第87話 始まりの日
時間はやや遡り、運命の日の第113前線区。
切り立った山々に囲まれたその場所は、魔族も容易に超える事ができない天然の要害として機能していた。
王国はその地に砦を築き、魔族達が侵入してこないよう鉄壁の防御陣を敷いていた。
100年前の大戦より、まだ一度も破られていない天然の要所。
それがこの第113前線区だった。
その日の夕刻、砦の手前。
ここではいつも通りの光景が広がっていた。
散発的に訪れる魔物、それを数人の男たちが囲んでいた。
「そっちに一体行ったぞ!」
兵士の一人が足元の小さな敵を潰しながら、横に居る仲間へと叫びかける。
その声にまるで呼応するよう、銀色の光が兵士たちの足元を奔る。
決して大きくはない、まるでボールくらいの大きさの輝き。
しかしそれは恐るべき速度で地上を跳ね回り、光る影となって兵士たちの隙を伺っている。
多目的ゴーグルによる視覚補助を得ても尚、それは捉え切れぬ程に速かった。
「くそッ!」
小太りの兵士が槍を振り回す。
ぶん、という音と共に真上から振り下ろされたその一撃は、しかし光る影を捉える事は無い。
その槍先は虚しく大地を叩きつけ、砂埃を舞い上げるのみだった。
そしてその隙を見逃さなかったかのように、光る影が大きく跳ねる。
まるで叩きつけられたゴムボールのように勢い良く大地から跳ね返ったように見えたそれは、槍を振り下ろして歯噛みするその顔目掛け突っ込んでいく。
あたりに響く、ごしゃ、という乾いた破砕音。
光の影が放った蹴りが小太りの兵士の顎を捉え、砕いていた。
蹴りによって勢いが減じた光の影が、ようやく姿の捉えられる速度となり、周りの兵士たちにその姿を見せつけた。
それは、銀に輝く兎だった。
銀の装甲を纏ったような兎。
しかし一際目を引くのが、その足の姿だった。
普通の兎よりも一回り大きいそれは、完全に金属に覆われていた。
鋼鉄が足の周りを包み、まるで鉄の靴を履いているかのようだった。
小さな体に、あまりにもアンバランスな鉄の足。
それはまるで神が設計を損じたかのような姿をしていた。
線兎。
戦場でそのように呼ばれている魔族だった。
あまりにも高速で動く様子がまるで線のようだ、という所から付けられた俗称である。
そしてこの線兎は100年前の大戦から今に至るまで、一番多く人類が戦ってきた魔族の内の一体でもあった。
小太りの兵士が、勢いのまま吹っ飛ぶ。
その口腔内からは血と歯が吹き出し、辺りに撒き散らされている。
目から涙も流れているが、その視線は未だにしっかりとしていた。
線兎は兵士の顎を踏み台にしながら飛ぼうとする。
だが不安定なそこを蹴った為か、地面を蹴った程の速度は出ていない。
動きが遅くなったそれを見逃す程、前線の兵士たちも鈍ってはいなかった。
「シィッ!」
兵士の一人が気合と共に放った鋭い刺突が、線兎を捉える。
幾ら表面に鉄を纏う魔族であろうと、小型な兎であればたかが知れたもの。
槍で貫けぬ程の装甲ではなかった。
宙に浮いた線兎の胴体に、槍先が突き刺さる。
その一撃は兎の中に宿る魔族の急所――核に届き、固まりの下半分を削った。
線兎はそのまま、自分が作り出した勢いと槍に押し出される力で斜め方向に吹っ飛び、地面に転がった。
完全に力を失い転がるその様は、最早普通の兎となんら代わりが無いようだった。
大地に転がる男一人と兎一人。
静けさを取り戻した砦前には、それだけが残されていた。
「おい、大丈夫か!」
倒れた小太りの兵士に、他の兵士が声を掛ける。
「ら、らいしょふ……」
小太りの兵士は手を上げて、大丈夫、と言おうとしたのだろうが、砕けた顎は情けない音を立てるのみだった。
彼はあー、と軽く首を振って、そのまま大の字になって寝転んだ。
周りから二人近づいてくると彼を引き起こし、左右に肩を貸しながら砦へと引っ込んでいった。
「首を折られなくて良かったな」
「運が良かったぞ、ほんと」
線兎による蹴撃は、人の首など容易にへし折る。
