第28章 相死相遭
「口紅……」私も思い出した。「霞さんが使ったはずの割れたカップに口紅がついていなかったことを、乱場くんが発見して分かったんだったね」
「はい。霞さんは口紅をつけていなかったというよりも、落としていたというほうが正しいでしょうね。これも石上先輩も憶えてくれていたことですが、あの日の朝食を食べた段階では、霞さんは間違いなく口紅をつけていました。このことは他のみなさんたちにも確認しました。特に、食器を洗った河野さんや朝霧先輩は強く保証してくれましたよ。霞さんが口を付けたスープカップやナプキンには、間違いなくあの桜色の口紅が付いていたと。なのに、数時間後のコーヒータイムになると、きれいに口紅は落とされていたんです」
「たまたまだったということは?」
「僕たちの見る霞さんは、いつも必ず口紅をつけていました。僕たちの前に出るからなのか、普段からそうだったのかは分かりませんが。なのに、あのときだけ霞さんが口紅をつけていなかったというのには、何か理由があるはずなんです」
「それが事件に関係してくる?」
私が訊くと、乱場は一度難しい顔をして、
「そうです。僕は、この犯行は段階を置いて実行されたものだったと思うんです」
「段階というのは?」
「それはですね、犯人は、まったくゼロの状態からいきなり霞さんを毒殺したのではないということです。犯人が霞さん殺しを実行するためには、前段階の〈ある仕掛け〉が完了している必要がありました。その段階をクリアしていたからこそ、犯人は霞さんの殺害を実行に移すことが出来たのです。その前段階の仕掛けの布石として打たれたもの、それが、霞さんが口紅をつけていないということだったのです。もちろん、霞さんが口紅をつけていないというのは、霞さんの意思でなされたことのはずです。つまり、その毒殺実行に必要な前段階の仕掛けというのは、犯人側でなく、霞さんの側から仕掛けられたものだったのです」
「霞さんのほうから仕掛けた……。どういうことか分からないな」
「つまりですね……」乱場は一度言葉を止めて、「犯人が霞さんを殺そうとしていたように、霞さんもまた、犯人を殺そうと画策していたということです。しかも、同じ毒殺という手段を使って」
「なんだって!」
私は再び背筋を伸ばすこととなった。激痛が走り、多少表情に出てしまったが、それを気にしている場合ではなかった。対して、乱場は冷静な表情を崩さないまま、
「霞さんが口紅をつけていなかったのは、その毒殺トリックを成功させるためだったのです。霞さんが仕掛けたトリックは、こうです。まず、霞さんは、青酸カリを入れた薬剤用カプセルを口に含み、その状態でリビングに入ります。青酸カリの致死量は、成人の場合ですとおよそ二百から三百ミリグラムですが、市販されているカプセル薬ひとつの容量は、標準的なもので三百ミリグラム。ひとり分の致死量を入れておくにはぴったりです。ああいったカプセルというのは、唾液だけではそう簡単には溶解しません。口内を乾かした状態にしておけば、一分くらいはカプセルを破らずに口に含み続けることが可能です。舌の裏に入れておけば、会話も特に不自由なくこなせます。僕も試してみましたから」
「毒入りのカプセルを口の中に……でも、いったいどうやって、口に中にある毒を相手のコーヒーに入れるというんだい」
「もちろん、直接相手のコーヒーに口中の毒入りカプセルを投入するなんて、出来るわけありません。そんなことをしたら一発で見咎められてしまいますからね。実際、霞さんがそんな怪しい行動をしている現場を目撃した人は誰もいませんでした」
「じゃあ、どうやったと」
「霞さんが毒入りカプセルを入れるのは、自分が飲んでいるコーヒーです」
「自分のコーヒー……」
