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最終章 美しいもの

 事の起こりは、私たちが妖精館に宿泊することになって二日目の深夜だった。

 その日の昼に、私が雨の中を薄着で歩いたことで風邪を引いてしまい、それを口実に病院まで連れて行ってもらおうという計画を、私は乱場(らんば)と二人で彼の部屋で練った(今になって思えば、なんと呑気な計画だったことだろう。あの(かすみ)火櫛(ひぐし)が、病気の私を病院まで連れて行ってくれるなど、するはずがない)。

――以下、断りのない限り、括弧内の引用は「第16章 分水嶺」からだ。

 その直前、乱場の部屋に赴く際、私は「念のため部屋の鍵も持って」いった。このときも私は、一部行動の描写を省略して記述した。どういうことかというと、私は「部屋の鍵も持って廊下に出」たが、ドアに施錠はしなかったのだ。本当に鍵を持って出ただけだ。そのまま私は乱場の部屋を訪れる。翌日の計画を練ることが目的だったのは本当のところだが、私にはもうひとつ別の目的もあった。鍵を持って部屋を出たのはそのためだ。ただ、その別目的が達せられるという保証はないため、私は鍵を持ち出すとき「念のため」と思ったのだ。だが、幸か不幸か、その目的は達せられることとなった。私と話をする前に、乱場がトイレに立ったのだ。「ベッドに腰を下ろして待つことにした」私は、「サイドテーブルに」「鍵が置いてある」ことを目にした。ここで私は、また行動の一部の記述を省略した。その鍵――乱場の部屋の鍵――を私の部屋のものとすり替えたのだ。あの妖精館の二階部屋の鍵は、「第5章 モノクロームの佳人」にも記述したように、「よくある銀色のシリンダー錠の単品だけで、ホテルのもののようにキーチェーンが繋がっているということはな」いものだった。よって、見た目だけで鍵の判別をつけることはほぼ不可能だ。その後、トイレから戻った乱場と打ち合わせを済ませ、私は乱場の部屋を出て自室へ戻り、そして待った。時間が経つのを。隣室の乱場が寝静まるのをだ。

 深夜一時。もういい頃合いだろうと思った私は部屋を出た。すり替えた乱場の部屋の鍵を手にして。

 音を立てないよう慎重に乱場の部屋のドアを解錠して、中に滑り込んだ私は、再び室内からドアに施錠をした。窓際に寄った私は、引かれていたカーテンを少しだけめくり、月明かりを部屋に招き入れた。蒼い月光を重ねた乱場の寝顔は、私がこれまでの人生で目にしてきたあらゆるものの中で、一番美しかった。

 それから十分程度経過した頃だっただろうか。私は気配を感じて振り返った。施錠したはずのドアが開かれていた。そこに立っていたのは……笛有霞。彼女の表情が、にやりとした淫楽(いんらく)を秘めたものに変わったのが、薄い月明かりの中でも分かった。


 私は自室に場所を移して霞と話し合った。乱場の部屋の鍵は再び私のものと交換して彼のサイドテーブルに戻し、ドアは霞が持っていたマスターキーで掛けてもらった(霞が現れたのは完全にイレギュラーな出来事だった。本来の計画では、翌朝、乱場が洗面に立った隙を見て鍵を元通りに交換するつもりだった。というのも、その前日の朝、乱場は洗面に行く程度の短い時間では、わざわざ部屋に施錠はしないことを確認済みだったからだ)。

 この夜に霞は、そもそも最初に私の部屋を訪れていたのだった。だが、ドアには施錠がされておらず、中に私の姿もない。おかしいと思い廊下に出てみると、その隣室――乱場の部屋――から何やら物音がするのを不審に思い、鍵を開けて中を覗いてみたということだった。

 霞が私の部屋を、しかも、あのような深夜に訪れた理由、それは、ある意味、庸一郎(よういちろう)の言葉を事前に裏付けていたと言えた。彼女は、私を自分たちの仲間に引き入れようとしていたのだ。

 彼女は詳しくは語らなかった(大麻を扱っていることも含めて)が、自分たちが非合法な商売を営んでいることを告げ、外部に信頼の置ける連絡係のような存在を置きたいと考えているとも語った。その白羽の矢が立てられたのが、私だったというわけだ。自分のミスで旋回橋を架けっぱなしにしてしまい、そこへ私たちが迷い込んできたのを運命的なものと感じたらしい。