戦場ではこの小さな襲撃者が草むら等から飛び出してくるのを、兵士たちは何より警戒していた。
「今日は兎だけで助かるな」
槍をくるくると回しながら、一人が言った。
「受けるとヤバいが、倒しやすいからまだマシだからな」
「確かに猪になると骨が折れる」
兎型の小型の魔族は殺傷力は侮れないが、その矮躯から想像される通り打たれ弱くもある。
兵士の立場としては気が抜けないが功績稼ぎには丁度いい、手頃な獲物という認識だった。
魔族は狩れば狩るだけ美味い。
少なくとも、兵士にとってはそうだった。
「できればもうちょっとくらい来てくれると、仕送りも増やせるんだが」
「縁起でもない事言うなよ。平和が一番だろ」
兵士たちはそう言って戯れ合う。
彼らはこの許容できる範囲の危険がいつまでも続くと、そう思っていた。
その日までは、間違いなくそう思い込んでいた。
砦の監視室では、数名の騎士が砦周囲の監視業務を行っていた。
広範囲の索敵を行う広域探査の魔導式を組み込んだ、情報の拠点。
壁に張られた巨大なタペストリーのような情報端末には砦周囲の地図と、そこに敵性反応が無いかどうかが表示されていた。
光の民である人間やその他動物と、闇の種族である魔族では発する魔力波長に違いが有る。
探査系の魔法では、その差異を見分け敵性体を判別しており、それを端末に表示している。
また砦の上空を見れば、数匹の鳥がそこを旋回しているのが見える。
魔導式を組み込んだ眷属鳥。
この鳥は魔導式により紐づけられた主の命令を忠実に実行し、またその感覚情報を主に投射する事ができる。
これにより上空からの目視監視も行え、また遠距離の偵察も担うことが可能となっている。
監視業務ではあるが、その空気は緩やかなものであった。
「そろそろ交代の時期だな。麗しの王国にもうすぐ帰れる」
ふわあ、とあくびをしながら、年若い騎士があくびをした。
「まあ若い奴はこんな所からはさっさと帰りたいわな」
隣で苦笑をしていたのは、それよりもやや歳の増した、壮年の騎士。
しかし彼もまたリラックスした体勢を取っており、ぐでりとして椅子にもたれ掛かっていた。
部屋の方々で、似たような光景が広がっている。
気持ちが緩んでいるのは二人に限った話ではなかった。
「前線じゃ通信も制限されてるからな……幻燈もろくに見れやしない」
「持ち込んだ記録棒に入ってる分は、全部観ちゃいましたよ。暇なんスよね、ほんと」
二人は互いに肩を竦めながら、ここでの生活を思い起こす。
最前線という事で、ここは一般的な通信網からは遮断されている。
その為、現代的な娯楽は殆ど無いと言って良かった。
やれる事と言えば、自前で持ち込んだ娯楽品で暇を潰すか、鍛錬する事くらい。
体を動かす事が好きでもない人間が、前線に行くと人が変わったようにそれに打ち込むようになるというのは良く聞く話だった。
なにせ最終的にそれしかやる事が無くなるからだ。
末端の兵士は気炎を上げて頑張っているが、騎士にそんな気持ちは無い。
兵士たちは現れる魔族を狩れば狩る程儲けが出るが、騎士はそうではないからだ。
兵士は基本給+出来高。
騎士は給金固定。
騎士が身を削ってまで頑張る必要性は、どこにも無かった。
また多くの騎士にとっては前線はキャリアアップの為の踏み台の一つでしかなかった。
前線務めという箔をつけ、王国に帰り出世をする。
それが大多数の騎士の思い描く未来。
通過点であるこの場所で努力を重ねようとは考えていなかった。
最終的に、どう時間を潰し、どうやり過ごすか。
それが重要になるのが、前線務めの騎士の常だった。
――ゆっくり体をほぐすように伸びをする若い騎士の脳裏に、突如激しく光が明滅した。
広域探査魔法が捉えた、緊急の警報光。
それが警鐘を鳴らすように彼の脳内に流れ込んできた。
彼は即座に目の前の端末に向かうと、情報を精査し始める。
「こりゃ……」
脳内に送られる情報。
そして、目の前の端末に流れる情報。
その何れもが、敵性体の出現を感知していた。
これが普段であれば、一つ二つ捉えるのみであり、それを外の連中に伝えるだけで終わる話だった。