「そうです。霞さんは村茂さんのもとからコーヒーを取ると、自分のソファに座るなり、すぐにコーヒーに口を付けました。そのときです、カプセルをコーヒーに入れたのは。つまり、カップに口をつけてコーヒーをすすりはしますが、飲み込みはしないんです。口の中に一度入れたコーヒーを、カプセルと一緒にカップの中に戻してしまうのです。カプセルはコーヒーに浮かびますが、もともと口の中に入れられていたカプセルは柔くなっており、熱い液体に浸かることですぐに溶解、中身の青酸カリがコーヒーに溶け込むというわけです。僅かの時間、溶けきらないカプセルがコーヒーに浮いているのを見られる可能性はありますが、霞さんの席はメインのテーブルから離れていたため、誰の目にもつくことはなかったし、霞さん自身にそういう計算もあったことでしょう。もしくは、これは究極の手段ですが、口にコーヒーを含んだ際、口内でカプセルを噛み砕いてしまって、完全に青酸カリを溶解させたコーヒーをカップ内に戻すという荒技も可能でしょうね。
それに、このトリックに考え至ったあとで思い返してみると、あの日、霞さんはリビングに遅れて入ってきましたが、あれも理由があってのことだったと分かります。恐らく霞さんが口内に毒入りカプセルを含んだのは、リビングに入る直前の廊下でです。口にカプセルを入れる現場を目撃されるわけにはいかないですし、毒入りカプセルを含んでいる時間をなるべく短くしたいという理由もあります。あまりに早くや、時間ちょうどにリビングに入って、まだ村茂さんがコーヒーを抽出している最中だったりしたら、目も当てられませんからね。だから霞さんは、自分が主催したにも関わらず、なるべく遅くリビングに入り、また、入室するなり自分からコーヒーを貰いに行き、席に着いてすぐに飲んだ――正確には飲む振りをしてカプセルをカップに移動させた――のです」
「口の中にある毒入りカプセルを、早くコーヒーに溶かしてしまうために……。でも、そんなことが……」
「不可能ではないはずです。さっき言った、カプセルを噛み砕き、口内で青酸カリをコーヒーと混ぜ合わせるという強行手段を行使したとしてもです。青酸カリ――シアン化カリウムという物質は、胃液と反応した時点で有害なシアン化水素を発生させ、この気体を肺から吸収させることで、嚥下した人間を死に至らしめます。口に入れるだけでは無害、とはもちろんいきませんが――口内はほぼ全て粘膜ですからね。粘膜への毒物の接触は、それ自体非常に危険ですから。ですが、即座に命が危機に晒されるほどではないでしょう。口の中に存在するのはごく僅かな時間で、すぐにカップに戻すわけですし、コーヒーに溶けて薄められた状態になってもいますからね。多少、気分が悪くなったりする可能性はあるでしょうが」
「し、しかし、その手段を使って毒入りコーヒーを作り出せたとしても、それはあくまで自分の、霞さん自身のコーヒーであることに変わりはない」
「そうです。ここまでは犯行の第一段階。第二段階として霞さんが取る行動は……すり替えです。その毒入りコーヒーが入ったカップを、殺害の標的とした人物のカップとすり替えるのです。あのとき使われたカップは全て同じデザインのもので、個々の見分けはつけられませんから」
「……すり替える」
「そうです。あのコーヒータイムのとき、霞さんが口紅をつけていなかったのは、そのすり替えを成功させるためだったのです」
「口紅をつけないことと、カップのすり替えに、どういう関係が……」
「大いに関係があります。このトリックを行うにおいては、口内にある毒を自分のコーヒーに混入させるために、どうしても一度カップに口を付けなければなりません。もし、口紅をつけていたとしたら、どうなるか」
「……カップに口紅が移ってしまう」
「そうです。これからすり替えて相手に渡そうというカップに、そんな目立つ印をつけるわけにはいきません。どんなに巧妙にすり替えを成功させたとしたって、そのカップが縁に口紅がついているものだったとしたら、いざ飲む段階で、相手に一発でばれてしまいますからね」
「霞さんがあのときに限って口紅をつけていなかったのは、カップのすり替えを成功させるため……」
「そうです」
「し、しかし、乱場くん、それでも実際に毒殺されたのは、やはり霞さんのほうだ」
「そこです――」乱場は私を指さしたが、すぐに「すみません」と指を下ろして、
「今、石上先輩がおっしゃったように、あの場で殺されたのは霞さんでした。どうして? 霞さんはやはり自殺だったのでしょうか? 自分で毒入りコーヒーを作って、それを自分で飲んだのでしょうか? そんなわけがありません」
