第22章 赤い異変
「どうかしましたか」
数秒ほど私たちと視線を交差させてから、火櫛が口にした。その手が霞の懐から抜かれる。当然だが、何も手にしてはいなかった。
「火櫛さんは、何を?」
乱場が訊き返すと、
「探しものです」火櫛は霞の遺体から離れ、リビングの床を見回しながら、「あなたがたは、何の用事でここに?」
反問の誤魔化しで見逃してはくれなかった。
「現場検証です――」乱場はリビング中央に目を向けた、が「火櫛さん!」
すぐに視線を火櫛に戻した。その理由は私にも分かった。テーブルの上が、綺麗に片付けられている!
霞の死亡時、私たちがそのままにしていったカップも、コーヒーメーカーも、綺麗に消えてなくなっていた。
「カップや……コーヒーメーカーは?」
「厨房に持って行って洗いました」
「現場は、そのままにしておいてくれるはずでは?」
乱場は火櫛に詰め寄った、が、
「約束をした憶えはありません」
そう返されて終わりだった。
「霞さんが使っていたカップは?」
せめてそれだけは、という願いが籠もるような声で乱場が訊くと、火櫛は部屋の隅に寄せられていたサイドテーブルのひとつを顎でしゃくった。そこにはクロスが敷かれ、カップの破片がひとまとめにしてあった。
乱場はそれを見て安堵のため息を漏らすと、霞がカップを取り落とした場所に屈み込んだ。
「コーヒーの染みは拭き取りましたよ」
火櫛に掛けられた、にべもない言葉にも乱場は動じなかった。確かに彼女の言ったとおり、床のどこにも染みは見当たらない。これでは床を這いずり回っても無意味なのではないか? と私は思った。が、屈み込んだ乱場は、床を見ながら懐に手を入れた。彼の狙いを察知した私は、
「火櫛さん、何を探しているのですか」
乱場のそばを離れて火櫛に声を掛けた。彼女の視線が私を向く。
「あなた方には関係ありません」
ぶっきらぼうに答えた火櫛が、何か(それが何であるか、私たちには分かりすぎるほど分かっているが)を探すような目つきで、再び床に視線を戻そうとした、そこに、
「これ、何ですか?」
乱場がソファの下に突っ込んでいた腕を引き抜いた。その手には先ほどまで私たちが使用していた鍵が摘まれている。床を調べている最中に、偶然発見したふうを装ったのだ。火櫛は乱場に駆け寄り、ほとんど引ったくるように鍵を受け取ると、
「これを、どこで?」
「ソファの下に落ちていました」
乱場は立ち上がって答えた。火櫛は、手にした鍵と乱場とを交互に見やる。その目は若干の疑いを孕んでいるように思えたが、私の気のせいであってくれと願う。乱場の芝居は完璧だった。私が火櫛の視線を誘導したことで、乱場が鍵を持ったままの手を懐から出すところは目撃されていないはずだ。最終的に火櫛は、鍵を握りしめて無言でリビングを出て行った。彼女の足音が聞こえなくなると、私は、
「ふぅ……」ため息をついて汗を拭い、「危ないところだったね。まさか、もう火櫛さんが鍵を回収しに来ていたとは」
「はい。でも、助かりました、石上先輩。さすがです」
乱場も安堵の息を吐いた。
「ワトソンとして、少しは役に立ったかな」
「そんな。石上先輩あっての僕ですから。石上先輩がいなかったら、僕は探偵なんて続けられませんよ」
乱場は微笑みを向けてくる。そこにあるのは、ごく普通の高校一年生の顔だった。この少年が探偵。そして私は彼のワトソン。乱場が掛けてくれた言葉を聞いて私は、誇らしく思うとともに少しの寂しさも感じた。
「さて、私たちも戻るか、乱場くん」
「いえ、せっかくだから、本当に現場検証をしていきましょう」
乱場は探偵としての顔に戻った。
指紋を付けぬよう、ハンカチ越しに乱場は、サイドテーブルに載ったカップの破片をひとつ一つ摘み上げ、じっくりと観察していく。
「そのカップの破片が、どうかしたかい?」
私も彼の隣に膝を立てた。乱場は、いくつかの破片を順に、ためつすがめつ眺め回し、
「……変ですね」
「何が?」
私の疑問に答えぬまま、乱場は立ち上がった。次に彼は、ソファに寝かせられた霞の遺体に向かい、今度はその霞の顔に視線を落として、
「失礼します」
断ってから、ハンカチで霞の唇を拭い、拭った先のハンカチを凝視した。