しかし今回は違う。
彼の頭の中で告げる情報、そして端末の地図に映る敵の数は、そんなものでは済まない。
十、二十とどんどん増えていく。
そしてその数は、留まる事を知らない。
ひたすらに増える光点が、地図の端から湧き出るように現れていた。
若い騎士がちらりと隣を見ると、壮年の騎士も深刻な顔で端末を操作している。
「これは、もしかしてですか」
「もしかするかもしれん」
ごくりと喉を鳴らす音が、室内に響く。
彼らの脳裏が、最悪な事態の到来を予測していた。
「眷属鳥を向かわせます」
若い騎士が即座に自分の眷属鳥を動かす。
探査が引っかかった方向へ、鳥を向かわせた。
地平線に太陽が沈む中、赤い空を裂くように鳥が進む。
闇と光が混ざり合うその光景を鳥の目を通して若い騎士は見ていた。
こうして空から世界を眺めるのが、彼は好きだった。
地上とは見え方がまったく違う。
俯瞰した光景が、まるで全てから解放されたかのように思える。
ほんの僅かだけ彼は今が任務中だという事を忘れ、束の間の遊覧を楽しんだ。
きらり、と視界の端に光が見える。
いよいよか、と若い騎士は気を引き締めた。
表面に鋼を纏う魔族は、己を隠す気が無いかのように派手に煌めいている。
光を見たら魔族と思え。
それは、古から今まで続く格言の一つだった。
光の方向へ、鳥は進む。
遠目からでも分かる。
若い騎士は再度喉をならす。
額から汗が滲み出て、頬まで伝うのを彼は感じた。
しかしそれを拭う事もせず、鳥の視覚から送られてくる情報に釘付けになっていた。
目の前に見えるのは、一面の光、光、光。
きらきらと輝くその集合体は、まるで光の洪水のようであった。
視線の先には数え切れぬ程の魔族たちが、大挙して進んできている。
目的地は考えるまでもなく、砦だろうと彼は思った。
広域探査から送られてくる光点の数を数えようとするが、止めた。
あまりにも馬鹿馬鹿しい数までそれは膨れ上がっていたからだ。
ざっと見たところ、1000は下るまい。
少なくとも、若い騎士の目にはそう見えた。
「攻勢です」
極力冷静に、はっきりとそう言ったつもりだった。
しかし実際に口から出たのは、「キョセイです」という間の抜けた声だった。
若い騎士は再度、伝える。
声を張り上げて、今度こそははっきりと。
「攻勢です!」
部屋に響き渡る程に、叫ぶ。
「大攻勢です! 数は不明! おそらく、1000以上!」
「こちらでも確認してる」
壮年の騎士も冷や汗を流しながら、必死に何処かを見ていた。
おそらく自分と同じように眷属鳥で敵を見て回っているのだろうと若い騎士は当たりを付けた。
「おいおいおい、砲撃象までいやがる。あいつら本気で砦を落とす気だぞ」
その壮年の騎士の口調は楽しげながらも、震えを伴っていた。
なんとか笑おうとしたその顔も歪んでいる。
「とにかく指令に報告だ。視覚情報も何もかも全部回せ!」
普段は平穏を甘受している監視室。
そこは今、修羅場を迎えようとしていた。
仕留めた線兎を運ぼうとしていた兵士たちの耳に、甲高い音が届く。
それに、兵士たちは一斉に身を固まらせた。
緊急事態を知らせる警報音。
「おいおい嘘だろ」
彼らの顔が、驚愕に染まる
兵士としては、安全な範囲で魔族と戦えるのは大歓迎だった。
しかし命がかかってくるとなると、話が違う。
命を賭ける価値が有ると知っていても、怖いものは怖い。
その場に居る全員が同じ気持ちを共有していた。
だがどれだけ尻込みしようと事態は変わらない。
兵士たちの多目的ゴーグルに情報が転送されてくる。
砦に向かう敵影有り。
総数1000以上。
その数を見て、これが単なる小競り合いでない事を彼らも悟った。
「戦争かよ」
ぽつりと、兵士の誰かが呟いた。
「本当の戦争かよ」
砦内が慌ただしく動く気配を、門前の彼らも感じていた。
これから始まるのだ。
この砦の存亡を賭けた、本当の戦いが。
十年以上も起こっていなかった大攻勢が、今この瞬間始まったのだと。