 その中で、選ばれたのがどうして私だったのか。その答えはこの日(午前零時を回って日付が変わっていたので、正確には前日)の昼、リビングで昼食後にコーヒーを飲んだときにあった。あのとき、霞は刺激的な服に身を包み、私たちを挑発するように話し掛けてきていたが、あれは霞が仕掛けた一方的な「採用試験」だったのだ。扇情を煽る自分の言動に対して、どれほど冷静にいられるかを試すための。霞いわく、「下心の強すぎる男は馬鹿だから信用できない」そうだ。では、河野(こうの)を始め女性陣はどうなのか、と訪ねたら、「女は問答無用で信用できない」らしい。そういう命題であれば、自分や火櫛もそこに含まれていることになるのだが。

 その「試験」の結果、私が合格と相成った。霞の色香に惑わされなかったのは、飛原(とびはら)も同じだったはずだが(もっとも、この時点で彼は、大麻草のことを知ってしまっていたため、そのことで頭がいっぱいだっただけだろうが)、飛原は顔が好みでなかったらしい。それを聞いた私は、不覚にも吹き出してしまった。また、霞は乱場に対しては「試験」を行わなかったが、その理由も教えてくれた。試験をするまでもなく、霞は乱場を妖精館に強制的に留め、自分専用の「使用人」として使うつもりだった。使用人というか、それを語っていたときの霞の口調と表情からすれば、もっと他の「目的」のために乱場を使おうとしていたことは明白だった。霞は顔を火照らせており、息づかいも荒くなっていたからだ。このときばかりは、私も彼女にシンパシーを感じた、などと書くと怒られるだろうか。

 私は訊いた。「私がそちらの仲間になったとして、そうしたら他のみんなはどうなるのか」と。霞の答えはシンプルだった。「決まっているでしょ、全員殺すわ」そう口にしてから微笑み、「乱場くん以外はね」再び淫楽に歪んだ笑みを浮かべた。

 私は拒絶した。これはかっこつけて言うわけではないが、少しのためらいもなかった。また、霞のほうもしつこく勧誘を繰り返すことはなかった。「じゃあ、まず最初にあなたを殺すわ。みんなが見ている前で」それだけ言い残すと、何事もなかったかのように部屋を出て行った。まるで、ちょっと知人の部屋に立ち寄って世間話を済ませただけ、とでもいうように。


 ひとり残された私は、あることに思い至った。霞はマスターキーを持っている。火櫛が飛原と村茂(むらしげ)を仕事に駆り出したとき、確かに掛けたであろう玄関扉の鍵を解錠したのも霞だろう。なんのために? 文字どおり、私たちを外に出すためだったとしたら? 乱場たちは一階東館の捜索に当たり、私の班も外に出る。そうなると、その間二階は完全にがら空きとなる。霞はそれを狙っていたのだとしたら? 私は鞄を引っ掴むと、中にしまってある「もっとも大事なもの」の確認に当たった。カプセルのひとつの中身がすり替えられているのに気が付いたのは、このときだった。さらに、霞がこの鞄の中身を漁ったのであれば……。

 私はその鞄に一冊のノートを入れていた。乱場のワトソンとして不可能犯罪の現場に立ち会うようになってから、私自身も、乱場が相対する超犯罪者のような、人の目を欺く殺人トリックの考案をひとつの趣味とするようになっていた。やはり私の本質は、探偵側ではなく犯罪者側にあったということなのだろうか。私は頭に何かのトリックが思い浮かぶたび、そのノートに書き綴っていたのだ。当然、このノートは乱場にも誰にも見せたことはない。それらのトリックの中には、カプセルに入れた毒を口に含んで自分の飲料に混ぜ合わせ、それをターゲットの飲料とすり替えるというものもあった。

 ちなみに、私が考えていた、このトリックを成功させる条件というのは、いささか煩雑で実効性に欠けるものだった。どういうものだったかというと、まず、殺そうとするターゲットが自分(犯人)に好意を持っているという前提条件がなければならない。犯人は自分のカップに毒を入れたあと、自分に好意を持っているターゲットのそばまでいき、カップをすり替える。もしターゲットがカップのすり替えに気付いたとしても、残されたカップは好意を持つ人のものだから、何を指摘すること嫌がることもなく、そのまま毒入りのカップを口に付けるだろうという、僥倖(ぎょうこう)に頼りきった、犯人にとって実に都合のよい不完全な仕掛けだったのだ。

 霞はこのノートも目にしただろうか? いや、したに違いない。加えて、シアン化カリウムも彼女の手の中にある。霞が私を殺すとしたら、このトリックを仕掛けてくる可能性は大いにあると感じた。というよりも間違いないだろう。であれば、わざわざカプセルの中身をすり替えることはない。カプセルごと持って行けばいいだけの話だ。まさか、私がそれに気付いたとしても、「青酸カリの入ったカプセルを盗まれた」などと大っぴらにするはずがない。中身をすり替えたということは、私にシアン化カリウムが盗まれたということを悟られたくなかったということだ。どうして悟られたくないのか。あのトリックから私の目を逸らすためだ。