「霞さんが、どうかしたのかい?」
私が背中から声を掛けると、
「……口紅、付けていませんね」
「えっ?」
「霞さん、口紅を塗っていません」
私も霞の顔を、その唇を見る。確かに、乱場の言ったとおり、彼女の唇には、いつも見ていた桜色の口紅が塗られていなかった。
「それが、どうかしたかい?」
「霞さん、朝食のときには口紅を付けていました」
「……ああ、そうだったね」
言われて思い出した。食事を終えた霞が口を拭ったナプキンに、いつもの桜色の口紅が付着していたのを私も見ていた。
「カップの破片に、口紅がついているものがひとつもなかったので」
乱場の言葉で納得した。それで実際に霞の唇を調べに来たということか。
「でも、乱場くん、繰り返すけれど、霞さんが口紅を付けていなかったことが、何か?」
「変じゃありませんか?」
「朝食を終えたあとに落としただけじゃないのかい?」
「変ですよ。だって霞さん、僕たちの前に出るときは、必ず口紅を付けていたじゃないですか。昨日もそうでした」
「そうだったね」私は記憶を辿り、「高井戸さんが、霞さんの口紅が付いたカップを見ていたのを思いだしたよ」
「ですよね。なのに、どうして今日、いえ、このコーヒータイムに限って口紅をしていなかったのか……」
「霞さんの死と関係があると思っているのかい?」
「まだ分かりません……ですが、気になります」
事実、乱場のこの気付きが、霞の死の謎を解く鍵のひとつとなったのだ。やはり彼は名探偵だった。
思案に耽る少年探偵の横顔を私が見つめていると、リビングの扉が開いた。しかも荒々しく。そこに立っていたのは、
「火櫛さん」
私の声に、乱場も思案をやめて顔を向けた。火櫛は柳眉を逆立てて私と乱場を睨み、
「霞様の部屋に入りましたね」
私は何も言えず、思わず乱場を見た。彼も私を見返しており、その目には驚きの色が滲んでいた。
「火櫛さん、何を――」
「電話を使いましたね」
乱場の声は、畳みかけてきた火櫛の声に消された。彼女は続けて、
「リダイヤルしたら、110番に掛かりました」
表情にこそ出さなかったが、乱場の内心は痛恨だっただろう。だが、乱場は怯むことなく、
「それが、どうして僕たちが霞さんの部屋に入ったことに繋がるんですか」
乱場の言い分はもっともだ。霞の電話から110番通報がされていたことと、私たちが部屋に侵入したこととの間には、何の因果関係もない。手袋などはしておらず、素手であの衛星電話や電灯のスイッチを触ってはいたが、まさか指紋採取までしたわけではあるまい。あのタイプの電話なら、ダイヤル時間もいちいち記録はされないだろう。確かに、霞の死亡後にあの電話が使われた証拠でもあれば話は別だが。と思っていると、
「霞様が、110番通報などするはずがない」
意味不明の根拠を返された。乱場も私も呆気に取られる。火櫛は、だが、自分の言い分には何のおかしなところもないとばかりに話を進め、
「喋ったのか? 霞様のことを、この妖精館のことを」
乱場は無言で火櫛の目を見返すだけだった。そうだろう。こんなわけの分からない根拠の提示だけで、部屋への侵入を認めるわけにはいかない。火櫛も、乱場の意思が固いことを悟ったのか、
「くそっ」
吐き捨てると、リビングを飛び出た。私と乱場も廊下に出ると、火櫛は東館奥に向かって走っていた。彼女の姿が廊下の角を曲がって見えなくなると、
「火櫛さん、やっぱり僕のことを疑っていたんですね。あのとき、鍵を見つけた芝居をしたときに」
「やむを得なかったさ。あの状況じゃ。乱場くんは最善を尽くしたよ」
私は、しょげ返っている乱場の頭を軽く撫でた。
「すみません。石上先輩もフォローしてくれたっていうのに。僕、汐見先輩の芝居のことをとやかく言えませんね」
あの仮病の芝居をしたときのことか。私は思い出して笑みをこぼしそうになった。
「さて、どうする、これから」
「とりあえず、部屋に戻りましょう」乱場はスマートフォンを取りだして、「もうすぐ、みんなで一斉に部屋を出る約束の午後二時になります。僕たちだけがいないとまずいですよ」
画面の時計は午後一時四十分になっていた。