「そう言い切れるかい? あれが、誰も毒を入れることが出来なかったはずのシチュエーションで謎の毒殺を〈演じる〉という、霞さんの命を投げ出した不可能犯罪パフォーマンスではなかったと、言い切れるかい?」
「言い切れます」乱場の声に惑いはなかった。「霞さんが口紅を落としていたというのが、その根拠です。他殺を演じて自殺するのであれば、わざわざ口紅を落としてくる必要がないからです。その直前の朝食時にはつけていたはずの、そして、僕たちが見ると必ずつけていた、あの口紅を、そのときに限ってつけていなかったというのには、必ず何か理由があるはずです」
「その理由が、今乱場くんが推理した、毒入りコーヒーすり替えトリックのための布石だったと」
「そうです。確かに、霞さんが自殺である可能性と、コーヒーすり替えで誰かを殺そうとしていた可能性、それはどちらも存在します。どちらもあり得ます。この問題単体で考えても答えは出ません。一方、霞さんが口紅をつけていなかったという事実に説明をつけられる理由というのは、これもまた単独では存在しません。たとえば、ただの気まぐれだったという可能性を否定する材料はありません。やはり答えは出ません。ですが、霞さんの死と口紅の問題、この両者を結びつけて考えてみたら、どうでしょう。合理的な答えが浮かんできます。カップすり替えを悟られないための処置、という答えです。ええ、この答えだって、確固たる証拠に裏打ちされているわけではありません。あのとき使ったカップは、火櫛さんが全部洗ってしまいましたからね。物証はありません。でも、この符号を『ただの偶然』で片付けてしまうのは、証拠もないのに都合の良い憶測を盲信するのと同じくらいに危険なことだと、僕は思います」
「……それはよく分かる。乱場くんの推理を絶対的に肯定する物証はないけれど、同時に否定する物証もない。であれば、より意味性の高いほうを選択するべきだと私も思うよ」
「ありがとうございます。まあ、僕がこう推理することを見越して、誰かに罪をなすりつけるため、霞さんがわざと口紅をつけずに自殺した、という解釈も可能ではありますけれど」
「それは相当にひねくれた考え方だね」
そう口にしながら、内心私は感嘆していた。もちろん乱場の推理に対してだ。この興奮が顔に出ているのではないかと心配したが、同時にまた、だからといって困るようなことでもないか、とも思っていた。傷の痛みは感じていなかった。
私は、できるだけ冷静な口調になるよう努めて、
「だが、乱場くん。意味性や霞さんの思惑がどうあれ……何度も言うようだが、実際、その霞さんのほうが毒入りコーヒーで死んでいるんだ。『霞さんは自殺ではなく他殺である』このことを合理的に説明できるのかい? 物証は絶望的としても、最低限、それが行われうる現実的な手段、トリックが必要になるよ」
「はい。それに対する答えも、もちろん用意しています」
「もしかして、殺される側のほうが、霞さんの計画を知り、すり替えられたコーヒーを、またすり替え直したとか?」
「いえ、それは難しい、というか、ほとんど不可能でしょう。霞さん自身が、自分が最終的に手に取るカップについては細心の注意を払っていたはずです。よそ見などをして、すり替えたはずの自分のカップをまた手に取る、なんていう馬鹿なミスを犯してしまわないように。霞さんは、間違いなくすり替えた相手のカップを手にして、その中身を飲んだはずです。しかしながら、それでもなお、霞さんが毒死してしまったというのは、これはもう、ひとつしか手段――トリックは考えられないじゃないですか」
「それは、つまり……」
「そうです。相手もまた、自分のカップに毒を入れていたんです」
「相手も毒……だ、だが、どうやったっていうんだい。カップに何かを混入するような怪しい動きをした人間はいないことになっているのに」
「決まっています、霞さんと同じことをしたんですよ。あらかじめ口内に含んでいた毒を、コーヒーを飲む振りをしてカップの中に入れるという、霞さんが用いたのと同じトリックを使ったのです、その相手、いえ、犯人は。だから、霞さんは間違いなく相手のカップを手に取ったにも関わらず、毒死してしまったのです」
「同じトリック……」
