……」
「私の双晶剣の刃を弾くとは……」
「つか普通に斬り付けて来るんじゃねぇよっ! 殺す気かっ!!」
両手でガードしたとはいえ、金剛を発動してなければ両手とさよならしていたところだ。
「……あっ……」
「……ごほんっ、……ちょっとしたジョークです」
「絶対嘘だろっ!!」
「君の力を信じていました、お見事です」
「訳が分からない! ふざけるんじゃねぇっ!」
思わず殴りかかるクロノだが、踏み込んだ足が海底を離れた瞬間、勢いが死んだ。
(……ッ! 水の中だってこと忘れてた……!)
「だから言ったのです、水中で君に勝ち目は無いと」
水中で無防備に浮かび上がったクロノは、的でしかない。シーはクロノ目掛け突っ込み、すれ違い様に斬り付ける。
「ぐっ!」
いくら金剛で防御力を上げてるとはいえ、刃物で斬られれば結構痛い。
「つか、また普通に斬ってきたなっ!?」
「どんな体をしてるか分かりませんが、君の体は私の剣を通さないようです」
「滅多にない機会です、試し切りの」
凛とした表情に見えるが、目がキラキラしている、これ以上ないほどに。
(危ない子だ、何か気を逸らさないと……)
「そ、その剣……ただの剣じゃないな!?」
「……っ! 分かりますかっ!」
このままでは八つ裂きにされかねない、何とか気を逸らそうと適当な事を口にするが、予想以上にシーが食い付いてきた。
「この剣は非常に珍しい、角晶珊瑚から作られた名剣なんですっ!」
「強度、切れ味、見た目の美しさ……どれをとっても素晴らしいの一言っ!」
「なるほど、これのよさに気が付くとは……流石希少種君……中々御目が高い……」
どうでもいいが、希少種君と呼ぶのは止めて欲しい。
そして、うんうんと頷くシーは完全に動きを止めていた。
(気は引けるけど、今がチャンスだな!)
(エティルッ!)
(うん!)
疾風に切り替え、足元に風を生み出す。クロノの足元の水が、その風で無理やり水流を作り始めた。
(一気に決めるっ!)
風の流れを操った時と同じ感じで、周囲の水を自身が生んだ流れに乗せる。それで生み出された水流に、自分の体を乗せる。スムーズに水の中を動くには、これしかないのだ。
予想外の速度で自分の傍まで突っ込んできたクロノに、シーは驚きを隠せない。
「なっ!?」
(動き出しが遅い、俺のほうが先に届く!)
水中では打撃の威力は期待できない、精霊法で攻めるべきだ。
「喰らえ、風……」
「アクア・シュトロームッ!!」
クロノの攻撃に割り込んで、アクアの放った水撃がクロノを襲った。
「ガッ!?」
さっきより早い、完全に油断していたクロノはその一撃をまともに喰らってしまう。疾風の状態で喰らった為、ダメージが大きい、何とか体を起こそうとすると、シーが眼前に迫ってきていた。
「……油断してました、君は何か特殊な力を秘めているようですね」
「もう、手心を加える必要はないでしょう」
先ほどまでとは違う、目付きには背筋が凍る物を秘めていた。
「水流剣・蛟っ!」
二本の剣から放たれた斬撃は、水流の刃と化し、クロノの体に襲い掛かった。抵抗も回避も出来ず、クロノは直撃を貰ってしまう。
一本の光珊瑚をへし折り、クロノの体は吹き飛ばされていった。
「……勝負ありですね」
剣を収め、シーが背を向けてそう言った。
崖の上で待っていたマリアーナは、海林の一角で大きな音がしたのを聞いていた。その直後、一本の光珊瑚が折れるのも目撃した。
「……お兄さん、やっぱり何かあったんだ……」
「けど、待ってろって言われた……でも……」
大人しく待っていられる筈が、無い。
「あーーーーっ! もう無理! 待ってるとか無理っ!!」
「お兄さん、無事でいてよっ!?」
マリアーナはそう叫び、海林へ飛び込んで行った。
そして、神域へ踏み込もうとする侵入者を感じ、動き出す影も一つ……。