また、足音をひとり分に抑えるため、私が乱場を背負って階段を上った。「下りよりきつくないですか?」と乱場は心配してくれたが、彼の体重は平均的な高校一年生男子よりもずっと軽いため、汐見に「優男」と称されている私でも難儀することはなかった。
私と乱場は、それぞれの部屋に戻った。私はベッドに体を投げ出す。ひと眠りしてしまいたかったが、そうも言っていられない。すぐに皆で顔を合わせる約束の午後二時が来るからだ。私は、やるべきことをやるため、机に向かうことにした。
私はこれまで乱場のワトソンとして、彼が手掛けた事件を記録してきている。今回起きたこの事件も、私の手によって綴られるべきものとなるだろう。
鞄から出したノートを机の上に広げ、ペンを握る。まさか、こんなことになろうとは、この撮影に出るときには夢にも思っていなかった。
午後二時、ペンを置いて私は廊下に出る。すでに乱場と朝霧の姿があった。それから一分も経過しないうちに、全員が部屋から出そろった。
「八人全員、無事のようだな」
村茂が私たちを見回す。私の目に特に変化が顕著なのは河野だった。見るからに憔悴した白い顔をしており、廊下の壁に背中を預けることで、やっと立っていられるとでもいうような状態だった。朝霧と汐見も心配したのだろう、河野のほうに近づいていった。しかし、それよりひと足早く、
「河野さん、大丈夫ですか」
高井戸が手を差し伸べた。最初は訝しがるように、横目で高井戸を見ていた河野だったが、
「……大丈夫、ありがとう」
笑みを浮かべて壁から背中を浮かせた。が、
「あっ!」
「おっと」
足下をふらつかせてバランスを崩し、倒れそうになったところを高井戸の手で支えられた。
「あ、ありがとう……」
「河野さん、食事はきちんと摂りましたか?」
高井戸の言葉に河野は、黙って首を横に振る。
「駄目ですよ。こんなときだからこそ、体力を付けておかないと」
「そうね……」
河野は一瞬だけ高井戸の顔を見たが、すぐに視線を逸らした。先ほどまで白かった河野の頬が若干桃色に染まってきたように見えるのは、私の気のせいだろうか。
「全員無事なことは確認出来たが」と村茂が、もう一度私たちの顔を順に見ていき、「これから、どうする?」
最後に目を留めた乱場に訊いた。
「みなさん、聞いて下さい」と乱場は改まった口調で、「実は、詳細は省かせてもらいますが、僕はつい先ほど、この館にあった電話を使って、110番通報をしました」
話している乱場と私を除く、全員が呆気に取られた顔で固まった。
「な、何だって?」
「どうやって?」
村茂と高井戸が続けざまに質問を浴びせたが、
「すみませんが、詳細は省かせて下さい。ですが、間違いなく僕は110番通報しました。これが証拠です」乱場は自分のスマートフォンを取りだし、霞の部屋で録音した110番通報の録音を聞かせると、「だから、ヘリによって広い山中からこの妖精館が発見され、突入の準備が整い次第、ここには警察や救急が駆けつけることになります」
「おお」と、どよめきが起こった。
「警察が来るって、いつなの?」
高井戸に両肩を支えられたままの河野が訊いた。
「なにぶん特殊なケースなので、まったく見当は付きません。ですが、そう時間は掛からないはずです。早ければ……明日の朝にでも」
「本当に……?」
河野の頬にさらに赤みが増した。もうひとりで立っていられるような状態に見えたが、彼女に高井戸の手を振りほどく気はないようだ。
「はい、みなさん、もう少しの辛抱です」
「やったな乱場!」
「信じていました!」
汐見と河野が乱場に飛び付いて、
「どんな手を使ったのかは分からないが、さすが名探偵だな」
村茂も明るい声を出した。高井戸と河野は顔を見合わせて微笑み合う。だが、ひとり、
「どうした、飛原? 嬉しくないのか?」
村茂が声を掛けた飛原だけは、表情――例によって何か思い詰めたような――をほとんど変化させていなかった。
「い、いや……」と飛原は乱場を見て、「それは、本当なのか? もうすぐここに……警察が来るというのは?」
「はい。この録音には、トリックも何もありません。真実、110番先の警察の通信司令室とのやり取りです」
乱場が言い切ると、「そうか……」と、今度は彼が壁に背中を預けることとなった。
ひと呼吸ついて、乱場は、