「そうです。思えば皮肉なものですね。霞さんは、庸一郎さんが自分に砒素を飲ませようとしていたことを見破り、その砒素を逆に食事に混ぜて返すことで、庸一郎さんを砒素中毒に追いやりました。それが、今度は自分が仕掛けたトリックを返されて、自分が死んでしまうことになったのですから」
「し、しかし、その犯人は、どうして霞さんが自分を殺そうとしていることと、加えて、そのために使われるトリックのことまでを知っていたと……」
「分かりません」
「えっ?」
「そこまでは分かりません。僕はみなさんを駒としか見ていませんから。駒の抱えている人間関係や裏事情までは知りません。霞さんと、その相手との間に、どんな関係があったのかも。ですが、その相手、霞さんが殺そうとしていた人物、つまり、同じトリックを返すことで霞さんを殺した犯人を特定することは可能です」
「特定? どうやって?」
「さっきの動画を思い出して下さい。村茂さんを皮切りに、霞さんが僕たちの間を縫うように訪れていった、あの行脚。カップのすり替えが行われたのは、その最中です。そこしか機会はないからです。そこで霞さんがカップをすり替えた相手が、すなわち犯人というわけです」
「それが誰か、特定できると?」
「できます」乱場は一度言葉を止めて、深呼吸をすると、「まず、問答無用で犯人候補から外せる人物が三人います」
「それは分かる。乱場くん、汐見さん、朝霧さんの三人だ、この三人は、そもそもコーヒーを飲んでいなかった」
「そうです。コーヒー以外のものを、しかも霞さんと同じカップでなく、食堂から持って来たグラスで飲んでいる以上、すり替えが行えるはずがありませんからね」
「ああ」
「次に、このトリックを行うには、対象者の近くに行って、テーブルにカップを置き、すり替えの隙を作るために会話をする必要があります。このことからも除外出来る人物が出てきます」
「……飛原さんと、火櫛さんだ」
「そうです。霞さんは、その二人のところへは訪れませんでしたからね。ひと言も会話をすることなく、一歩も立ち止まらずに、その両者を素通りしています。つまり、カップのすり替えは不可能」
私は頷いた。
「さて、次に、訪れたけれど、カップのすり替えは行われていないと断言できる人物がいます」
「村茂さんだ」
「はい。動画にはっきりと映っていましたね。霞さんは村茂さんを訪れて、テーブルに一旦カップを置きましたが、離れるときには、間違いなく自分が置いたものと同じカップを手にしていました。よって、すり替えは行われなかった」
ここでも私は頷いた。
「次です。ターゲットとなった人物のもとを訪れ、霞さんがカップをすり替えたのだとしたら、霞さんが離れた時点で、その人物のもとに残るのは、本来は霞さんのものだったカップ、つまり、毒入りコーヒーが入ったカップだということになりますね」
「当然の帰結だね」
「はい。ということは、ここでまたひとり除外できる人物が出てきます」
「……誰が」
「高井戸さんです。動画では、霞さんが離れたあとで、高井戸さんは自分のカップを手にしてコーヒーを飲んでいます。もしすり替えが行われていたのだとしたら、高井戸さんが飲んだものは毒入りコーヒーだったはずですから、この時点で彼は死んでいなければなりません」
「つまり、高井戸さんのコーヒーはすり替えられていない」
「そうなります。次に、すり替えられたという証拠映像もなく、霞さんが離れたあとにコーヒーを飲んでもいないけれど、すり替えが確実に行われていないはずだと断言出来る人物が、ひとりいます」
「それは……」
「河野さんです」
「どうして?」
「だって……河野さんが飲んでいたコーヒーには、ミルクが入っていたからです」
「――」
「霞さんが飲んで死んだコーヒーはブラックでした。ということは、すり替えた相手のコーヒーもそうだったはずです。ジュースのときと同じ理屈です。ミルクを入れたはずのコーヒーが、いつの間にかブラックになっていた、この異常事態に気付かない人はいないでしょう。よって、河野さんも除外されます」
「……」
「最後に残った人物は、ただひとり……」
乱場の瞳が私を見据える。吸い込まれそうだ。
「霞さんを殺した犯人は……あなたですね、石上先輩」




