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見紛うほど姉と似ていても、この少女を自分の身内だとは思えなかった。それは多分、少女の強すぎる、ひたむきすぎる想いが、痛いほど分かるからだろう。
二歳の僕が田代家に引き取られて以来ずっと、彼女は僕に取り付いていた。最初はただ、家族の傍にいたかっただけなのだろう。ところが、僕が成長すると共に彼女も成長し、徐々に家族を守ろうという思いが強くなり、そこから悲痛な決断が生まれた。自分を思い出しては泣く母を、姉を、長女の顔を見て次女の姿を想像する父を、悲しませたくないと思ったのだ。半年前まで、それはうまくいっていた。
『野球ボールが頭に当たったせいで、つながりが強くなりすぎちゃったみたいだね』
「いきなり電柱がくねくねしだしたから、焦ったよ」
僕は姉と違って、生まれつき人ならざるものが見える人間ではない。唐突に開けた世界も、そこに在るものと渡り合う能力も、僕の限界を超えていたのだ。初めて念を使った桜の一件では気絶し、電柱にしがみついて神と会話した次の日には頭蓋骨が砕けるような痛みに襲われた。
『あたしを責めないんだね』
虚勢を張って、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
「責められるわけないだろう。むしろ感謝している」
僕の悪癖で言葉が淡々となってしまったが、これは本心からだ。言い終えて、僕はまた目の奥が熱くなるのを感じた。ここまで自己犠牲に徹していた少女だ。次に思うだろうことも、僕には予想がつく。
田代昌は、消えようとするのだ。田代家からこれ以上子供を奪わないように。
それを止められないから、彼女が多分一番欲しがっているものを、僕はあげたい。
「だから君が今まで守ってきたもの全部、これからは、僕が守るよ」
誠実に聞こえるように。優しく聞こえるように。発言にここまで気を配ったのは初めてかもしれない。
『約束だよ?』
彼女な泣きそうな顔で、僕を睨みつけた。強がりだなんて、わざわざ指摘はしない。
一年ほどしか一緒にいられなかった家族を、彼女はずっと守ってきたのだ。名前の字面だけ同じ養子に憑いて、自分の存在を忘れさせてまで、幸せになって欲しいと願っていた。死んでから十五年間、ずっと。
「ああ、約束だ」
僕が頷くと、田代昌はようやく笑った。それから驚くことに僕に抱きついて(といっても、感触はないのだが)囁いた。
『ありがとう』
前述の通りこの少女を身内だとは思えないから、いささか、いや大分に戸惑ったが、しばしの逡巡の後、僕も腕がすり抜けないよう慎重に抱きしめ返した。温もりが伝わるのかは分からないが、伝わればよいと思う。
この人は生まれてから何回、抱きしめられたのだろうか。最後の抱擁の相手は、皮肉にも僕だ。求めてやまなかった家族ではなく、自分の身代りになった余所者だ。
「僕はこれからも、君のいるはずだった場所に居座り続ける。それでもいいのか?」
どんな思いで、この人は僕を眺めてきたのだろうか。自分が手に入れて然るべき幸せを、全部譲り受けてしまった僕を。
幼い日の僕が君の家族に抱きしめられたとき、君は僕の感じた温もりを、安らぎを、感じられたのだろうか。
『いいよ。だからあたしのことは、忘れてね。そうしないと貴方、ずっとあたしに申し訳ないと思いながら生きていくことになるんだもの』
声こそ穏やかになっているが、意地を張っているのか主張は変わっていない。
それではあまりに悲しいから、僕は首を横に振った。
「君は一つだけ間違えた。僕も君の家族も、君のことを忘れたまま幸せになど、なれないよ。だから、僕は君のことを忘れない。いつか君の家族が、君のことをふとした拍子に話題にできるようになればいいと思う」
ゆっくりと、それでも確たる意志を持って言う。人の幸せは、不幸せが存在しないことではない。それを僕が悟ったのは正にこの瞬間だけれど、きっと間違っていないはずだ。
十五年間も取り付いていて、最後の半年は人ならざるものを見る力まで共有して、それでも、僕たちは違う人間だ。だから、忘れないでいたい。養子の負い目を感じるのとは全く別の次元で、忘れてはいけないと思うのだ。
姉にそっくりな少女の姿は、薄くなった。それまで遠くでうねうねしていた電柱が直立して止まった。低空飛行していた産業廃棄物の群れも見当たらない。昌が消えることで、僕は人ならざるものを見る力を失うのだろう。
『分かった』
諦めたような笑いを含んだ声に、僕はもうなにも返してあげられなかった。
すると彼女は、悪戯っぽく言った。
『でもねショウ、貴方は一つだけ間違えた』
「?」
『「君の家族」じゃあ、ないでしょう?』
ああ、そうだね。僕は微笑んだ。たとえ血のつながりがなくとも、最初は末娘の身代りだったとしても、この十五年間彼らは確かに、僕の家族だった。これからもそうであり続ける。
もう目を凝らさないと見えない。
『間違えちゃだめだよ。……あとね、ショウ。貴方はもう一つ分かってない』
やがて田代昌は、独りになった。
あのねショウ、あたし、家族に愛されて元気に育って、普通に女子高生とかにもなって――
――どこかで生きてきた貴方に、出会いたかったな。
「昌!」
駆け寄ってくる姉と愛犬に、片手を挙げて応えた。勝手に外出して、犬を放置した僕を心配してきたのだろう。
桜にもたれたまま動けずにいたのだ。しかし、眠気はない。疲れているだけだ。愛犬に体当たりされて、「うが!」と電柱と同程度に不思議な呻き声が漏れた。
姉が慌てているので、僕は安心させるように微笑んだ。
「姉さん、アキに会いました」
どんな反応が返ってくるのかいくつか予想したが、どれも正解ではなかった。姉は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに寂しそうに笑ったのだ。
「私も会いたかったな」
姉さんの妹は、姉さんにそっくりでしたよ。見間違えたくらいです。告げると姉は嬉しかったらしい。遺伝子レベルで似ていない弟、つまるところ僕に笑いかけた。
アキへの喪失感はきっと僕だけのものではなく、姉に、両親に、祖父母にもあるのだろう。それが自然なことで、少しくらいは時と共に薄れるにしても、消えることはない。
僕は勢いをつけて立ち上がった。
「さあ、帰りましょう」
何も分からない愛犬を撫でると、尻尾が元気よく振られた。
すべてが終わったのだ。
アキ、安心して眠るといい。君が今まで守ってきたもの全部、これからは、僕が守ろう。
電柱の踊らない夜空を見上げ、僕は決意を新たにした。そして。
本当は、君のことも幸せにしたかったけれど。生きている君と一緒に未来を見てみたかったけれど。
自然と湧き上がった感情には、自分でも驚いた。