「それと、もうひとつ、警察がここに乗り込んでくる目的というのは、僕たちを救出することだけではありません」
「えっ? それ以外に、何が……」
河野が不思議そうな顔をする。
「そうか……」
と村茂は乱場が何を言いたいのか察したようだ。
「はい」と乱場は、「霞さんが亡くなった事件の捜査です」
それを聞くと皆、霞のことを改めて思い出したのか、表情を急に強ばらせる。乱場は続けて、
「これがどういう意味を持つか、分かりますよね。鑑識による徹底した科学分析と、警察による組織的な捜査の手が入るということです。指紋や毒物がどこに付着していたかという、あらゆる微細な証拠から、僕たちの人間関係まで、洗いざらい調べ上げられます。今現在、僕たちを囲っている〈閉じられた輪〉が破られるんです。そうなれば、自ずと犯人は明らかにされることでしょう。クローズド・サークル内での殺人事件が成立するのは、ほとんどの場合、警察の科学的、組織的捜査が排除されるためです」
「何が言いたいんだ、乱場くん」
村茂が訊くと、乱場は、改めて私たち全員を見回して、
「もし、この中に犯人がいるというのなら、この場で名乗り出て下さい」
「何だって!」
高井戸が叫び、河野は両手で口元を覆った。村茂は唇を噛み、飛原も片方の眉を釣り上げた。
「そうすれば、恐らく自首扱いに出来ます。犯人以外の僕たちが証言します」
「ちょっと待て!」高井戸が待ったを掛け、「犯人が俺たちの中にいるって……そりゃないだろ」
「どうしてですか?」
「俺たちは、一昨日の夜、初めてここに来たんだ。死んだ霞さんはもとより、火櫛さんも、庸一郎さんとも、ここで会ったのが初対面だ。そんな人間をどうして殺す必要がある?」
「分かりません」
「はあ?」
「動機は皆目見当が付きません。ですが、霞さんが殺されたのは事実です。ということは、犯人が必ずいるはずです」
「犯人は」と、ここで村茂が、「霞さんの父親の庸一郎じゃないのか? 下でも話したことだが、霞さんが毒殺されたことを見るまでもなく知っていた」
「そうよ! 犯人は、あの薄気味悪い男に決まってるわ!」河野も庸一郎犯人説に同調して、「それに、あの火櫛っていう女も怪しいわ。みんなも聞いたでしょ、霞さんが自殺したんじゃないかって、汐見さんが言ったとき、『霞が自殺なんてするはずない』と言い返してたわ。霞さんのことを呼び捨てにしてよ」
確かに河野の言葉どおり、火櫛は「あの霞が自殺なんてする玉か!」と叫んでいた。
「それに」河野の話はまだ続き、「あの人、最初から態度が変だったわよ。霞さんのことを妙に邪険に扱うときとかあって。本心では彼女のことを憎んでたのよ。だから、殺した」
河野の説に反論をぶつけるものは誰もいなかった。このまま廊下で話していても埒があかないとみたのか、乱場は、
「とりあえず、また食堂から食べ物や飲み物を持って来て、籠城を続けることにしませんか。僕たちがこうしている以上、もし犯人が第二の犯行を企てていたとしても、手は出せないはずです」
「ああ、それに」と村茂が、「遅くともあと数日後には解放されるんだ。ゴールが見えていると分かれば、何日だって籠城してやるさ」
完全に不安を拭い切れてはいないような表情ながらも、笑みを浮かべて自分の手の平を叩いた。
それから私たちは飲食物を補給して、再び籠城に入った。今後の顔合わせ及びトイレ時間は二時間ごとに行うことも決めた。よってこのあと、午後四時、六時、八時、十時と四回廊下に出ることとなる。午後十時を最後に就寝することとし、朝六時に起床、それからまた二時間ごとの顔合わせのサイクルに入ることとなった。その間、食堂に下りても、火櫛にも庸一郎にも会うことは一切なかった。
異変が起きたのは、この日最後の顔合わせとなるはずの、午後十時少し前のことだった。机に向かっていた私は、ごうごう、という音を耳にすることが出来るのに気付いた。窓の外からだった。カーテンを引いて窓外を見た私は、その音の正体を知った。裏手森の向こう、林立する木々を越して、カーテンのように赤いものが、ゆらゆらと揺れているのが見えた。これは、火? 火の手が上がっている! 廊下側が騒がしくなった。皆もこの異変を目撃したのだろう。私も慌ててドアを飛び出した。