 霞がそのノートを読んだという状況証拠もある。その日の昼、外の探索から返った昼食後、コーヒーを飲んでいたときに霞は私に対して、「脚本家とか似合うと思」うと口にしたことがあった(「第13章 妖艶妖美」)。いきなり何を言い出すのかとそのときは思ったのだが、あれは彼女が私のノートを盗み見たからこそ口を突いて出てきた言葉だったのではなかったか。

 そっちがその気ならば……。私は覚悟を決め、昼間に貰った風邪薬の中に、シアン化カリウム入りカプセルを混ぜて一緒にしておいた。来るべきときのために。


 正直、霞のトリックを回避するだけであれば話は簡単だった。すり替えられたコーヒーを飲まなければいいというだけのことだ。私の隠し持っていた毒を使うつもりだということから、恐らく霞に二発目の「弾」はないだろう。庸一郎に使っていた砒素は持っているだろうが、庸一郎が未だ健在であることから分かるとおり、あいにく砒素に即効性はない。このトリックに使える毒物ではないのだ。だが、私は何としても霞を殺さねばならないと思っていた。みんなを守るため? その気持ちもないではないが、霞の生死がどうあれ、火櫛や庸一郎がいる時点で、私たちに向けられた殺意を回避する術はなかっただろう。実際、霞の死後に火櫛が取った行動がそれを如実に表している。

 私が霞を殺さねばならなかった理由。それは、私が乱場の部屋に侵入した現場を目撃されてしまったためだ。意図して書くのを避けたが、霞は私を仲間に引き込もうとした際、断れば「あのこと」をばらす。という脅しも掛けてきていた。誰に「ばらす」と? 当然、乱場に対してだ。それだけは絶対に避けなければならなかった。私があの夜、眠っている乱場に対して行った行為を知るものなど、この世に決していてはならない。私が霞を殺した動機は、私怨のためだったとはっきり言える。

 最後に、我が名探偵、乱場秀輔に心より賞賛の拍手と感謝の言葉を送りたい。短い間だったが、彼のワトソンとして、ともにいくつかの事件に関われたことは、幼い頃より古今東西の名探偵が活躍する事件記録小説を好んで読んできた私にとって、望外の喜びだった。興奮の日々だった。私の中で彼は、崇拝すべき名探偵という立場を越えた存在となっていたのだ。



 書くべきことはすべて書ききったようだ。この辺りで筆を置くことにしよう。妖精館や火櫛たちが、このあとどう処せられるのか、私は知らないし、知ることもないだろう。なぜなら……。

 さて、私の身柄は現在、地元の病院からさらに警察病院へと移されている。本来ならば拘置所へ送られるところだが、まだ胸の傷が完治していないための処置だった。当然持ち込める道具は極めて限定されたし、身体検査もされた。だが、さすがの警察も、私の胸に巻かれた包帯を解いて、その傷口を開いて見るという乱暴な真似まではしなかった。おかげで私は、この警戒厳重な警察病院内に、シアン化カリウム入りカプセルを持ち込むことに成功した。私が仙台市内の病院から会津若松市内の病院に移る際、一時帰宅したときに持って来たものだ。私があの撮影旅行に持って行ったシアン化カリウムは、二つのカプセルに入れた分だけだったが、自宅にはまだストックがあった。

 私は密閉された血まみれのビニール袋を開け、つい今しがた、その中に入れておいたカプセルを飲み込んだ。

 胃の中でカプセル剤が融解し、胃酸と反応したシアン化カリウムがシアン化水素を発生させるまで、どれほどの時間が掛かるのかは分からない。最期のときが訪れるまで、私は書き続けようと思う。何について? ひとつしかない。今、私の頭の中に浮かんでくるものは、それだけだからだ。乱場秀輔(しゅうすけ)。彼と出会ったことで、私の中にあった美の価値観は根底からひっくり返された。そこに湧き上がってきた気持ち、私が彼に対して抱いた感情について、違和感や嫌悪感を憶えることは一切なかった。それは何もおかしなことではなく、ごく自然な、むしろ美しいものなのだと確信できて

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― 新着の感想 ―
自分のコップに毒を入れて、それをすり替えることで殺すトリックは思い付きはしたけど、それだとすり替えられた人が生きているのに説明がつかないから、実は火櫛が犯人であらかじめ適当なコップの底にカリを少量捲い…
[良い点] ヴァンダインです、並みの衝撃でした。どんでん返しというか、作品に対するイメージがこうもガラリと変わるものか、という衝撃の真相ですね。お見事です。 そして、最後の独白部分で、ノートのくだり…
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